おはようございます。部屋の温度は8℃。生涯、人間革命に生きる。自身の向上と反映が社会に貢献する様な生き方を貫こう。愚かにも戦争謎とんでもない。より良い方向にコントロールできる人間になることが大切。今日もお元気で!

 

〈小説「人間革命」起稿60周年――生命の刻印 間断なきペンの闘争〉2024年1月16日

  • 第1回 人生の真実を求めて
  • 詩は人間らしく生きるために

1984年11月9日、かつての森ケ崎の海辺を37年ぶりに訪れた池田先生。海岸のあとに設けられた森ケ崎公園へ。羽田空港を望む展望台で、居合わせた親子と心温まるひと時を過ごした

1984年11月9日、かつての森ケ崎の海辺を37年ぶりに訪れた池田先生。海岸のあとに設けられた森ケ崎公園へ。羽田空港を望む展望台で、居合わせた親子と心温まるひと時を過ごした

 歴史を現在に伝えるのは、言葉である。人間の記憶は有限だが、文字は過去を現在と未来につなげ、その時代に刻まれた精神も伝える。本年は、池田大作先生が小説『人間革命』を起稿してから60周年である。「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」を主題につづられた民衆の大叙事詩は、世界の友に勇気の光を与えている。同書は『新・人間革命』とともに、「師弟の真実」を未来永遠に伝える「信心の教科書」である。民衆の指導者として、詩人として、命を削って“魂の言葉”を紡ぎ続けた池田先生。連載「生命の刻印 間断なきペンの闘争」では、その執筆闘争の軌跡をたどる。

読書と思索の青春

 全ての人間の生命は、平等に尊厳であり、価値がある。その生命を奪う戦争は、人間の“魔性の心”が引き起こす「最大の蛮行」だ。
 1945年(昭和20年)9月、池田先生は東洋商業学校(現・東洋高等学校)の夜間部に編入した。
 時は戦後の混乱期。戦前の価値観が一挙に崩れ去り、社会には空虚さが漂った。多くの青年が“精神の空白”を満たす何かを求めた。
 先生は苦学の道を歩みながら、古今東西の名著を開いた。人生や社会の真実を探究するには、本が頼りだった。
 時間を見つけては、神田の古本屋街を歩き、書籍を求めた。購入した本から感銘を受けた言葉を、日記やノートに記した。
 この頃、青年たちのグループが全国的に生まれていた。本を読み合うグループや、レコードを聴くグループなど、それぞれに特色があった。
 先生は近所の20人ほどの青年と共に、「郷友会」という読書サークルをつくった。ある時は、ダンテの『神曲』について語り合い、ある時は、ドイツの経済について論じ合った。
 46年(同21年)3月、先生は3人の青年と会員制の図書室「草水文庫」を開設する。そこには、各人が持ち寄った500冊の蔵書があった。
 やがて、同文庫は近隣の子どもたちが集まる場に。48年(同23年)11月には、大田区森ケ崎(当時)の小学校の図書館として引き継がれている。その日、小学校の校長は朝礼で、全児童に喜びを語った。
 「この町の、この学校の誇るべきものです。皆さん、この宝物を贈ってくださった方々に応えて、よく本を読んで勉強してください」
 仏法に出合う前から、先生は読書を通して、地域に大きな貢献を果たしていたのである。
 先生は書籍をひもといては思索を重ね、郷友会の仲間や草水文庫の友と、人生や社会について語り合った。

満月が照らす東京・大田区大森の海岸(2020年2月、記者撮影)

満月が照らす東京・大田区大森の海岸(2020年2月、記者撮影)

月光が照らす語らい

 1947年(昭和22年)のある日のこと。先生は一人の友人と森ケ崎の海辺を歩いた。
 友人は意を決したように切り出した。「ぼくは、キリスト教に入ってみようと思う」
 その言葉に、先生は答えた。
 「ぼくの願いは、君が幸せになることだ。ぼくが進もうとする道とは異なると思うが、そこから君が何かをつかみ、人生の大空に飛び立ってもらいたい」
 2人は、社会のため、人々に貢献する人生をと約し合い、固く握手を交わした。月光が青年たちを照らした。
 先生は、この時の思いを詩に託してノートに記した。その詩は、70年(同45年)12月25日付の高校新報で初めて発表される。「友人」とのタイトルと共に、「森ケ崎海岸にて」との副題が付けられていた。
 先生は、少年の頃から詩が好きだった。ホイットマンや土井晩翠などの詩集を愛読し、自分でも詩を詠んだ。世界詩歌協会会長を務めたクリシュナ・スリニバス博士との語らいの折、先生は詩について、こう述べている。
 「現実に埋没した社会にあって、詩は心の窓を開けます。その窓から、さわやかな生命の涼風が吹きこんできます。詩は人間性の証であり、崇高な魂の歌です。詩は人間を人間に立ち戻らせます」
 先生にとって詩は、心の窓を開き、人間らしく生きるための“魂の源泉”であった。
 「森ケ崎海岸」の詩で、先生は「十九の青春 道まよい」と詠んだ。むさぼるように本を読み、友と人生や社会を論じ合ったものの、自らが進むべき人生の“道”は、まだ見つからなかった。
 だが、森ケ崎での友人との語らいの後、人生を決定づける出来事が訪れる。恩師・戸田城聖先生との出会いである。

1947年8月14日、初めて参加した座談会で戸田先生に自作の詩を披露する山本伸一(小説『新・人間革命』第22巻「新世紀」の章から、内田健一郎画)

1947年8月14日、初めて参加した座談会で戸田先生に自作の詩を披露する山本伸一(小説『新・人間革命』第22巻「新世紀」の章から、内田健一郎画)

地より湧き出でん

 「正しい人生」を求めてやまなかった池田先生が、小学校時代の同級生に“生命哲学の話を聞きに来ないか?”と誘われた。1947年(昭和22年)夏のことである。
 「生命哲学」と聞いた先生は、即座に「ベルクソンですか?」と聞き返した。
 ベルクソンは27年(同2年)、ノーベル文学賞を受賞。『道徳と宗教の二源泉』『思想と動くもの』などを執筆し、生命の内的自発性を強調した。
 その著作は非常に難解である。「生命哲学」というワードから、「ベルクソン」を連想する――そのこと自体が、若き先生がいかに知を求め、読書に徹していたかを物語っていよう。
 同年8月14日、池田先生は創価学会の座談会に参加。会場に到着すると、戸田先生が「立正安国論」を講義していた。
 講義を終えると、戸田先生は池田先生に「いくつになったね」と親しみを込めて尋ねた。「19歳です」と応じた池田先生は、率直に質問した。
 「正しい人生とは、一体、どういう人生をいうのでしょうか」
 戸田先生は青年の問いに、誠実に答えつつ、「正しい人生とは何ぞや、と考えるのもよい。しかし、考える暇に、大聖人の仏法を実践してごらんなさい。青年じゃありませんか」と語った。
 池田先生はさらに、「本当の愛国者」などについて尋ねていった。それらの質問についても、戸田先生は明快に答えていった。
 その場で、戸田先生への感謝を込めて、池田先生は即興の詩を詠じた。
 「旅びとよ いずこより来り いずこへ往かんとするか」「嵐に動かぬ大樹求めて われ 地より湧き出でんとするか」
 法華経に説かれる「地涌の菩薩」を連想させる詩を聞くと、戸田先生はほほ笑んだ。
 座談会終了後、仏法対話が始まった。池田先生にとって創価学会への「入会」は、「何かに束縛されるような、いまだ見たこともない別世界に行くような感じ」(小説『人間革命』第2巻「地涌」の章)だった。
 だが、それ以上に、戸田先生の人格の輝きに魅了された。「ベルクソンのことも、遠い淡い観念の世界になっていった」(同)。恩師との出会いから10日後の8月24日、池田先生は入信した。
 久遠から約束されていたかのような運命的な出会いから、師弟不二の旅路が始まった。
 池田先生の幅広く、深い知識と教養は、恩師によって、さらに磨かれた。鍛えられた強靱な人格と知性は、執筆闘争や世界の識者との対話の礎となるのである。

森ケ崎海岸(「池田大作全集」第39巻から)

 岸辺に友と 森ケ崎
 磯の香高く 波かえし
 十九の青春 道まよい
 哲学語り 時はすぐ
  
 友は悩めり 貧しけれ
 基督の道 われ行くと
 瞳きびしく 月映えて
 つよき鼓動に 波寄せり
  
 崩れし土手に 草深く
 いかなる虫か 知らねども
 今宵は詩歌を つくらんと
 楽 平安の 念いあり
  
 されども友は 黙しけん
 いかに生きなば わがいのち
 深園の月に 飛びゆかん
 涙を拭い 悲歎あり
  
 友の孤愁に われもまた
 無限の願望 人生を
 苦しみ開くと 誓いしに
 友は微笑み 約しけん
  
 友の求むる 遠き世に
 たがうも吾れは 己が道
 長歌の舞台 涯しなく
 白髪までも 月語る
  
 君に幸あれ わが友よ
 つぎに会う日は いつの日か
 無言のうちの 離別旅
 銀波ゆれゆく 森ケ崎