〈信仰体験〉 隻腕の産業廃棄物処理会社の社長2024年1月16日
- 永遠に続く冬はない
- 二つのがんを制し、友人が入会
【福島県南会津町】孫からプレゼントされたカラフルなマフラー。首にかけてもらうと、千葉薫さん(79)=総県主事=は相好を崩し、「俺は幸せだ」とニコッと笑った。産業廃棄物処理会社と31人の社員を守る、その人に右腕はない。最愛の妻も事故で失った。2度のがんを制したものの、治療の後遺症がある。絶望の淵に突き落とされようとも、何度だって、はい上がってきた。
九死に一生
両親は貧しい農家。荒れ果てた土地を、鍬一つで開墾してきた。千葉さんは、そんな両親をよそに、けんかに明け暮れた。中学校卒業後は材木店で働く。酔っぱらって集落の祭り会場に乗り込み、めちゃくちゃにしたこともあった。
「寂しかったんだな。1歳半の時、いろりのやかんに触って熱湯を浴びて、大やけど。薬もなくて、顔の右半分に大きな痕が残った。物心つくと、人と違うことが恥ずかしくて、虚勢を張ったんだな」
「素行は悪くても、根は真面目(笑)。仕事では手を抜かなかったよ。滑車に材木をつるし、集材機でワイヤのロープを動かし、木材を集積場に運ぶんだ。21歳のあの日も、いつも通り、ワイヤを張っていたら、突然、接合部分が外れて、ワイヤが俺の方に飛びかかってきた。一瞬で、腕がすさまじい力に引っ張られた。右腕をもがれる激痛で意識を失った」
「目を覚ますと、ベッドの上にいた。体中が痛い。親方が病院へ運んでくれたって。右肩の関節から切断。大量の輸血で、どうにか命だけは取り留めた。けど、この体でどうやって生きていくのかって。誰かの世話になって生きていくのは耐えられない。死んだ方がましだと思ったな」
「怒りと悔しさを、見舞いに訪れた友人や家族にぶつけたよ。そんな俺に、雷を落としてくれた人がいた。男子部の先輩。『心まで、片腕になっちゃいけない』って目に涙をためてた。俺なんかのために、泣いてくれる人がいる。うれしかったな。そこから、信心で生きるって腹が決まったんだ」
廃棄物処理施設を上空から撮影
「職を探しても、相手はため息交じりに、あるはずのない右腕を見た。何ができるのかと笑われたな、何度も何度も。悔しかったよ。世間を恨んだよ。保険の外交員や、くず拾い、何でもやった。折伏にも歩いたんだ。『幸せになれる』って言ったら、『あんたの腕が戻ったら、信心するよ』って。生きるのって痛い。トゲは心にも刺さって、なかなか取れないんだ」
「そんなんでも、隣で一緒に笑ってくれる人ができたよ。道子。信心強盛な人。親はスーパーを経営している“お嬢さま”。反対されたけど、2人の決意が固かったから、みんな、最後は認めてくれた。5人の子どもを授かって。貧乏で、苦労ばかりかけたな。廃棄物処理業者の資格を取って、仕事も少しずつ軌道に乗った。幸せにしてやりたかった」
左手で巧みにハンドルを切り、同志のもとへ
命綱は誓い
1989年(平成元年)1月、その日は吹雪だった。出張で地元を離れていた千葉さんに代わり、妻の道子さんがトラックで廃棄物の回収を行っていた。そこへ、スリップした車が猛スピードで突っ込んできた。
「現場第一」を胸に、広布の最前線を歩き続ける
「急いで病院に行ったよ。妻は意識不明の重体。ベッドの横で題目を唱えたよ。頼む、道子を助けてくれって。胸が、はち切れそうだった。だって、俺がいれば、道子はあそこにいなかった。俺の代わりだよ。何で!?って、自分を責めたよ。2日後に亡くなった。まだ47歳だった」
「悲しくて、何もできない。1カ月、2カ月。もう全てやめようかと思った。膝から崩れ落ちる寸前で踏みとどまれたのは、同志がいたからだ。俺のところに来ては、一言二言、言葉をかけてくれた。声をつまらせて、男泣きしていた。このままじゃいけないって、やっと顔を上げられたよ」
1番乗りに出社すると、ストーブに火をつけて、事務所内を暖める
「思い出すのは、池田先生との出会いだ。青年部時代に一度だけ、お会いしたことがあるんだ。手を上げて、『ありがとうございます!』って言うと、大きくうなずいてくださって『頑張れ!』って。先生との誓いが命綱だったな」
「頑張っても頑張っても、なかなか光は見えなかったなあ。みんなには『もう大丈夫だ』って言ったけど、本当は大丈夫じゃねえ。祈ってたって揺らぐよ。それでも、御本尊様を信じるんだ」
「俺のおふくろは車の免許がなかったから、雪の中を歩いて、信心を弘めた。俺のことでバカにされようが止まらなかった。そんなおふくろが幸せだったから、最後の勝利を信じられたんだな」
強盛な祈りから一日を開始。朝礼で話すことなどはメモをする
答えは現場に
苦難は続いた。2005年には「胃がん」に、18年には「喉頭がん」になった。
「誠実」をモットーに、社員と力を合わせて、地域のために働く
「胃は手術で半分取ったよ。15年には、酷使してきた左腕の関節が変形して人工関節を入れた。喉頭がんになった時はさすがに、もうダメだと思ったな。まだ生きたいと思えたのは、みんなへの恩を返し切れてなかったから。35回の放射線治療。その影響で、唾液が出にくくなって、口が乾きやすくなった。四六時中、あめをなめているよ。手のしびれも残っている」
「それでも、仕事と学会活動からは引かなかった。毎朝8時から朝礼をやって社員を送り出す。倉庫や施設を毎日見回る。会社は俺の命。学会活動も同じだ。訪問・激励が第一。建設か破壊か、どっちに向かっているかの答えは、全て現場にあっから」
「人生の暗闇の中で“先生!”って叫ぶと、力が湧いてくるんだ。今やっと希望の光が見えてきて、心の底から『幸せだ』って言える。信心の醍醐味をあじわってるよ」
「何度も死にかけた。心も折れかけた。でも、俺は生きている。倒れたって、立ち上がってきた。池田先生が『苦悩の闇が深ければ深いほど、まばゆい大歓喜の光が降り注ぎます』『“法華経は冬の信心である。冬は必ず春となるのだ”』って。それを信じてやってきた。ここ5年だな、春を感じられるようになったのは。その頃、信心の話をした友人が『千葉さんのことは信じられる』って創価学会に入会した。うれしかったな」
「右腕があったら、もっとできたことはあったよ。でも、ないものねだりはよくないな。結局は、弱い自分との戦い。それに勝つ。“障がい”があるから今の俺がいる。そう思えたから“誇り”でもあるんだ」
町民から届けられた手紙。千葉さんは「会社の宝物です」と
後記
千葉さんには宝物がある。それは、一人の町民から届いた手紙。
社長を務める「有限会社 薫榮」は現在、産業廃棄物処理以外にも、町のごみ収集も委託されている。毎回、収集場所のネットもきれいに片付ける。それを見ていた人が〈年配が多い場所。キチンと片付けてくれて助かります。本当にありがとう〉との声を寄せてくれた。
いつも明るくて、優しい妻・千代美さん。千葉さんの“宝物”である会社を守ろうと、仕事のことを一から学び、現在は会社の専務として、会社を支えている。千葉さんは「本当に感謝しているんだ」と
千葉さんの冷え切った心を温め、“地域のために”との思いを強くしてくれたのが、いつも支えてくれる後妻の千代美さん(68)=圏副女性部長=の存在だった。
「夫は全てに命がけでやる人。誰かが守らないといけない。だから、会社のことを一から学んで、社長業に専念できるようにしてきました。体のことも、誰よりも気にかけて。私ができることは全部やってあげたいんです。最近、『ありがとう』ってよく言ってくれて。それが一番の幸せかな」
孫からもらったマフラーを、妻・千代美さん㊧が首にかけてくれた。「大変な時、千代美はいつも背中を押してくれるんだ」と千葉さん
千葉さんの半生。それは、不条理に翻弄され、奪われてばかりの年月だったのか――。
「そうじゃねえよ。得たものが大きいと思えるようになったんだ。俺にはもったいない“日本一のかか”二人。道子と千代美。そして、“世界一の師匠”と御本尊様に出あえた。俺は世界一幸せなんだ」