青年部拝読御書「崇峻天皇御書」2023年12月26日

  • 〈研さんのために①〉

【本抄の研さんにあたって】
石田幸司男子部教学部長

 主君からは遠ざけられ、一方で周囲からは嫉妬され、命を狙われる――絶体絶命の苦境に立たされていた四条金吾が、大聖人の励ましを受け、師匠の御指導通りに信心根本の姿勢を貫く中で、主君からの信頼を回復するチャンスが訪れた時に頂いたのが「崇峻天皇御書(三種財宝御書)」です。
 
 池田先生は本抄を講義された『勝利の経典「御書」に学ぶ』第4巻の冒頭、次のように記されました。
 
 「仏法者として、いかに正しく行動していくのか。苦境を打ち破るために、いかに強く賢く振る舞うべきか。この真髄の生き方が本抄の随所に綴られています」
 
 本抄で大聖人は、「たとい上は御信用なきように候えども、とのその内におわして、その御恩のかげにて法華経をやしないまいらせ給い候えば、ひとえに上の御祈りとぞなり候らん」(新1592・全1170)と主君の恩を教えられます。また、竜の口の法難の際の金吾の姿を振り返り、「日蓮と殿と共に地獄に入るならば、釈迦仏・法華経も地獄にこそおわしまさずらめ」(新1595・全1173)と、弟子の信心をたたえられています。
 
 さらに、同僚から命を狙われる状況が続く金吾に、微に入り細を穿つように日々の生活における具体的な注意を促されます。その一言一言に、どこまでも一人を大切にする大聖人の慈愛が拝されます。
 
 そして、「蔵の財よりも身の財すぐれたり、身の財より心の財第一なり」(新1596・全1173)と、信心によって仏性の輝きを増していくことが根本であることを教えられます。
 
 こうした御聖訓を抱きしめて、学会の多くの同志が人間革命のドラマを紡いできました。本連載では、この「崇峻天皇御書」を研さんしていきます。珠玉の指針がちりばめられた本抄を学びながら、私たち青年が社会で、人生で勝利しゆくための信心を深めていきましょう。小単位の会合や個人研さんなどでぜひご活用ください。第1回は、背景と大意、第1章を学びます。
 

【背景と大意】

 本抄は建治3年(1277年)9月11日、日蓮大聖人が56歳の時に、身延の地から鎌倉の門下の中心的存在だった四条金吾に与えられたお手紙である。別名を「三種財宝御書」という。
 
 この年の6月、大聖人門下の三位房が、極楽寺良観(忍性)の庇護を受けていた天台宗の僧・竜象房を徹底的に破折した(桑ケ谷問答)。金吾は法論を黙って見守っていただけだった。しかし、金吾のもとに主君の江間氏から命令書が届く。そこには、金吾が武器を持ち、徒党を組んでその法座に乱入したという虚偽が書かれていた。江間氏は良観を信奉しており、問答によって竜象房と良観の面目を失ったことが背景にあったことから、江間氏に讒言(事実無根の告げ口)が入ったのだ。江間氏は、金吾に“法華経の信仰を捨てると約束する誓約書を書かなければ、所領を没収する”と迫った。苦境に立たされた金吾は絶対に誓約書は書かないと決意し、そのことを大聖人に伝えた。大聖人は金吾の不退転の決意をたたえ、金吾に代わって江間氏への弁明書(頼基陳状)を認められている。
 
 その後、江間氏が疫病に倒れ、医術の心得のある金吾が治療に当たることに。本抄は、その報告に対する返信である。
 
 本抄では、金吾が法華経への供養を重ねられるのは、江間氏の恩によるものであり、金吾が積んだ福運、妙法の功徳も江間氏の身にかえっていくと述べられる。また、「内薫外護」の法理を示され、強き信心によって諸天の加護が現れ、正邪は必ず明らかになることを教えられている。
 
 さらに、「竜の口の法難」にお供した金吾の信心をたたえられるとともに、信仰者として人格を磨き、周囲の人々から信頼を勝ち得ていきなさいと指標を示される。
 
 そして崇峻天皇の故事などを引いて、人間としての賢明な生き方こそ、仏法が教えようとした結論であると御教示されている。
 

第1章 内薫外護の法門を挙げる
御書新版1592ページ1行目~12行目
御書全集1170ページ1行目~1171ページ2行目

 
【御文】

 白小袖一領・銭一ゆい、また富木殿の御文のみ。なによりも、かき・なし・なまひじき・ひるひじき、ようようの物うけ取り、しなじな御使いにたび候いぬ。
 さては、なによりも上の御いたわりなげき入って候。たとい上は御信用なきように候えども、とのその内におわして、その御恩のかげにて法華経をやしないまいらせ給い候えば、ひとえに上の御祈りとぞなり候らん。大木の下の小木、大河の辺の草は、正しくその雨にあたらず、その水をえずといえども、露をつたえ、いきをえて、さかうることに候。これもかくのごとし。阿闍世王は仏の御かたきなれども、その内にありし耆婆大臣、仏に志ありて常に供養ありしかば、その功大王に帰すとこそ見えて候え。
 仏法の中に内薫外護と申す大いなる大事ありて宗論にて候。法華経には「我は深く汝等を敬う」、涅槃経には「一切衆生ことごとく仏性有り」、馬鳴菩薩の起信論には「真如の法、常に薫習するをもっての故に、妄心即ち滅して、法身顕現す」、弥勒菩薩の瑜伽論には見えたり。かくれたることのあらわれたる徳となり候なり。
 

【通解】

 白小袖一枚、銭一結、また富木殿のお手紙の中身、何よりも柿、梨、生ひじき、干ひじきなど、さまざまな物を頂戴し、その品々を使いの方から受け取った。
 
 さて、何よりも、主君(=江間氏)のご病気のことを、深く嘆いている。たとえ主君は法華経を信仰されていないようであっても、あなたが江間家の中にいて、その主君の御恩のおかげで法華経のために尽くしているのだから、それはそのまま主君の祈りとなっているであろう。
 
 大木の下に生える小木や大河のほとりの草は、直接雨に当たらず水に触れることがなくても、自然に露が伝わり生気を得て茂るものだ。あなたと主君との関係も、それと同じである。阿闍世王は釈尊の敵だったが、その臣下であった耆婆大臣が、釈尊を信じて常に供養をしていたので、その功徳が阿闍世王に帰ったと説かれている。
 
 仏法には、「内薫外護」という大変に大事な法門があって、それは仏法の要の教え(宗論)である。法華経には「私は深くあなた方を敬う」(常不軽菩薩品第20)、涅槃経には「あらゆる人々に一人も残らず仏性がある」、馬鳴菩薩の『起信論』には「真如の法(=仏性)が常に薫習する故に、妄心(=迷いの生命)がすなわち滅して、法身が顕現するのである」と説かれ、弥勒菩薩の『瑜伽論』にも説かれている。
 
 目立たない善の行いが、はっきりと現れた徳となるのである。
 

陽光に照らされ白雪が輝く北アルプス。強盛な信心を貫く中で、難に揺るがない不動の自分を築いていける(長野県・松本市)

陽光に照らされ白雪が輝く北アルプス。強盛な信心を貫く中で、難に揺るがない不動の自分を築いていける(長野県・松本市)

【解説】

 第1章では、「内薫外護」の法門に言及されつつ、妙法への御供養や、信心の実践によって仏性が薫発されることで、守護の働きも現れることを教えられている。
 
 冒頭で大聖人は、金吾から届けられた御供養への御礼をつづられている。届けられた品々の名称をあげ、「間違いなく届きましたよ」と、その真心への感謝を表される。
 
 次いで「さて、何よりも」と強調された上で、金吾の主君である江間氏の病気のことを嘆かれる。
 
 金吾は鎌倉幕府の執権・北条氏の一門である江間氏に、父の代から仕えているが、主君を折伏したことによって遠ざけられ、不遇な扱いを受けていた。主君に対して不満をもつ金吾に、大聖人は「大恩ある主君である」(新1564・全1150、通解)、「恨むべき主君ではない」(新1565・全1151、通解)と、以前にも自制を促されている。
 
 今回も大聖人は、江間氏の病気をどこまでも心配され、たとえ主君は法華経を信仰していなくても、金吾が法華経を信じ供養できるのは、主君に守られ支えられているおかげであるのだから、金吾の祈りは主君自身の祈りであり、だからこそ主君にも功徳・善根が及ぶのであると教えられている。
 

 
 続いて大聖人は、このことを二つの話を通して説明される。一つ目は、大木の下の小さな木や、大河のほとりの草は、直接雨にあたらずとも、露が自然のうちに伝わり水気を得て栄えること。二つ目は、釈尊に敵対した阿闍世王の身内に、仏法に帰依した耆婆大臣がいたので、その功徳で阿闍世王も守られたことである。金吾と主君の関係もこの通りであると述べられている。
 
 「一人」の信心の実践の功徳は、自分自身はもとより、家庭や職場、さらには地域社会をも包んでいく。それほど妙法の功力は広大無辺なのだ。
 
 次に大聖人は、「内薫外護」の法門を挙げられる。「内より薫じ、外より護る」と書き下し、衆生の生命に内在する仏性が内から薫発して、外から自己を護り助ける働きが現れることをいう。妙法への供養や、信心の実践によって顕現された自身の仏性が、その生命を外から護る働きを呼び起こすということだ。
 
 「宗論」とは、ここでは最も大事な特質をなすものという意味である。
 
 続けて法華経、涅槃経、馬鳴菩薩の『大乗起信論』、弥勒菩薩の『瑜伽師地論』を引かれ、内薫外護の法門がさまざまな仏典で説かれていることを説明し、信心を貫く中で、「目立たない善の行いが、はっきりと現れた徳となる」と断言されている。
 
 大聖人は金吾に対し、法華経に供養できることも、主君である江間氏のおかげであると感謝して信心に励んでいくならば、内薫の力によって金吾自身も、主君の江間氏も、必ず守られることを教えられているのである。
 
 大事なことは、仏性といってもそれを具えているのも、それを呼び覚ますのも自分自身であり、また諸天の守護といっても自らが生命を変革することがその第一歩であるということである。
 
 明年は「世界青年学会 開幕の年」。はつらつたる題目で、自身の仏性を呼び覚まし、「創立100周年」への出発を勢いよく切っていきたい。
 

【池田先生の指針から】

 法華経の万人尊敬の思想が、まさしく薫習する如く学会員の生き方の中に染みわたっている。
 
 困った人を見たら放っておけない。心配な人を見たら励まさずにはいられない。苦しんでいる人を見たら抱きかかえずにはいられない。相手の可能性を信じ、善のかかわりあいを深めていく。「人を敬う振る舞い」において、わが学会員こそ、その体現者、体得者です。
 
 それはとりもなおさず、仏の生命が薫習している証です。これに勝る功徳はありません。そこに幸福の薫風が限りなく広がります。
 
 学会員こそ、庶民の英雄なのです。偉大なる生命の王者なのです。
 
(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第4巻)