おはようございます。部屋の温度は7℃。月々日々につより給えと。祈り抜いたとおりの人生を送る。苦難を幸福のバネに変えて、果敢に生きるすべを信仰の実践の中でつかんでいこう。今日もお元気で!

 

〈ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史〉第39回 創価学会は校舎なき総合大学 「一輪の花」への深き感謝編③2023年12月24日

  • 信心で結ばれた絆は決して崩れることはない

ページ数の一覧

 島根・松江支部の初代支部長に就いた浜崎巌さんは幼少の頃、家が経済的に苦しく、小学校の授業をきちんと受けることができなかった。
 読み書きが苦手で、御書を読むことにも苦労した。知恵を絞り、御書の表紙を開いたところに、“ページ数の一覧”をつくった。病気と闘っている友への御文、一家和楽を目指し奮闘している同志への御文など、テーマごとの一覧を作成したのである。
 広布拡大の目標を掲げたものの、思う通りにいかないメンバーから相談を受けた時には、「御書の1440ページの5行目から拝読して」と言った。
 「始より終りまで弥信心をいたすべし・さなくして後悔やあらんずらん、譬えば鎌倉より京へは十二日の道なり、それを十一日余り歩をはこびて今一日に成りて歩をさしをきては何として都の月をば詠め候べき」(全1440・新2063)の一節を通して、諦めない心の大切さを訴えた。
 松江支部の支部員は、鳥取、岡山、隠岐の島など各地に点在していた。広範囲な地域を、浜崎さんはくまなく駆け巡った。
 大きな悩みを抱えている友に出会うと、とことんまで一緒に題目をあげた。浜崎さんは「私のできることといえば、題目をあげることしかない。的を射た指導といっても思うように話すことができないし、御書の文証もスラスラというわけにはいかない。“力がない”。そう思うたびに、ひたすら題目をあげ続けた」と。その真心が多くの友の胸を打った。

自筆で残した手紙

 「昭和47年7月豪雨」は、全国各地に甚大な被害を及ぼした。島根県では約1万2000棟の住宅が床上浸水し、被災者は13万人を超えた。
 7月11日、島根創価学会の救援本部になっていた松江会館(当時)の事務室に電報が届いた。秋田にいた池田大作先生からだった。
 「集中豪雨の報に接し、心配しております。同志の皆さんのご無事を祈るとともに、被災者に対しては、心からの激励をお願いいたします」
 連日、松江会館に詰めていた浜崎さんは、救援物資を小舟に積み、会館と被災者のもとを往復した。会館も浸水していた。
 電報から10日後、救援活動に奔走していた浜崎さんのもとに、先生からのはがきが届いた。
 「前略、豪雨を胸臆よりお見舞申上げます。尚 同志の方々の激励 心から感謝致します」
 「同志の方々が元氣であった事を聞き、安心して居ります。何卒、いかなる災難ありとも、安楽なりとの御金言を心得て、今世の眞の佛道修行を全うされん事を祈って居ります」
 師匠からのはがきを家族に読んでもらった浜崎さんは、礼状を書くことにした。家族が代筆をすすめても、「これだけは、わしが自分で書く」と頑として譲らなかった。
 浜崎さんは、第2次世界大戦でビルマ(当時)に出征し、右腕に2発の銃弾を受けた。その後遺症で、ペンを強く握ることができなくなった。それでも、池田先生に感謝を伝えるため、ペンを走らせた。
 長女が用意した下書きに、便箋を重ね、字をなぞった。一つの文字の大きさが、2センチ以上になった。一つ一つの文字は、小刻みに震えていた。
 家族は礼状がきちんと届くように、送り先の住所や宛名は、きれいな文字が良いと考えた。「封筒だけでも代筆を」。だが、浜崎さんは、それも自分で書いた。
 礼状をポストに投函すると、「郵便局を出発したかのう」。少し時間がたつと、「もう東京に着く頃かのう」。少年のように気にかけた。
 数日後、先生から伝言があった。
 「無事に届きました。涙が出る思いで、確かに拝見させていただきました。この手紙を、私は永遠の宝とします」
 戦争で負傷した右手で、必死になって書いた先生への礼状は、浜崎さんが生涯でただ一度、自筆で残した手紙となった。

「昭和47年7月豪雨」で甚大な被害を受ける中、松江会館から小舟に乗り、救援活動に奔走する島根の友。左端が浜崎巌さん

「昭和47年7月豪雨」で甚大な被害を受ける中、松江会館から小舟に乗り、救援活動に奔走する島根の友。左端が浜崎巌さん

やらこいな!(やろうじゃないか!)

 広布の戦いに挑むに当たって、浜崎さんが常に口にした言葉がある。
 「やらこいな(やろうじゃないか)」――決して多くを語らなかったが、この一言が友を奮い立たせた。
 浜崎さんはいつも、大きなロウソクを持ち歩いた。悩みに直面する友がいると、「これが無くなるまで祈ろう」とロウソクを手渡した。
 時には、友と一緒に御本尊の前に座った。1973年8月に初代の島根県長に就いても、「題目根本」の姿勢は変わらなかった。
 “浜崎のロウソク”がなくなるまで祈り続けた宿命転換のドラマが、島根のここかしこで生まれた。広布のリーダーが陸続と巣立った。社会で実証を示すメンバーが次々と誕生した。
 2002年の師走、浜崎さんは敗血症と診断される。翌03年2月、学会行事で上京する長女に「池田先生に、どうか、くれぐれもよろしく言っちょいて、ごせよ」と頼んだ。数日後、霊山へ旅立った。最後の最後まで、先生に感謝し、先生と共に歩み抜いた。
 浜崎さんが亡くなって数年後、あるメンバーが長女のもとを訪ねてきた。そのメンバーが語った。
 「私が悩み事を相談した時、あなたのお父さんは、そうか、そうかと話を聞いてくれ、懇々と励ましてくれた。帰り際、玄関で『今度来る時は、笑顔で来いよ』と言ってくれた。この玄関に立つと、その一言を思い出すんです」
 “必ず友を幸せにしてみせる”との強盛な祈りのこもった真心の言葉は、たった一言であったとしても、いつまでも相手の心を温め続ける――先生一筋の浜崎さんの生涯は、そのことを私たちに教えている。
 もし今、浜崎さんがいたら、先生への限りない感謝を胸に、こう力強く言うに違いない。
 「やらこいな!」

島根・松江市内で行われた約4200人との記念撮影の合間、池田先生は陽光きらめく宍道湖畔で青年たちと語らいのひとときを(1972年9月17日)。一人一人と魂の絆を結んだ

島根・松江市内で行われた約4200人との記念撮影の合間、池田先生は陽光きらめく宍道湖畔で青年たちと語らいのひとときを(1972年9月17日)。一人一人と魂の絆を結んだ

燃え上がった戦う心

 北海道広布の開拓者である岩崎武雄さんは、1975年5月、「創価功労賞」を受賞した。
 岩崎さんは1904年、明治の生まれ。高等小学校を卒業後、米問屋に奉公する。22歳で独立し、札幌市内で精米所を営んだ。
 39年、証券会社を設立。戦後、札幌証券取引所の創設の中心的な役割を担った一人だ。
 ところが、54年、相場での失敗などが重なり、多額の負債を抱える。経済的に順風な人生が、50歳にして下り坂を転げ落ちた。同年8月、信心の話を聞き、入会する。
 翌55年3月11日、「小樽問答」の場で、岩崎さんは池田先生と初めての出会いを刻む。
 「札幌からバスで小樽まで行きました」「身延派との法論対決といっても、司会をされた池田先生の最初の話で勝負がついたようなものです。“よし、これなら勝てる”と声援を送りました」と述懐している。
 「小樽問答」は、岩崎さんの“戦う心”を燃え上がらせた。入会してまだ日も浅かったが、“とにかく折伏だ”と対話に励んだ。
 この年の夏、全国で折伏活動が展開された。池田先生は札幌で指揮を執った。市内を東・西・南・北・中央と五つの区域に分けて、幹部の担当を明確にした。
 岩崎さんは、札幌班の班長代理として、中央を担当する。「それまでは折伏といっても、よく分からないままやっていたが、この時の池田先生の姿から、“仏法とは、なるほどこういうものか”と初めて分かった」

北海道で広布の指揮を執っていた池田先生が、1955年8月20日付で札幌の各地のリーダーに送った電報。カタカナで「最後の戦闘に入る 悔いなき闘争を祈るのみ 池田」と

北海道で広布の指揮を執っていた池田先生が、1955年8月20日付で札幌の各地のリーダーに送った電報。カタカナで「最後の戦闘に入る 悔いなき闘争を祈るのみ 池田」と

移動の合間も友の幸福を祈って

 「札幌・夏の陣」と呼ばれる戦いは、早朝の御書講義から始まった。先生は「経王殿御返事」「上野殿御返事」などの講義を行った。
 岩崎さんは、この時に学んだ「生死一大事血脈抄」の「総じて、日蓮が弟子檀那等、自他・彼此の心なく、水魚の思いを成して、異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉るところを、生死一大事の血脈とは云うなり」(新1775・全1337)との一節を、生涯の指針とした。
 当時、岩崎さんはまだ経済的に苦しい渦中にあった。そんな岩崎さんを、先生は力強く励ました。
 「岩崎さん、事業が失敗したから負けたのではありません。負けたと思う心が、人生を敗北に導くのです。『法華経を信ずる人は冬のごとし。冬は必ず春となる』ですよ」
 55年8月16日から始まった札幌の戦いは、怒濤の勢いで展開された。先生は移動の合間も、“仏縁の拡大”“同志の幸福と勝利”を祈念し、題目を唱え続けた。
 戦いの折り返し地点となる20日の段階で、目標としていた300世帯の弘教を達成。24日に行われた札幌班大会で、388世帯の弘教が実ったことが報告されると、会場は歓声に包まれた。この総会で、札幌班は地区へと発展している。
 全国45都市で行われた折伏活動で、結実した弘教の平均は100世帯。札幌は約4倍の日本一の拡大だった。岩崎さんが担当した中央は、100世帯の弘教を成し遂げている。

「札幌・夏の陣」の時に行われた池田先生の御書講義(1955年8月)。信心の歓喜、広布のロマンあふれる講義は友の心を鼓舞し、日本一の拡大を成し遂げる原動力となった

「札幌・夏の陣」の時に行われた池田先生の御書講義(1955年8月)。信心の歓喜、広布のロマンあふれる講義は友の心を鼓舞し、日本一の拡大を成し遂げる原動力となった

「広布の労苦」は「人生の誉れ」

 札幌の戦いの後、岩崎さんは全道を舞台に対話に走った。空知、旭川、留萌、夕張、帯広、日高、北見……。雨の日も、雪の日も、ただただ広布拡大に奔走した。
 自らの対話で、釧路に新入会者が誕生すると、毎月のように札幌から通い続けた。現在でも車で約4時間の移動距離。だが、岩崎さんは、「広布の労苦」は「人生の誉れ」との確信で、友のもとへ駆けた。
 63年10月、岩崎さんは北海道第5総支部(当時)の総支部長に就任。8日、先生が出席して結成大会が開かれた。
 先生はユーモアを交えて語った。
 「岩崎さんは頑固一徹です。でも、そこがいいんです。信心に頑固だからこそ、私は心から信頼しているのです」
 師の真心に応えようと、信心の歩みを重ねた。その人間革命の戦いに呼応するかのように、新たな事業が好転し、経済革命の軌道が開けていった。50歳で人生のどん底を味わったが、68歳の時には札幌市の中心街に7階建てのビルを持つまでになった。
 そのビルの一室や自宅で、宿命に泣く同志を励ました。信心で経済苦を乗り越えた体験は、多くの友に苦難に立ち向かう勇気を与えた。岩崎さんは、激励を終えると、御本尊の前に座り、励ました同志へ題目を送った。
 先生は、岩崎さん一家と懇談した折、こう語った。
 「権力や財力ではなく、信心の真心で結びついた絆は、決して崩れない」
 師弟の精神は、直接的な出会いではなく、師に誓い、それを果たそうと行動する中に脈動する。その戦いがある限り、池田先生と私たちの絆は永遠に、金剛にして不壊である。

北海道池田講堂の上空に青空が広がる(1991年8月、池田先生撮影)。この北海道訪問の折、先生は語った。「大聖人の門下として、戸田先生の弟子として、御書の仰せの通り、大法弘通のために、難を一身に受けながら戦ってきた。その法戦に、一点の悔いもない。心は青空のごとく晴れわたっている」

北海道池田講堂の上空に青空が広がる(1991年8月、池田先生撮影)。この北海道訪問の折、先生は語った。「大聖人の門下として、戸田先生の弟子として、御書の仰せの通り、大法弘通のために、難を一身に受けながら戦ってきた。その法戦に、一点の悔いもない。心は青空のごとく晴れわたっている」

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