小説「人間革命」第12巻「寂光」の章 研さんのために2023年12月24日

 戸田城聖先生の逝去について描かれた小説『人間革命』第12巻「寂光」の章。そこには、恩師亡き後、池田先生がどのような決意で立ち上がったのかが示されている。後継の弟子である私たちも今こそ同章を学び、師弟の精神を深めたい。ここでは、第12巻のあらすじや、「寂光」の章の抜粋、コラムを掲載する。
 

〈第12巻のあらすじ〉1957年8月13日~1960年5月3日

 1957年9月8日、戸田城聖は遺訓の第一として「原水爆禁止宣言」を発表。同年末には、願業だった75万世帯を達成する。
 
 58年3月16日、総本山で大講堂落慶祝賀の総登山の指揮を執っていた戸田は、「広宣流布の模擬試験」となる儀式を行い、広布後継のバトンを、山本伸一をはじめとする青年たちに託す。そして、同年4月2日に戸田は逝去。伸一は、師を失った悲しみを超え、実質的に学会の全責任を担う。
 
 やがて、会員の間に第3代会長推戴の機運が高まり、60年5月3日、第3代会長に就任。広宣流布の新たな黎明が開かれる。
 

〈小説の場面から〉

追撃の手をゆるめるな!

 〈1958年(昭和33年)4月3日、戸田先生の逝去翌日に行われた本部幹部会で、山本伸一は青年部の代表として登壇し、あいさつをする〉
 
 日蓮大聖人は、「仏教をならはん者父母・師匠・国恩をわするべしや」(全293・新212)と仰せですが、私たちは、師匠・戸田先生のおかげで、仏法に巡り合うことができました。そして、先生のご慈悲に育まれ、人間の真実の道を知りました。このご恩に、弟子として、どのように報いていくか――それが、今、私たちに問われている問題ではないかと、思うのであります。
 
 戸田先生の師恩に報いる道は、ただ一つ、先生が命をかけてこられた広宣流布に邁進し、『先生、このように広宣流布を進めました』と報告できる、見事な闘争を展開する以外には、断じてありません。
 
 そして、一人ひとりが、人間革命を成し遂げ、崩れざる幸せを築いていく時、先生は、最もお喜びくださると思うのでございます。
 

 
 戸田先生が、最後のご指導をしてくださったのは、三月二十九日、総本山でのことでありました。総本山に、お小僧さんをいじめ、また、学会を軽蔑し、暴言を吐く僧侶がおりました。青年部は、その僧侶を戒め、抗議し、それを私が、先生にご報告いたしました。その時、先生は、『一歩も退いてはならんぞ。追撃の手をゆるめるな!』と言われました。思えば戸田先生は、この時――邪悪に対しては一歩も退くな。広宣流布とは間断なき闘争である――ということを、遺言として、私たちに、お教えくださったのであります。この先生のご指導を、広宣流布の日まで、わが青年部の厳訓としていくことを誓うものでございます。
 
 戸田先生は、広宣流布の大指導者であられました。それならば、その弟子であり、子どもである私たち青年部もまた、広宣流布の大闘士でなければなりません。戸田門下生であるならば、感傷を捨て、悲哀を乗り越えて、今こそ、立ち上がろうではありませんか!
 

師弟不二の大道を進む

 〈1958年(昭和33年)4月20日、学会葬を終えた伸一は、学会本部へ。戸田城聖の弟子として、生涯を広宣流布にささげることを誓う〉
  
 思えば、四月二日の夕刻、電話で戸田の逝去の知らせを受けた時から、伸一の内部で何かが変わりつつあった。多くの側近たちが、悲哀に打ちひしがれていた時も、伸一は、感傷に浸ることなく、その悲しみを、前進への決意に転じてきた。
 
 彼は、後継の師子として、自分が、学会の一切を担い、師弟の不二の大道を進まねばならない、避けがたき宿命を痛感していたのである。
 
 伸一は、今、深い疲労のなかで、自身の双肩にのしかかる、責任の重圧を感じないわけにはいかなかった。それは、三十歳の青年にとっては、あまりにも過酷な重圧といってよかった。彼は、自分を鼓舞するように、御本尊に向かった。
 
 「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経……」
 
 静寂な広間に、伸一の唱題の声が朗々と響き渡った。
 

 
 唱題しながら、御本尊の向かって右に認められた「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の文字と、左の「創価学会常住」の文字が、南無妙法蓮華経の光に照らされ、輝きを放つかのように見えた。彼は、今、しみじみと創価学会の、そして、戸田の弟子としての使命をかみしめるのであった。
 
 “戸田先生の大願は、まさに、大法弘通慈折広宣流布であられた。それは、御本仏・日蓮大聖人の御遺命であり、学会の大使命にほかならない。御本仏は、その使命を牧口先生、戸田先生を総帥とする、創価学会に託され、召し出されたのだ”
 
 伸一は、強い決意のなかに、弟子としての自らの進路を悟るのであった。
 
 “わが生涯は、広宣流布に捧げよう。先生が、人類の暗夜にともされた幸の灯を、断じて消してはならない。戦おう。前進、前進、また前進だ!”
 
 この瞬間、彼は胸中に、歓喜と勇気がたぎり立つのを覚えた。
 

〈コラム〉

 「寂光」の章には、師の逝去の悲しみを乗り越え、一人立つ弟子の姿が描かれている。
 
 同章の舞台は、1958年3月。「3・16」の後継の儀式が終わり、戸田先生の体調は急速に衰弱していった。
 
 “先生を失ってしまったら、学会は、これからどうなるのか……”。日に日に衰えゆく師を前に、伸一は苦悩しつつ、一人、広布への決意を固めていく。
 
 4月2日、戸田先生は58年の生涯を終え、霊山へ――。その日、伸一は、涙でノートをぬらしながら、誓いを日記に認めた。
 
 「先生の残せる、分身の生命は、第二部の、広宣流布の決戦の幕を、いよいよ開くのだ。われは立つ」
 
 さらに恩師の告別式が行われた8日夜には、烈々たる決意を一首の和歌にとどめた。
 
 「恩師逝き/地涌の子等の/先駆をば/われは怒濤に/今日も進まむ」
 
 4月20日、恩師の創価学会葬が執り行われた。伸一は葬儀の運営責任者を務めた。
 
 その夜、全てを終え、学会本部に戻った伸一は、“広布のために自身の生涯をささげよう”と、弟子としての生き方を定めた。まず、心に決めたのは、「悲嘆にくれる同志への励まし」だった。
 
 彼は、一人一人の同志の肩をいだき、手を握りしめ、その頰に流れる涙をぬぐってやりたかった。一人一人を背負い、平和の道を開き、三世にわたる幸の花園へ運びゆかねばならないと固く心に誓っていたのだ。
 

各地を中継で結んで行われた池田華陽会の全国キャップ会(今月10日、創価世界女性会館で)

各地を中継で結んで行われた池田華陽会の全国キャップ会(今月10日、創価世界女性会館で)

師弟の儀式

 小説につづられた決意のまま、池田先生は広布の陣頭指揮を執る。
 
 戸田先生の逝去から1カ月後の春季総会で、先生は“七つの鐘”の構想を発表。7年を一つの節として前進してきた学会が「新たな七年」へ出発するとの宣言であった。
 
 60年5月3日、池田先生が第3代会長に就任。恩師の七回忌までの目標として300万世帯達成を発表。怒濤の大前進が始まり、約2年半で目標を突破した。
 
 師弟の誓願を果たして迎えた恩師の七回忌法要(64年4月)。その席上、池田先生の口から発表されたのが、小説『人間革命』の執筆だった。そして同年12月、沖縄の地で、執筆闘争の幕が開けた。
 
 「寂光」の章が書き上げられたのは92年8月。恩師の故郷・北海道を訪問した時だった。会合の席上、先生は執筆に込めた思いを語った。
 
 「この戸田墓園に来て、先生にご報告したんです。私は、きちっと、『師弟の儀式』をふんでいるんです」「なぜ札幌で書いたか。それは牧口先生にも、戸田先生にも、そして私にもゆかりの深い札幌だからです。全部、意義があるんです」
 

歴史転換の大躍進を誓い合った全国男子部幹部会(今月10日、東京戸田記念講堂で)

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薪火相伝の原理

 戸田先生の50回忌にあたる2007年4月、「桜花の『4・2』に恩師を想う」と題して、聖教新聞に3回にわたって池田先生の随筆が発表された。恩師・戸田先生との思い出や弟子としての決意がつづられている。
 
 その最後で言及される「薪火相伝」の原理。中国の古典『荘子』に由来する言葉だ。
 
 薪が自らを燃やすことによって火を伝えていくように、牧口先生から戸田先生へ、さらに戸田先生から池田先生へと、三代の会長に厳然と受け継がれてきた広布の炎――。
 
 この炎を次代へと継承できるか否か――今、池田門下の戦いが試されている。