第36回=完 「第3代会長就任㊦」 一人立つ――そこからすべては始まる2024年1月25日

  • 〈君も立て――若き日の挑戦に学ぶ〉

イラスト・間瀬健治

イラスト・間瀬健治

【「若き日の日記」1960年(昭和35年)5月6日から】
私は進む。私は戦う。私は苦しむ。
如来の使い、大衆の味方の誉れ高き、無冠の勇者として。

第3代会長就任式に臨む池田先生(1960年5月3日、東京・両国の日大講堂〈当時〉で)

第3代会長就任式に臨む池田先生(1960年5月3日、東京・両国の日大講堂〈当時〉で)

 
師の声は己の生命に

 1960年(昭和35年)5月3日の朝、前夜の雷雨とは一転して、雲一つない日本晴れの大空が広がった。池田先生は、第3代会長就任への不惜身命の覚悟をしたためた。
 「負けるなと 断じて指揮とれ 師の声は 己の生命に 轟き残らむ」
 第3代会長就任式となる第22回春季総会。会場は、東京・墨田区の日大講堂である。池田先生は大田区小林町の自宅から、タクシーで講堂へと向かった。池田先生は、戸田先生の形見である黒のモーニングを身にまとっていた。香峯子夫人が、「會長」と書かれた菊花の胸章を胸に挿した。
 正午、開会が宣言されると、音楽隊の勇壮な演奏が始まった。学会歌が響き渡る中、池田先生が入場。前方に掲げられた恩師の遺影を見上げ、不二の誓いを刻んだ。
 “今、先生の後を継いで、今世の一生の大法戦を開始いたしました。生死を超えて、月氏の果てまで、世界広布の旅路を征きます。ご照覧ください”
 午後1時半、先生が登壇し、第3代会長就任の大師子吼を放った。
 「若輩ではございますが、本日より、戸田門下生を代表して、化儀の広宣流布を目指し、一歩前進への指揮を執らせていただきます!」
 さらに、恩師の七回忌までの目標として、300万世帯の達成を掲げた。
 戸田先生が第2代会長に就任した51年(同26年)5月3日から9星霜――32歳の青年会長を中心とした、学会の新たな前進が開始された。
 総会に続いて行われた祝賀会が終わり、池田先生が退場しようとすると、「ワーッ」と青年たちの声が上がった。一人一人が、先生の方へ駆け寄っていく。先生は担ぎ上げられ、体が宙を舞った。
 「万歳! 万歳!……」
 胴上げの横で、歓喜の唱和が広がった。
 この日、先生は日記に書きとどめた。
 「創価学会第三代会長に就任」「恩師の喜び、目に浮かぶ。粛然たり」「将らしく、人間らしく、青年らしく、断じて広布の指揮を」(『若き日の日記』、1960年5月3日)

「會長」の胸章を挿す香峯子夫人(1960年5月3日、日大講堂〈当時〉で)

「會長」の胸章を挿す香峯子夫人(1960年5月3日、日大講堂〈当時〉で)

 
ご恩を返す時

 第3代会長に就任する前月の1960年(昭和35年)4月1日、池田先生は戸田先生の三回忌法要で語った。
 「先生より薫陶を受けた人々は、先生の仰せ通りに、まっすぐに、清らかに、後輩に教えていくべき義務があります」
 「先生にお目にかからなかった学会員の皆様方であっても、決して卑屈にならないで、先生のご精神に応える道は、先生のお教えを実践すれば通ずると確信して、前進していただきたい」
 池田先生の第3代会長推戴の動きが起こったのは、三回忌の目前の3月30日。その日の午後、当時の理事長から先生に、正式な会長就任の要請があった。
 「今のままでは、学会の新しい発展はありません。会内には、先生の会長就任を待ち望む声が高まっています。どうか、今年の5月3日の総会で就任してください」
 しかし先生は、きっぱりと断った。32歳という若さに加え、「大阪事件」の裁判が続いていた。無罪判決を勝ち取るまでは、会長職を受けられないと決めていたのである。この日の日記につづる。
 「きっぱり断る……学会の要となって、指揮を執りゆく責任は果たす。しかれども会長就任は、七回忌にでも共に考えてゆこう、と」(『若き日の日記』、1960年3月30日)
 4月9日、臨時理事会の決定として推戴の連絡を受け、11日の緊急理事会でも理事一同から要請があった。だが、先生は固辞する。12日、13日にも理事室からの要請は続いたが、先生の気持ちは変わらなかった。
 「御仏意とはいえ、実に苦しむ。言語に絶する緊張を念う」(同、同年4月11日)
 「胸奥には、戸田会長の紹継は決意すれども、形式的には、どうしても返事をできえず」(同、同年4月12日)
 14日、転機が訪れた。池田先生が総務として指揮を執る学会本部の第一応接室に、理事たちが待機していた。
 理事長は、先生に切々と訴えた。
 「偉大な第3代会長を全魂込めて守れ! 3代を中心に生き抜け! そうすれば、広宣流布は必ずできる。これが戸田先生の遺言でした」
 「会長推戴は、広布を願っての全幹部の要請です。お引き受けください」
 池田先生は「それほどの皆さんのお話なら……」と言いかけた。すると、理事長がすかさず、「よろしいのですね! ありがとうございます」と念を押した。
 「万事休す。この日――わが人生の大転換の日となれり。やむをえず。やむをえざるなり。戸田先生のことを、ひとり偲ぶ。ひとり決意す」(同、同年4月14日)
 そして翌15日、深き誓いをしたためる。
 「恩師の七回忌を目指して、本門の出発だ」「戸田会長に、直弟子として育てられたわれだ。訓練に訓練をされてきたわれだ。なんで戦いが恐ろしかろう――ご恩を返す時が来たのだ」(同、同年4月15日)
 19日、緊急の全国代表幹部会が行われ、池田先生の第3代会長推戴が伝えられると、会場は歓喜に包まれた。

1960年5月3日、大きな歓喜に包まれた第3代会長就任式の終了後、青年たちが池田先生を胴上げする

1960年5月3日、大きな歓喜に包まれた第3代会長就任式の終了後、青年たちが池田先生を胴上げする

 
皆が会長の自覚で

 共戦の同志たちは、新たな決意で立ち上がった。
 支部長代理として池田先生が指揮を執っていた文京支部の友は、“今こそ、先生に育てていただいたご恩に報いよう”と、拡大を加速させていく。
 4月28日、先生は文京支部の支部長宅を訪問。一人一人をねぎらいながら、こう語った。
 「分かっているよ。文京が一番喜んでくれたことだろうね」「これからも頑張っていこう」
 文京支部は、4月、5月と2カ月連続で月間折伏“日本一”に輝いた。同支部の友は、広布拡大の勝利をもって、報恩の証しを示した。
 4月末、関西の友が、先生の自宅を訪ねた。「大阪の戦い」「大阪大会」など、広布史に刻まれる共戦の舞台となった関西。友は、会長就任によって、先生は遠い存在になってしまうのではないかと不安を抱いていた。
 先生は、包み込むように語った。
 「私は特別な人間ではありません。皆、同じ同志です」
 友の目には、安堵の涙があふれた。
 第3代会長に就任後、先生が真っ先に訪れたのは、その青春の思い出の地である関西だった。
 「明日より、地方指導の第一歩を。まず、苦楽を共にした関西に決定。同志の嬉しそうな顔が目に見える。少々、御書を開く。指導のため」(同、同年5月6日)
 8日、大阪府立体育会館で開催された関西総支部幹部会に出席すると、「なぜ、私は関西にやって来るのか。それは、この関西から、大阪から、貧乏人と病人をなくすためである」との恩師の言葉を紹介。さらに300万世帯達成に向けて、こう力説した。
 「一番価値的に、一番効果的に、全幹部が座談会に入っていくことができれば、学会はやすやすと300万世帯を達成できる」
 座談会こそが、拡大の不変の原動力であり、新たな飛躍のカギは、座談会の“意識革命”にあることを訴えた。
 先生は、この関西指導を起点に、全国各地の同志のもとへと駆け、300万世帯達成への突破口を開いていく。
 「学会の躍進の秋、遂に来る思い」(同、同年5月13日)
 5月、6月の2カ月間で、東海道、北海道、九州、東北、中部、中国、関東を訪問。7月には、初めて沖縄の地に足跡を刻んだ。さらに、10月2日、初の海外指導へと旅立ち、世界広布の扉を開いたのである。
 先生は、「『席が温まる暇がない』というよりは、『席そのものがない』といっていいほど動き、道を開いた」と振り返っている。
 世界広布の大道は、創価の三代の会長が不惜身命の覚悟で決然と立ち、築き上げた師子の足跡である。小説『新・人間革命』第24巻「人間教育」の章には、こうつづられている。
 「どこか別の世界に、本当の『創価学会』があるなどと考えるのは誤りである」
 「広宣流布の建設とは、まず、自分のいる組織を、盤石に築き上げていくことだ。それには、自身が、建設の勇者となることだ。誰かではない。自分が立つのだ。一人立つ――そこから、すべては始まる。それが、創価の永遠の精神だ。皆が山本伸一の分身だ。皆が会長だ!」
 師の心をわが心として、同志と苦楽を共にする――その弟子の陣列が、世代から世代へと続く限り、世界青年学会の未来は無限に開かれていく。

東京・墨田区の両国国技館周辺(2017年6月、池田先生撮影)。この付近には、第3代会長就任式の会場である日大講堂があった。先生が就任式で師子吼した300万世帯の誓願は、就任からわずか2年半で実現。広布は大きく飛躍した

東京・墨田区の両国国技館周辺(2017年6月、池田先生撮影)。この付近には、第3代会長就任式の会場である日大講堂があった。先生が就任式で師子吼した300万世帯の誓願は、就任からわずか2年半で実現。広布は大きく飛躍した