青年部拝読御書「崇峻天皇御書」2024年1月23日

  • 〈研さんのために②〉

 青年部拝読御書「崇峻天皇御書」を学ぶ連載の第2回は、第2章を解説する。法華経の行者を迫害する者への罰について示されている。(創価新報2024年1月17日付)
 

第2章 正法を妨げる者の罰を示す
御書新版1593ページ1行目~6行目
御書全集1171ページ2行目~6行目

【御文】

 されば、御内の人々には天魔ついて、前よりこのことを知って、殿のこの法門を供養するをささえんがために今度の大妄語をば造り出だしたりしを、御信心深ければ十羅刹たすけ奉らんがためにこの病はおこれるか。上は我がかたきとはおぼさねども、一たん、かれらが申すことを用い給いぬるによりて、御しょろうの大事になりてながしらせ給うか。彼らが柱とたのむ竜象すでにたおれぬ。和讒せし人も、またその病におかされぬ。良観はまた一重の大科の者なれば、大事に値って大事をひきおこして、いかにもなり候わんずらん。よもただは候わじ。
 

【通解】

 そこで、江間家の家中の人々には天魔が取り付いて、以前からこうした道理(内薫外護の原理に基づいて、江間氏一門が四条金吾を護り助ける働きをするようになること)を知って、あなたがこの法門(法華経)に尽くすのを妨げるために、このたびの大うそ(竜象房の説法の座に、金吾が乱入したなどという事実無根の訴え)をつくり出したのである。しかし、あなたのご信心が深いので、十羅刹女があなたを助けしようとして、今回の主君の病は起こったのであろうか。
 
 主君はあなたを自分の敵とはお思いではないが、一度は彼ら(江間家の人々)が言うことを用いたために、ご病気が重くなり、長引かれているのであろうか。
 
 彼らが柱と頼っていた竜象房はすでに倒れた。陥れるためにうそを流した人々も、またその病に侵された。良観は、さらに重い大罪がある者なので、重大事に直面し、大事件を引き起こして、大変なことになるであろう。まさか、ただではすまないであろう。
 

熊本県阿蘇郡小国町にある鍋ケ滝。幅は約20メートルあり、水が絶え間なく降り注ぐ。信心は持続が大切。いかなる時も純粋な信心を貫いていこう

熊本県阿蘇郡小国町にある鍋ケ滝。幅は約20メートルあり、水が絶え間なく降り注ぐ。信心は持続が大切。いかなる時も純粋な信心を貫いていこう

【解説】

 第1章で日蓮大聖人は、仏法における重要な法門として「内薫外護」に言及され、信心の実践によって、生命の内面から仏性が薫発されることで、外護の働きも現れることを教えられた。
 
 第2章ではまず、江間家に仕える人々に天魔が取り付いて、四条金吾が法華経へ供養することを妨げるために、今回の桑ケ谷での問答における讒言(事実無根の告げ口)をつくり出したのであると述べられている。
 
 ここで、魔の本質について、池田先生の講義『勝利の経典「御書」に学ぶ』をもとに一重立ち入って確認したい。先生は次のように講義されている。
 
 「讒言とは、事実を曲げて人を中傷することです。そして魔は、常にその讒言を用いて、権力者を使って、正義の人を追い落とそうとする。まさに他化自在天の魔性の働きです。
 
 三類の強敵の中で一番恐ろしい僭聖増上慢も、常に、噓で塗り固めた情報を駆使して権力者を動かし、法華経の行者を迫害しようとする。俗衆増上慢道門増上慢と異なり、自分は決して前面に出てこない。自分が直接手をくださない。それが第六天の魔王の正体です」
 
 「魔は知らず知らずのうちに、私たちの心を破壊しようと働きます。したがって、魔の正体を見破る智慧があれば、魔の力は半減します。そして最後に魔を破るのは勇気です。即、信心の力です」
 
 僭聖増上慢とは、釈尊滅後の悪世で法華経を弘める人を迫害する3種類の強敵の第3であり、聖者のように仰がれながら迫害の元凶となる高僧のことである。3種類のうち、最も手ごわいとされる僭聖増上慢は、決してその本性を表に出さず、権力者を巧みに操って法華経の行者を迫害すること、魔に打ち勝つ要諦は、勇気であり、信心の力であることを教えられている。
 
 大聖人は、四条金吾を取り巻く状況の本質に、魔のうごめきがあることを喝破されていたのである。
 
 御文に戻ると、大聖人は続けて、「内薫外護」の法門に基づいて、金吾の内薫、すなわち、強盛な信心によって、十羅刹女の守護の働きを呼び起こし、主君の病気が起きたのであろうか、と仰せになっている。事実、この江間氏の病を契機に、江間氏は医術に心得のあった金吾を再び用いるようになり、金吾が置かれた危機的状況は打開されていくのである。
 
 「彼らが柱とたのむ竜象すでにたおれぬ」以降では、讒言にそそのかされた江間氏の場合と違って、いわば魔の働きの元凶には、明らかな罰が起こることを示されている。
 
 まず、金吾のことを快く思わない人々が頼みとする竜象房はすでに倒れてしまい、金吾を陥れようとした人々も同じ病にかかってしまったことを述べられる。さらに大聖人は、竜象房の背後にうごめいていた極楽寺良観(忍性)を厳しく破折される。
 
 真言律宗の僧である良観は、幕府要人に取り入って、非人と呼ばれた人々の救済にも取り組む一方で、彼らを労働力として使って公共事業を推進するなど、表向きは聖人のように敬われていたが、裏では、種々の利権をむさぼっていた。
 
 文永8年(1271年)、良観は大聖人に祈雨(雨乞い)の対決で敗れると、それを恨んで幕府要人とその夫人たちに大聖人の迫害を働きかけ、竜の口の法難佐渡流罪の契機をつくるなど、策謀を巡らせた。その良観に対し、大聖人は「一重の大科の者なれば、大事に値って大事をひきおこして、いかにもなり候わんずらん」と仰せになっている。この後、金吾や同様に苦境に陥っていた池上兄弟が、信心根本に苦境を打開していく。裏で糸を引いていた良観の謀略は粉砕されたのである。
 
 金吾は師匠である大聖人の仰せの通りに、自分のいる場所で信頼を勝ち取った。師の励ましを胸に、弟子が魔を打ち破ったのだ。弟子が障魔を呼び起こし、苦難との闘争、魔性との闘争に打ち勝った新たな時代の幕開けと言えよう。
 
 「世界青年学会 開幕の年」がスタートした。私たちは、常に「御書根本」、そして永遠の師匠である池田先生の指導に学びながら、広布の峰に、本年の各人の目標に挑んでいきたい。池田門下の弟子が打ち立てる歓喜の旗印こそ、世界青年学会の建設と勝利の証しである。
 

【池田先生の指針から】

 デマの扇動者は永久に後悔の人生となり、心の敗残者となるのです。
 
 この時期、四条金吾が勝利し、池上兄弟が勝利していきます。
 
 それはとりもなおさず、陰謀をめぐらし、大聖人門下の迫害をはかった良観の大敗北です。良観の悪事は散々たる失敗に終わりました。いわば、弟子が魔性に追撃の鉄槌を加えたことになるのです。
 
 「悪は多けれども一善にかつ事なし」(全1463・新2055)
 
 「一善」です。師弟が一体となれば、必ず、最後には魔を破ることができます。
 
 魔性を破れば、必ず新たな時代が開幕します。
 
 四条金吾のドラマは、魔の勢力に対して、仏の勢力が「人の振る舞い」で勝利した体験談であったと言っても、過言ではないでしょう。
 
 現代にあっても、時代は人間主義を求めています。
 
 「人の振る舞い」が、ますます重要になることは間違いありません。
 
(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第4巻)
 

〈コラム〉内なる仏性を顕す
強き信心の一念で前進!

 「渡りに船」ということわざがある。「必要な物がそろったり、望ましい状態になったりして好都合なこと」という意味で、一般的には、“川を渡ろうとした時に偶然にも船があった”という偶然性が背景にあり、幸運な状態になった時に使われる。
 
 この言葉が法華経に由来していることはあまり知られていない。法華経薬王品第23に説かれる「如渡得船(渡りに船を得たるが如く)」(法華経597ページ)である。大聖人は、この文を通して、生死という人として免れがたい苦難が渦巻く大海を渡り、成仏への航路を間違いなく進んでいける船である法華経の「万人成仏」の功力について説かれている。
 
 「万人成仏」の原理は、法華経に示された十界互具の法理に基づく。一人一人に、人としての最高の生命境涯である仏の生命(仏性)も、最低の地獄の生命も内在することを示す十界互具。私たちは日々の勤行・唱題で、この自身の内にある仏性を顕しているのである。
 
 仏性は直接、自分の目で見ることができない。しかし、その顕された仏性に呼応し、全宇宙の諸天善神が働き、現実的に私たちの生命を護る働きをする。この法理が前回の範囲で学んだ「内薫外護」である。他力本願な考えであるうちは、自らの人生の脚本は誰かが書くものであり、自分が何をしても変わらないという生命境涯になってしまう。「内薫外護」の法理に照らせば、いかなる環境も、一念を変革し、自らの仏性を薫発することで、必ず変えることができる。自らの人生は自分が切り開くと決めて、唱題を実践する時、自身の仏性が呼び覚まされ、信心の実証が現実の功徳となって現れるのだ。
 
 昨年、ある牙城会新時代4期生が、初めて弘教を実らせた。彼が折伏した友人は、当初、仏法に興味がなかったが、紹介者の純粋な思いに触れ、職場の人間関係の悩みから体調を崩し、休職していることを打ち明け、紹介者と共に唱題の実践を始めた。
 
 友人は、「お題目に挑戦してから、悩みに向き合えるようになった」と、功徳を実感して入会。友人の表情は、自身の課題に挑む決意にあふれていた。
 
 その後も紹介者と唱題を重ね、職場からのフォロー、周囲からの励ましもあり、復職に向けた道筋が見えてきた。
 
 悩みに翻弄される自分から、悩みに向き合う自分に――まさに、この唱題行を通じた一念の変革こそ、現実の壁を破る第一歩なのである。
 
 池田先生は「諸天善神を動かすのは、どこまでも私たちの信心の一念です。強き信心の一念で無明を打ち破ったときにこそ仏性が薫り出てくるからです」とつづられた。「世界青年学会」の開幕となるこの1年、どこまでも強き信心の一念で、わが人生の勝利劇をつづっていきたい。
 
 (男子部教学室 船田喜隆)