おはようございます。部屋の温度は29℃。信心根本に負けじ魂で全てを乗り越えることが人生勝利の証。日々教学を身につけ強靱な自分になろう。今日もお元気で。

 

〈ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史〉第35回 創価学会は校舎なき総合大学 御書編⑦2023年8月20日

  • 広宣流布を人生の目的と定めて生きる時、「真金」のような強い自分を築くことができる

厳粛な「師弟の日」

 創価学会が創立されて24年となる1954年11月18日、東京・池袋で初代会長・牧口常三郎先生の十一回忌法要が営まれた。
 第2次大戦の渦中、牧口先生と愛弟子の戸田城聖先生は、治安維持法違反と不敬罪の容疑で、当時の軍部政府に逮捕される。獄中にあっても、自らの信念を貫いた牧口先生は、44年11月18日、73歳で生涯を閉じた。
 翌45年7月3日、戸田先生は生きて獄を出る。法要の席上、戸田先生は獄中での出来事を述懐した。
 「(昭和)20年1月8日、忘れもしません、その日に初めて呼び出され、予審判事に会ったとたんに、『牧口は死んだよ』といわれました」
 「あれほど悲しいことは、私の一生涯になかった。そのとき、私は『よし、いまにみよ! 先生が正しいか、正しくないか、証明してやる。もし自分が別名を使ったなら、巌窟王の名を使って、なにか大仕事をして、先生にお返ししよう』と決心した」
 戸田先生が先師の獄死を知り、広宣流布を固く誓った「1月8日」。池田大作先生は、この日を「厳粛な『師弟の日』」と語っている。

全国の同志の奮闘に心から感謝し、高々と手を上げる池田先生ご夫妻(2003年12月9日、東京牧口記念会館で)。この日、先生は若き日に恩師のもとで戦い抜いた日々を述懐し、力を込めた。「いかなる逆境にあっても、断じて勝つことだ。この勝利の一点にのみ、真実の師弟の証明があり、信仰の道があることを、私は、強く語り残しておきたい」

全国の同志の奮闘に心から感謝し、高々と手を上げる池田先生ご夫妻(2003年12月9日、東京牧口記念会館で)。この日、先生は若き日に恩師のもとで戦い抜いた日々を述懐し、力を込めた。「いかなる逆境にあっても、断じて勝つことだ。この勝利の一点にのみ、真実の師弟の証明があり、信仰の道があることを、私は、強く語り残しておきたい」

諸君に力をつけさせたい

 「黎明の年」と掲げられた66年は、池田先生の提案によって、「高等部の年」とも名付けられた。同年1月8日、先生は高等部の代表に御書講義を開始。その思いをこう記している。
 「高等部員の大多数は、いわゆる『学会二世』で、親が先に入会し、いつの間にか、自分も信心をするようになっていたというメンバーであった」
 「そうした世代が、仏法への確信を深めていくには、教学を身につけることだ。教学という理は、信を生み、高められた信は、さらに仏法への理解を深めていくからである」
 受講生は男女51人ずつ、計102人。大きな会場で、数千人規模の講義ではなく、少人数の形をとったのは、生命を触発し、魂の絆を結ぶためだ。
 第1回の講義が行われた1月8日は、冬休みが終わり、3学期の始業式の日だった。午前中に学校を終えた高等部員たちは、期待に胸を膨らませつつ、足早に学会本部へ向かった。
 午後1時半過ぎ、先生が会場に姿を現した。講義の冒頭、先生はこう切り出した。
 「この御書講義は、私が全部行ってもよいのだが、諸君に力をつけさせたいと思う。そこで、諸君が御文を拝読し、その通解をした後に、私が講義する形にしたい」
 それは、62年8月31日から行われた学生部の「御義口伝」講義と同様の形だった。先生は高等部にも、一人立つ師子の薫陶を開始したのである。
 最初に研さんする御書は「諸法実相抄」。司会が御文の拝読を求めると、先を競うように全員の手が挙がった。受講生は事前に何回、何十回と拝読し、講義に臨んでいた。先生は当時のことを振り返っている。
 「瞳を輝かせた、その真剣な心が、本当に嬉しかった。しかし、私も、君たち以上に真剣であった」

高等部の代表に行われた第1回の御書講義(1966年1月8日、東京・信濃町で)。講義の折、池田先生は「人間革命」の原理を語った。「一人の人間が、本当に真剣な信心に立ち、生命力強く、英知を輝かせていけば、一家も、一族も、大きくいえば、一国も変えていくことができる」

高等部の代表に行われた第1回の御書講義(1966年1月8日、東京・信濃町で)。講義の折、池田先生は「人間革命」の原理を語った。「一人の人間が、本当に真剣な信心に立ち、生命力強く、英知を輝かせていけば、一家も、一族も、大きくいえば、一国も変えていくことができる」

「仏と凡夫」の考え方を逆転

 1時間半にわたる「諸法実相抄」の講義で、池田先生の声が一段と熱を帯びた御文があった。
 「釈迦仏は我ら衆生のためには主・師・親の三徳を備え給うと思いしに、さにては候わず、返って仏に三徳をかぶらせ奉るは凡夫なり」(新1789・全1358)
 ――釈迦仏は、我ら衆生のために、主師親の三徳を具えられていると思っていたが、そうではない。反対に、仏に三徳をこうむらせているのは、凡夫なのである――
 仏によって衆生が輝くのではなく、仏の偉大な徳も凡夫がいればこそ輝くとの仰せだ。日蓮大聖人は、一人の凡夫として、数々の大難を受けることで、末法の御本仏としての境地を示された。大聖人によって、仏の金言は証明されたのである。
 先生が強調した御文は、「仏と凡夫」の考え方を逆転させ、日蓮仏法が「人間のための宗教」であることを示した一節にほかならない。
 先生は高等部員に、学校の先生と生徒との関係に例えて語った。
 「先生がどんなに偉くても、生徒がいなければ、偉さは分からない。生徒がいるがゆえに、学校の先生は必要であるし、価値を生ずるのです」
 講義が終了すると、会場にたい焼きが運ばれてきた。“高等部員たちがおなかをすかせているかもしれない”と、先生が事前に手配していた。
 先生は「さあ、一緒に食べよう」と語り、「このたい焼きは、戸田先生もお好きだった」と。たい焼き一つにも、恩師との思い出を述懐する池田先生の姿に、受講生は胸を熱くした。
 その後、先生は佐藤栄作首相(当時)の招待によって、神奈川・鎌倉へ。首相との会見という重要な行事の直前まで、次代を担う宝の友に、全精魂を注いで励ましを送っていたのである。

大地を燦々と照らす太陽に向かって、木々が真っすぐ、力強く伸びる。その姿は、自身の夢に向かって、雄々しく挑戦を重ねる未来部のメンバーにも似て。池田先生は希望の旭日と光る後継の友に詠み贈った。「勉学の 翼を広げて 君ぞ翔べ 未来の空に 凱歌の虹を」

大地を燦々と照らす太陽に向かって、木々が真っすぐ、力強く伸びる。その姿は、自身の夢に向かって、雄々しく挑戦を重ねる未来部のメンバーにも似て。池田先生は希望の旭日と光る後継の友に詠み贈った。「勉学の 翼を広げて 君ぞ翔べ 未来の空に 凱歌の虹を」

やむにやまれぬ思いで

 1966年2月5日、2回目の御書講義が行われた。「諸法実相抄」の前回からの続きが、研さん範囲だった。
 受講生の原山良江さんは、この講義を通して、「いかにも、今度、信心をいたして、法華経の行者にてとおり、日蓮が一門となりとおし給うべし。日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」(新1791・全1360)との御文を心に刻んだ。
 幼少の頃、毎月のように発熱した。小学4年生の時には、腎炎で1年間、休学せざるを得なかった。
 10歳の時、家族全員で入会。“健康な体に”と真剣に祈り、少しずつ、体は丈夫になっていった。
 中学生の時、父が共同事業に失敗し、多額の負債を抱えた。先生の御書講義は、経済的苦境の渦中だった。長い間、試練は続いたが、家族皆が信心で団結し、乗り越えた。
 93年9月、墨田区の婦人部長(当時)の任命を受けた。墨田広布の伸展に尽くす中で、先生から「世界一 仲よき模範の 墨田かな 三世のスクラム 今世の姿と」など、3首の和歌の激励があった。師の思いを胸に、“仲よき模範の墨田”の建設に奔走した。
 現在、町会の役員や老人会など、地域活動にも励む。その献身の心には、「諸法実相抄」講義での、先生の指導が響いている。
 「人から言われてやるのではない。自分から自覚し、やむにやまれぬ思いで、必然的に進んでいく、活躍していく、貢献していく。その『実相』を地涌の菩薩と言うのです」

池田先生がしたためた「鳳雛飛翔」の書。脇書には「昭和四十一年七月十六日」と。日蓮大聖人が時の権力者に「立正安国論」を提出した意義あるこの日、箱根研修所(当時)で、高等部の人材育成グループ「鳳雛会」(男子)・「鳳雛グループ」(女子)の野外研修が行われた

池田先生がしたためた「鳳雛飛翔」の書。脇書には「昭和四十一年七月十六日」と。日蓮大聖人が時の権力者に「立正安国論」を提出した意義あるこの日、箱根研修所(当時)で、高等部の人材育成グループ「鳳雛会」(男子)・「鳳雛グループ」(女子)の野外研修が行われた

後継の友への万感の真情

 全国から約4000人の少年部(当時)・中等部・高等部のメンバーが静岡県内に集い、合同部員会が開催されたのは、1966年3月28日のこと。席上、池田先生は「私のお願いです」と、二つのことを訴えた。
 一つ目は「勉学第一」である。
 「どんなに苦労しても、勉強に勉強を重ねて、それを頭の中に叩き込んでおいてもらいたい」
 「世界が諸君を待っています。諸君の舞台はあまりにも大きい」
 二つ目は「信心根本」。先生は語った。「信心のうえに立った、思う存分の、諸君らしい人生行路を生き切っていただきたい」
 そして、後継の友への万感の真情を吐露した。
 「私は諸君を信頼しております。諸君が、それを裏切るようであったならば、私に福運がないのです」
 参加者には、衝撃の一言だった。合同部員会に参加したある友は、次のように振り返っている。
 「“先生に『福運がなかった』などと言わせてたまるか! 何が何でも、たった一人になっても、先生の期待に応える人材になってみせる”と、固く拳を握りしめました」
 部員会の終了後、高等部の代表への第3回目となる御書講義が行われた。教材は「生死一大事血脈抄」である。
 「金は大火にも焼けず、大水にも漂わず、朽ちず。鉄は水火共に堪えず。賢人は金のごとく、愚人は鉄のごとし。貴辺あに真金にあらずや」(新1776・全1337)の一節を拝し、先生は強調した。
 「広宣流布を人生の目的と定めて生きる時、『真金』のように、何があっても、壊されることのない、強い人格を築くことができる」
 この講義を受け、川井三枝子さんは“何があっても負けない強い人間に”と決意する。
 結婚して10年ほどがたった頃、青春時代に立てた誓いが、本物かどうかが試される、苦難が襲いかかってきた。当時、小学4年生だった長男の伸作さんがアトピー性皮膚炎を発症。「どうしてこんな思いをしなければいけないのか」との長男の悲痛な叫びに、心が引き裂かれそうになった。
 川井さんは長男の完治を強く祈り、学会活動に懸命に挑んだ。信心の戦いを重ねていた84年7月10日、神奈川文化会館に来館した池田先生と懇談する機会があった。
 先生は語った。
 「悠々と厳然としていくんだ。必ず宿命転換できるよ」
 師の励ましに、川井さんは“真金のように強くなろう”と誓った青春の原点に立ち返った。以来、以前にも増して、広布の大道を力強く進んだ。発症から10年後、伸作さんはアトピーを克服した。
 “池田先生の励ましがあったからこそ、今の自分がある”――川井さんは限りない感謝を胸に、神奈川の天地で師弟共戦の歴史をつづった。19年前からは民生委員・児童委員を務めるなど、地域活動にも力を注いできた。
 今、川井さんは心から思う。報恩の誓いに生き抜く時、人生は『真金』のように輝きを増していく、と。
  
 第4回目の講義は、66年4月23日、学会本部で開催された。教材は「佐渡御書」である。
 (以下、次号に続く)

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