〈希望の指針――池田先生の指導に学ぶ〉 親と子の対話2023年8月30日

  • ワキ役ではない あなたも“主役”

 連載「希望の指針――池田先生の指導に学ぶ」では、テーマごとに指導・激励を掲載します。今回は、「親と子の対話」。父母との絆について語った、珠玉の言葉を紹介します。

元気な笑顔こそが喜びに

 親元を離れた青年たちに会ったとき、私は、お父さんやお母さんの近況を尋ねる場合がある。そして「たまには両親に元気な顔を見せてあげなさい」と言うと、「忙しくて」といった返事がよく返ってくる。しかしそれは、忙しいというより、面倒くさいからという場合が多いようだ。
  
 日蓮大聖人は、南条時光に与えられたお手紙のなかで、次のように仰せである。
  
 「親によき物を与へんと思いてせめてする事なくば一日に二三度えみて向へとなり」(全1527・新1850)と。
  
 私が青春時代、まことに感銘した一節である。
  
 たまには親に何かしてあげたいと思っても自分はまだできない。そういうときは、せめて元気な笑顔を見せてあげなさい、きっと何よりも喜んでくれることでしょう、との御慈愛あふれる御言葉である。
  
 (『池田大作全集』第68巻、69ページ)
  

共に家庭を構成する一員

 利害、あるいは感情の対立はよくあることだ。そしてそれが、しばしば対話を決裂させる。
  
 それは結局、自己の立場に固執するところからくる破綻にほかならない。親子の断絶も、親は親、子は子として対峙しているかぎり、容易に乗り越えられるものではない。
  
 しかし、両方が、ひとたびともに家庭を構成する一員であるとの共通感情に立つならば、事態は意外にたやすく好転するはずである。その共通感情が、崇高なものであればあるほど、自分と異なる、さまざまな生き方を包容することができ、対話が実り多いものになることは言うまでもないだろう。(『池田大作全集』第19巻、518ページ)
  

“悔いのない道”を歩もう

 親の言うとおりにして、順調に進んでいる場合も多い。だが、若干、親が古い考え方である場合とか、親の思いやりの過重さが災いとなって、子どもに納得と理解をさせないで、強引に、その方向に行かせようとしている恐れもある。
  
 時代とともに変化するものも大きいし、結論的には、自分自身の希望の道を、自分自身が責任をもって、自分自身がつくりあげ、自分自身が苦労し、悔いのない道を決め、歩んでいくことが正しい方向であると思う。
  
 なぜなら、一生は長いからです。歩むのは自分自身であり、戦うのも、勝利するのも自分自身です。いつまでも、親がいるわけではない。
  
 親は、子どもの希望の方向へ、力強く支援していく姿勢のほうが、親子ともに満足の方向が見いだせるのではないかと、私は思う。
  
(『青春対話2』〈普及版〉、27ページ)
  

私は“この家”に生まれた

 それぞれの家庭に、それぞれの事情があると思う。本人にしかわからない苦しみがあるでしょう。ただ、一つ言えることは、どんな親であっても、親は親です。親がいなければ自分は存在しない。この一点だけでも、重大な意味があることを理解しなければならない。
  
 どうして自分は、この家に生まれてきたんだろう。どうして、ほかの人のように、もっと両親が優しいうちじゃなかったんだろう。どうして、もっと立派な家で、もっといい家族に恵まれて生まれてこなかったんだろう。こんな家なんか出たい。そう思う人もいるかもしれない。しかし、自分は、この地球上の、この地の、この家に生まれてきた。ほかの、どの家にも生まれなかった。そこにすべての「ありとあらゆる意味」が含まれている。仏法に偶然はない。必ず意味がある。
  
(『青春対話1』〈普及版〉、28ページ)
  

アメリカ・デンバーにあるフェリル湖。仲良く泳ぐ水鳥たちを、池田先生がカメラに収めた(1996年6月)。先生は語っている。「今の自分に育つまでに、親をはじめ、たくさんの人から、どれほどの苦労、どれほどの励まし、どれほどの愛情がそそがれたことか――その感謝を忘れてはいけません。今度は自分が、その恩を、子どもたちや後の世代に返していく番です」

アメリカ・デンバーにあるフェリル湖。仲良く泳ぐ水鳥たちを、池田先生がカメラに収めた(1996年6月)。先生は語っている。「今の自分に育つまでに、親をはじめ、たくさんの人から、どれほどの苦労、どれほどの励まし、どれほどの愛情がそそがれたことか――その感謝を忘れてはいけません。今度は自分が、その恩を、子どもたちや後の世代に返していく番です」

 
たまにはサービス精神も

 親というものは、久遠の昔以来、子どもを叱るものである。また、なんとか親の権威と面目をたもとうとする。その切ない立場をわかってあげることだ。
  
 お父さんが、威張りだしたら、「うん、お父さんは、今世は願って庶民に生まれてきた。だけど、せめて家では、ミニ“大統領”か“大社長”になってみたいんだな。オヤジも苦しいところだ。ここはひとつ、犠牲的精神で、民衆の一人になって、聞いてあげよう」と。こう考えられたら、その人は大人である。
  
 また、お母さんが怒りだしても、ともかく返事だけは「はい」「そのとおりです」と素直さを上手に演じておけば、向こうも、それ以上、怒りようがなくなる。
  
 胸の中では「こんなに泣いたり、怒ったり、百面相みたいだな。女優になれなかったから、来世にそなえて練習しているのかな」と考えてあげる余裕をもっていてもいい。
  
 そして、たまには「父上、肩でもおもみしましょう」、「母上、きょうは格別、おきれいですね」と、お世辞でいいから言って、「さすがに良い子どもに育った」と、喜ばせてあげるくらいのサービス精神があってもよいのではないだろうか。
  
 ともあれ、諸君もまた家庭における“主役”である。ワキ役ではない。
  
 自分の家庭を、自分の主体的な努力で明るく、健康な方向へ、幸福の方向へと建設していく権利がある。
  
 (『池田大作全集』第73巻、32ページ)
  

「はい!」は“魔法の言葉”

 特に、返事が大事だ。「はい!」の一言は、親を安心させる“魔法の言葉”なんだよ。
  
 「いってらっしゃい。気をつけるのよ」「はい! いってきます」
  
 「ちょっと、宿題がまだでしょう」「はい! 今やります」
  
 「いいかげん、テレビ消して!」「はい! すぐ消します」
  
 何でもいいんだよ。とにかく元気に「はい!」と返事をすることです。そうすれば、親はまず安心するんです。
  
(『未来対話』、102ページ)
  

「違う」ことが「当たり前」

 親の言うことが、「自分」の意見と合わないのは、むしろ当然です。世代が全然違うし、感覚も、生きている環境も違う。時代の変化も猛スピードだ。だから「違っていて、当たり前」です。問題は、その「違い」を乗り越えて仲良くしていくのか。「違う」から「けんか」してしまうのかです。(『希望対話』〈普及版〉、135ページ)
  

なぜ法華経を説かれたか

 そもそも釈尊が、なぜ法華経を説かれたのか。
  
 大聖人は「父母の御孝養のため」(全1564・新1899)と仰せである。
  
 すなわち、大恩ある両親に、今世だけではない、三世に崩れざる幸福を送るためには、どうすればよいか――そのために、法華経を説かれて、三世永遠の常楽の境涯を教えられたのである。(中略)
  
 戸田先生は青年にこう言われた。「衆生を愛さなくてはならぬ戦いである。しかるに、青年は、親をも愛さぬような者も多いのに、どうして他人を愛せようか。その無慈悲の自分を乗り越えて、仏の慈悲の境地を会得する、人間革命の戦いである」(「青年訓」)と――。
  
 どうか、いつも笑顔で、ご両親に喜びを送りゆく青年であっていただきたい。
  
 (『池田大作全集』第80巻、99ページ)