池田先生とシルクロードの世界2023年9月13日

  • 私たちは進む! 人類を結ぶ対話の旅を

 日中平和友好条約の締結(1978年8月12日)から45周年を記念し、東京富士美術館(八王子市)の海外文化交流特別展「世界遺産 大シルクロード展」(主催=同美術館、中国文物交流中心、朝日新聞社)が9月16日に開幕する(12月10日まで)。池田先生は、東洋と西洋を結んだ文化交流の道・シルクロードについて、折々のスピーチなどで言及してきた。ここでは、その足跡を紹介する。

学術調査団の派遣を提案

 「シルクロード」は中国と欧州を結ぶ古代の交易路の総称である。その名は、中国産の絹や生糸などが、インドやローマに運ばれたことに由来する。
 この“絹の道”は、東洋と西洋を結ぶ通商路としての役割にとどまらず、多様な芸術や宗教が出あう“文化融合の道”でもあった。
 2014年には、中国、カザフスタン、キルギスの関連遺跡などが「シルクロード‥長安―天山回廊の交易路網」として、ユネスコの世界文化遺産に認定されている。
 “東西文明の懸け橋であり仏教東漸の道となったシルクロードへの学術調査団の派遣等にも取り組んでいってはどうか”
 創価大学の将来の構想として、創立者・池田先生が提案したのは、1969年5月のこと。この構想が実現したのは、20年後の89年である。同大学で「シルクロード学術調査団」(団長=故・加藤九祚創大名誉教授)が結成された。
 調査団の派遣先となったのは、ウズベキスタン共和国(当時はソ連領内)である。仏教寺院の遺跡が発見され、シルクロード研究の要として注目されていた。
 同国の研究者と共同で、6回にわたって調査・発掘が行われたのが、「ダルヴェルジンテパ遺跡」。遺跡は都城址で、四方は壕の跡と崩れた防壁に囲まれていた。
 89年、91年、93年の3回の調査では、学術的価値の高い仏像や土器などが数多く発見された。それによって、西暦3世紀ごろまでに、仏教がパキスタン北西の地域まで伝わり、同地域の文化の発展に寄与したことが裏付けられた。
 第4回(95年)の調査では、仏教寺院の礼拝室を中心とした遺構の構造の解明などが進んだ。また、これまで見られなかった「文字」が発見された。第5回(2006年)、第6回(07年)の調査では、仏教寺院の領域と活動年代の推定が進められた。同調査団らの研究成果は、シルクロード研究の貴重な資料となっている。
 遺跡の調査・発掘は、創価大学とウズベキスタンが交流を重ねる契機ともなった。02年、同大学から同国のイスラム・カリモフ初代大統領に名誉博士号が授与された。
 同大統領は、池田先生が同国の民衆詩人ナワイーの精神を青年に語る姿に感銘を受けた。04年には、同国から創価大学にナワイー像が寄贈された。その台座には、ナワイーの言葉が刻まれている。
 「全ての人々よ/憎しみあうことなかれ/互いによき友人たれ/友情は人のなすべき道なり」

創価大学とウズベキスタンの研究者が共同で実施したダルヴェルジンテパ遺跡の発掘調査(1993年)

創価大学とウズベキスタンの研究者が共同で実施したダルヴェルジンテパ遺跡の発掘調査(1993年)

緑豊かな創価大学のキャンパス。2009年、「創大門」「創大シルクロード」「創価教育万代之碑」が誕生した

緑豊かな創価大学のキャンパス。2009年、「創大門」「創大シルクロード」「創価教育万代之碑」が誕生した

「敦煌の守り人」との語らい

 中国の敦煌は“シルクロードの宝石”と呼ばれる。その敦煌に、池田先生が関心を抱くようになったのは、小学5年生の時だ。
 教室に大きな世界地図が張ってあった。敦煌の辺りを見ては、先生は“この辺は砂漠で、人はいないんだろうな”と漠然と思っていた。
 ある時、担任の檜山浩平先生が地図の前で、「みんなは世界のどこに行きたいかな?」と尋ねた。池田先生は敦煌の辺りを指さした。すると、檜山先生は語った。
 「そこは敦煌といって、素晴らしい宝物がいっぱいあるところだぞ」
 以来、ゴビ砂漠や天山山脈などを地図で見ながら、池田先生は冒険心を湧き立たせた。
 池田先生が敦煌の文物を具体的に知る契機となったのは、1958年1月に日本で行われた「中国敦煌芸術展覧会」。戸田先生が逝去する3カ月前のことでもあり、会場に足を運ぶことはかなわなかった。だが、展示内容を紹介する記事などを集め、悠久のロマンに思いを馳せた。
 80年4月23日、池田先生は「敦煌の守り人」として名高い常書鴻氏と出会いを刻む。二人は、氏が「水滸伝の英雄たちの友情にも勝る」と語るほどの固い絆を結んだ。対談集『敦煌の光彩』も編んだ。
 氏は私財をなげうち、敦煌芸術の保護に力を注いだ。文化大革命の時には、肉体労働を課せられた。迫害は実に10年にも及んだ。筋金入りの“文化の闘士”が、先生との語らいの折、こう述べた。
 「私は池田先生にお会いすると、魂が揺さぶられるような思いがこみ上げてくるのです」
 「世界の平和のため、文化と芸術のため、中日友好のために、あらゆる批判と迫害を越えて戦われる姿に、私の一生が二重写しのように重なるからです」
 池田先生が創立した東京富士美術館で85年、「中国敦煌展」が開催。先生は人類の文化遺産である敦煌の魅力を国内外に発信してきた。
 常書鴻氏が名誉院長を務めた敦煌研究院は92年、先生に「名誉研究員」の称号を授与。また、先生の肖像画を莫高窟の正面入り口に掲げるなど、先生の功績を最大にたたえている。

第7次訪中の最終日、池田先生と敦煌研究院名誉院長の常書鴻氏が会見(1990年6月、北京市内で)。先生は「半世紀にわたる“敦煌ひとすじ”のご献身は、いかなるドラマよりも感動的です」と氏の生涯をたたえた

第7次訪中の最終日、池田先生と敦煌研究院名誉院長の常書鴻氏が会見(1990年6月、北京市内で)。先生は「半世紀にわたる“敦煌ひとすじ”のご献身は、いかなるドラマよりも感動的です」と氏の生涯をたたえた

未聞の文化交流を開いた講演

 池田先生が創立した民主音楽協会(民音)はかつて、シルクロードにゆかりのある国々の音楽家が一堂に会して公演する、民族音楽史に残る一大プロジェクトを展開した。「シルクロード音楽の旅」である。
 その出発点となったのは、1975年5月、先生のモスクワ大学での記念講演である。「東西文化交流の新しい道」とのタイトルで行われた講演で、先生はシルクロードに言及し、こう強調した。
 「民族、体制、イデオロギーの壁を超えて、文化の全領域にわたる民衆という底流からの交わり、つまり人間と人間との心をつなぐ『精神のシルクロード』が、今ほど要請されている時代はない」
 東西冷戦下の当時、自由主義陣営と社会主義陣営は、一触即発の対立を続けていた。その状況の中で、先生は人間同士の心を結ぶ交流の大切さを訴えたのである。
 この講演を具現化したのが、民音の「シルクロード音楽の旅」だった。世界各地の民族音楽に精通する故・小泉文夫氏をはじめ、多くの識者の協力のもと、実現にこぎ着けた。
 79年7月、中国、インド、イラクの音楽家が来日し、第1回公演「歌編」が行われた。舞台裏では、出演者同士の友情が育まれた。
 その後、第2回の「楽器編」(81年)、第3回の「舞踊編」(83年)へと続き、「遙かなる平和の道」との公演タイトルで、第4回の「総集編」(85年)が行われた。
 当時、ソ連と中国は“敵対関係”にあった。両国の音楽家が公式の場で同席することなどなかった。だが、民音の粘り強い交渉によって、共演が実現したのである。第4回の公演はまさに、文化交流による「精神のシルクロード」が誕生した舞台だった。
 「シルクロード音楽の旅」は、2009年まで全11回、20カ国300人以上の芸術家が参加した。先生の記念講演が淵源となって、未聞の文化交流が開かれたのである。
 ◆ ◇ ◆ 
 池田先生はイラン出身の平和学者テヘラニアン氏との語らいで、こう述べている。
 「『文明の衝突』をどう『文明の対話』『文明の協力』へと方向づけていけるか、そして生命尊重の素晴らしい『世界文化』をつくっていけるか――まさに『新しいシルクロード』への挑戦です」
 紛争や貧困、環境問題など、現代社会は深刻な問題に直面している。だからこそ、私たちは仏法を基調とした、人間主義の哲理を語りながら、力強く進もう。人類を結ぶ新しき「精神のシルクロード」の旅を!

1979年から2009年にかけて行われた民音の「シルクロード音楽の旅」の特別公演(1997年5月、創価大学で)

1979年から2009年にかけて行われた民音の「シルクロード音楽の旅」の特別公演(1997年5月、創価大学で)