【沖縄】6・23「慰霊の日」 もうひとつの沖縄戦――八重山戦争マラリアの悲劇2023年6月23日

  • 琉球大学名誉教授
  • 八重山戦争マラリア遺族会名誉会長 篠原武夫さん

 きょう6月23日は沖縄の「慰霊の日」。沖縄戦における旧日本軍の組織的戦闘が終結したとされる日である。
 沖縄本島では中南部を中心に激しい地上戦が行われた。
 だが、「もうひとつの沖縄戦」とも称される八重山に起こった「戦争マラリア」の悲劇を知る人は少ない。
 琉球大学名誉教授で、八重山戦争マラリア遺族会名誉会長の篠原武夫さんに、自身の体験とともに八重山の戦争マラリアと、「石垣島事件」について話を聞いた。    

篠原さんは、戦後も長く続いた戦争マラリア犠牲者問題の解決に尽力してきた

篠原さんは、戦後も長く続いた戦争マラリア犠牲者問題の解決に尽力してきた

八重山で起こった「戦争マラリア事件」

 1945年(昭和20年)の太平洋戦争末期に起こった沖縄戦は、「軍官民共生共死の一体化」の方針のもとで、民間人を巻き込んだ国内最大の地上戦でした。
 
 沖縄戦の特徴は一般住民に多大な犠牲者が出たことにあります。「鉄の暴風」と呼ばれた空襲・艦砲射撃、集団自決(強制集団死)、友軍による住民虐殺、餓死や栄養失調、マラリア病死等により、県民の4人に1人が犠牲となりました。
 
 八重山においては、米軍上陸を想定し、八重山守備軍が、足手まといとなる住民を強制的に石垣島や西表島の山間部に移動させました。その避難先は、軍も調査で十分承知していたマラリアの有病地帯でした。それにより、多数の人々がマラリアに罹患し、死亡するという「戦争マラリア事件」が起こりました。
 
 八重山全体の戦争マラリア犠牲者は3647人ですが、その8割以上が軍の避難命令で死亡した者です。波照間島では当時の島民人口の99%が罹患し、約3割の人が命を失いました。
 
 八重山では、多くの人々が銃ではなく蚊によって命を奪われたのです。避難地での医療対策は皆無で、軍は持久戦に備えてマラリア治療の特効薬「キニーネ」を蓄えていましたが、住民に与えることはありませんでした。

石垣島・バンナ公園から望む沖縄で一番高い山「於茂登岳」(2022年12月撮影)

石垣島・バンナ公園から望む沖縄で一番高い山「於茂登岳」(2022年12月撮影)

 戦争当時、4歳だった私は家族6人(父・母・兄・姉・妹・私)で、石垣島の登野城に住んでいました。避難の当初、行き着いた於茂登岳は人が大勢いたため、バンナ岳の方へ。そこでマラリアによって、母・姉・妹の3人を失いました。
 
 隣組の人たちで穴を掘り、埋葬しましたが、私は母が埋められるのをただただ眺めていました。小屋の中で高熱に苦しむ姉の姿が目に焼き付き、乳飲み子だった妹の泣き声は今も耳から離れません。

補償問題の解決と平和祈念館の開館

 私は40代の終わりの頃まで、当時の疎開は自主的に避難したもので、自分の家族がマラリアで犠牲になったのは偶然だとばかり、思っていました。父は生前、八重山の戦争のことを語らず、私は大学進学後、自身の研究に没頭していました。
 
 40代の後半頃から大学での研究活動が一段落したこともあり、沖縄戦のことを知りたいと思いました。その時は、地上戦のあった沖縄本島、とりわけ中南部の惨状を知れば十分と考え、沖縄戦関係の資料を入手し、遺骨収集にも参加しました。

戦争マラリアの実相を伝える「八重山平和祈念館」

戦争マラリアの実相を伝える「八重山平和祈念館」

 ある時、沖縄戦史年表を見ていると、八重山で住民がマラリア地帯の山地へ強制疎開させられた、との記述が目に留まりました。たった2行の文、そして「強制」の2文字に私は怒りがこみ上げてきました。
 
 その後、故郷の「戦争マラリア事件」のことを知りました。犠牲者に対する補償問題を解決できないかと考え、1989年(平成元年)に遺族らと共に「沖縄戦強制疎開マラリア犠牲者援護会」を結成しました。
 
 国、県、石垣市、竹富町等へ要請行動を重ねる中で95年(同7年)、国による3億円の「慰藉事業」という形で補償されることになりました。遺族への見舞金は認められませんでしたが、事業によって「八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑」を建立し、「八重山平和祈念館」を開館することができました。
 
 援護会の解散後は「八重山戦争マラリア遺族会」を発足し、「平和コンサート」や戦争体験講話など、平和発信の活動を主に行ってきました。八重山平和祈念館は、八重山で起こった悲劇と、戦争の愚かさを伝える重要な場所となっています。

バンナ公園内にある「八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑」

バンナ公園内にある「八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑」

慰霊之碑の碑文

慰霊之碑の碑文

石垣島事件の
「米軍飛行士慰霊碑」建立

 戦争マラリアの資料を収集する中で「石垣島事件」についても知りました。
 
 1945年(昭和20年)4月、日本海軍は石垣島で米軍飛行士3人を捕虜として捕らえました。そして、ひどい暴行を加え、惨殺するという、大変に痛ましい事件が起きたのです。
 
 終戦後、事件に関係した元日本兵は最終的に7人が死刑となりました。戦争のために、刑に処せられたこの7人も戦争の犠牲者であると思います。私たちは戦争を憎み、平和の尊さをこの事件から学ばなければいけません。
 
 事件に心を痛めた私は、慰藉事業が完了した後、3人の慰霊碑を建立すべきだと、石垣市とアメリカ側の双方に働きかけを行いました。2001年(平成13年)8月15日に慰霊碑が除幕。除幕式典には石垣市民および、米国からご遺族等の関係者、在沖米軍関係者の方々が参列しました。ずっと日本に対する憎しみの感情を抱いていた遺族の方は、式典を通して、心を開くことができたと言われていました。 

石垣島事件の3人の犠牲者を追悼する「米軍飛行士慰霊碑」

石垣島事件の3人の犠牲者を追悼する「米軍飛行士慰霊碑」

歴史の教訓を後世へ

 今、戦争体験の風化が叫ばれる中で、八重山の「戦争マラリア事件」や「石垣島事件」のような悲惨な出来事が、繰り返されることがないよう、史実と教訓を後世に伝えていきたい。ドイツのヴァイツゼッカー元大統領は「過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在にも盲目となる」との言葉を残しました。
 
 現在、国際情勢は混迷を極め、繰り返される戦火の報道に接し、胸を痛める日々です。沖縄も、ひとごとではありません。だからこそ、未来を担う若い世代が、過去の歴史に目を向け、平和への行動を続けていくことを願っています。

【プロフィル】

 しのはら・たけお 1941年、旧石垣町生まれ。琉球大学名誉教授(農学博士)。沖縄・東南アジアを中心とした林業研究に尽力し、2021年春、瑞宝中綬章を受章。元沖縄戦強制疎開マラリア犠牲者援護会会長。八重山戦争マラリア遺族会の会長も歴任し、現在は名誉会長。19年、遺族会の記念誌として編著『八重山戦争マラリア問題解決の記録―国の慰藉事業実現―』(新星出版)を刊行。