〈栄光の共戦譜〉第20回 1979年(昭和54年)「人材育成の年」2023年9月20日

 池田先生の第3代会長就任60周年を記念して発刊された年譜『栄光の共戦譜』には、黄金の“師弟の足跡”がとどめられている。本連載では、年譜を1年ごとに追いながら、現在の広布の活動に通じる“学会の原点”を確認していく。第20回は、「人材育成の年」と銘打たれた1979年(昭和54年)を掲載する。

わが友よ嵐に不動の信心たれ
 

「2月3~20日」香港・インド訪問

インド独立の父・ガンジーの遺体を荼毘に付した聖地「ラージ・ガート」を訪問。献花の後、署名した(1979年2月8日)

インド独立の父・ガンジーの遺体を荼毘に付した聖地「ラージ・ガート」を訪問。献花の後、署名した(1979年2月8日)

 1979年(昭和54年)2月3日、池田先生は、18日間の香港・インド訪問に出発。同日、先生を団長とする訪印団は、最初の訪問地である香港に到着した。
 先生がアジア広布の第一歩を印した61年(同36年)、香港の座談会に集ったのはわずか十数人だった。18年間で香港の連帯は大きく広がり、5本部の陣容に発展。そして79年2月、先生は、香港広布18周年を記念する勤行会や本部長会に出席し、万感の励ましを送ったのである。
 6日、インドに到着した先生は、11日間の滞在の中で、大学や障がい者を支援する学校の訪問、指導者との会談、史跡や博物館の訪問など、友好と平和の橋を架けるための交流を重ねていった。
 61年の初訪印の際、現地にメンバーはいなかったが、7日に行われた懇談では、約40人の同志が勇んで駆け付けてきた。先生は、悠久のガンジス川に言及し、呼びかけた。
 「皆さんは、インド広布の大河をつくる、源流の一滴、一滴となる方々です。洋々たる未来を信じて前進していっていただきたい」
 戸田先生の生誕の日である11日、池田先生はガンジス河畔に立つと、東洋広布を願い続けた恩師を思い、世界広布の大道を開き続ける誓いを心で叫んだ。
 この訪印は「七つの鐘」の掉尾を飾り、21世紀への新しい旅立ちを意義付ける海外指導として、同志の原点となった。
 2015年(平成27年)、インド創価学会は10万人の陣列を達成。79年の訪印の模様が、小説『新・人間革命』第29巻「源流」の章でつづられた翌16年には、15万人の連帯を成し遂げている。
 「アイ アム シンイチ・ヤマモト!(私は山本伸一だ!)」との合言葉を胸に、インドの同志は、師弟の誓願に生き抜く。
 
 

「4月12日」鄧穎超氏と会談

池田先生は5度目の訪中の折、北京・北海公園で、鄧穎超氏と世々代々の日中友好について語らう(1980年4月24日)

池田先生は5度目の訪中の折、北京・北海公園で、鄧穎超氏と世々代々の日中友好について語らう(1980年4月24日)

 池田先生が、周恩来総理の夫人である鄧穎超氏と中国・北京で初めて会見したのは、1978年(昭和53年)9月だった。先生と周総理との一期一会の出会い(74年)から4年、総理の逝去(76年)から2年がたっていた。
 鄧氏は冒頭、先生に語った。
 「私は来年、『桜が満開のころ』に日本に行きたいと思います」
 それは、先生と周総理との「会話の続き」であった。先生は、総理との会見の際、「桜の咲くころに日本へ来てください」と伝えた。その願望は総理にもあったが、病のため実現することはなかった。
 翌79年(同54年)、鄧氏は全国人民代表大会(全人代)代表団の団長として来日。桜花の季節の4月12日に、東京の迎賓館で先生と再会した。“総理の分身”として、総理の願いを果たした。
 約40分間の和やかな語らいが終わり、席を立つと、先生は、第3代会長を辞する決心であることを告げた。
 「それは、いけません。まだまだ、若すぎます。何よりあなたには、人民の支持があります」――鄧氏は真剣な目で語った。「一歩も引いてはいけません!」
 その時、先生は、いかなる立場であろうと、生涯、日中友好への歩みを貫き通そうと決意を新たにしたのである。
 2人の語らいは8度に及んだ。最後の会談は、氏が亡くなる2年前の90年(平成2年)5月。氏は「先生と総理の友情の形見として」と、総理愛用の象牙のペーパーナイフなどを先生に贈った。
 79年4月、先生は、鄧氏の来日に合わせ、創価大学のキャンパスに、「周夫婦桜」を自ら植樹した。毎年春を迎えると、75年(同50年)に植えられた「周桜」と共に「周夫婦桜」がらんまんと咲き、友情の輝きを放っている。
 
 

「5月5日」「正義」と書を記す

2004年10月の各部代表者会議で、1979年5月5日に神奈川の地で認めた「正義」の書を掲げ、峻厳なる師弟の精神を語った

2004年10月の各部代表者会議で、1979年5月5日に神奈川の地で認めた「正義」の書を掲げ、峻厳なる師弟の精神を語った

 1979年(昭和54年)4月14日、池田先生は、神奈川文化会館の開館記念勤行会で語った。「いかなる時でも、私たちが立ち返るべき原点は、初代会長の牧口先生が言われた“一人立つ精神”であり、広宣流布の大精神であります」
 この頃、宗門の悪僧らによる理不尽な学会攻撃は激しさを増していた。背後で暗躍する卑劣な反逆者もいた。先生は自ら一切の矢面に立ち、会員を守るため、4月24日、第3代会長を辞任する。
 5月3日に開催された本部総会は、宗門僧の“衣の権威”の監視下に置かれたような重苦しい雰囲気となった。
 総会の終了後、会場の外では、健気な同志たちが「先生!」と叫びながら手を振り、先生も真心で応じた。いかなる魔の蠢動も、創価の師弟の金剛の絆を、断ち切ることはできなかった。
 この日、先生は、自らの誓いと弟子への思いを、書として認める。「大山」「大桜」――と。脇書にはそれぞれ、「わが友よ 嵐に不動の信心たれと祈りつつ」「わが友の功徳満開たれと祈りつつ」と加えた。
 先生は同日、神奈川文化会館で再び筆を執り、「共戦」とつづった。さらに5日には「正義」と揮毫し、右下には、「われ一人正義の旗持つ也」と書きとどめた。
 そして、休む暇もなく、世界広布の雄飛のため、新たな行動を開始した。
 小説『新・人間革命』第30巻〈上〉「大山」の章には、「正義」と認めた真情が記されている。
 “いかなる立場になろうが、私は断じて戦う。たった一人になっても。師弟不二の心で断固として勝利してみせる。正義とは、どこまでも広宣流布の大道を進み抜くことだ!”
 嵐に敢然と向かう一人立つ行動――そこに創価の不二の魂が脈打つ。
 
 

◆年表◆
1979年

 〈1月9日〉
 東北指導(~16日。宮城、岩手、青森)
 宮城県新年記念幹部会(10日)。岩手県新年記念代表幹部会(11日)。青森、秋田両県の合同代表幹部会(14日、青森)
  
 〈1月31日〉
 九州指導(~2月3日。鹿児島)
  
 〈2月3日〉
 香港・インド訪問(~20日)
 香港広布18周年記念勤行会(4日)
 東南アジア代表者懇談会(18日、香港)
 インドのM・R・デサイ首相と首相官邸で会談。インドのメンバー40人と懇談し、記念撮影(7日)
 ガンジーが荼毘に付されたラージ・ガートで献花し、ガンジー博物館を訪問(8日)
 カラン・シンICCR(インド文化関係評議会)副会長と会談(8日)、後に対談集『内なる世界――インドと日本』を発刊
 ネルー記念館を訪問(9日)
 “インドの良心”と敬愛されるJ・P・ナラヤン氏と会談(11日)
 帰国後、『悠久の大地に立って――私のインド紀行』を発刊
  
 〈4月12日〉
 中国全国人民代表大会常務委員会副委員長の鄧穎超氏(周恩来夫人)と迎賓館で会談。会長辞任の意向を伝える(東京)
  
 〈4月22日〉
 宗門との問題に終止符を打ち、会員を守るために法華講総講頭辞任の意向を表明(静岡)
  
 〈4月24日〉
 聖教新聞に所感「『七つの鐘』終了にあたって」を寄稿
 創価学会第3代会長を辞任。名誉会長に就任
 ※退転・反逆者や宗門僧は創価の師弟の分断を謀り、池田先生の会合での指導や、その新聞掲載等を禁ずる
  
 〈4月25日〉
 聖教新聞に「全国会員の皆様へ」とのメッセージを寄稿
 「七つの鐘」総仕上げ記念第235回本部幹部会(東京)
  
 〈5月3日〉
 「七つの鐘」総仕上げ記念第40回本部総会。「大山」「大桜」と揮毫(創価大学)
 神奈川文化会館を訪問。「共戦」と揮毫し、「生涯にわたり われ広布を 不動の心にて 決意あり 真実の同志あるを 信じつつ 合掌」と脇書を記す
  
 〈5月5日〉
 「正義」と揮毫。「われ一人正義の旗持つ也」と脇書を記す(神奈川)
  
 〈8月13日〉
 国際親善友好の集いでSGIのメンバーを激励
 41カ国・3地域の友が参加(神奈川)
  
 〈8月15日〉
 世界平和祈願勤行会(東京)
  
 〈8月20日〉
 長野指導(~28日)
 長野研修道場を訪問(20日)。会員約3000人と記念撮影(26日)
  
 〈11月16日〉
 学会創立49周年記念の第242回本部幹部会で「威風堂々の歌」の指揮を執る(東京)
  
 〈12月26日〉
 第3回鼓笛隊総会(東京)