〈英知の光源 希望の哲理に学ぶ〉2023年6月6日

テーマ:下種仏法

 連載「英知の光源 希望の哲理に学ぶ」では、仏法理解を深めるための鍵となる教学用語や法理を解説。また、関連する池田先生の指導を掲載します。今回は「下種仏法」について。創価の仏法対話の意義を考えます。
 

池田先生の指導から

 たとえば、目の前に、絶望に打ちひしがれている人がいるとする。
 「断じて負けてはならない。あきらめてはならない」――渾身の励ましによって、希望に目覚めさせ、勇気を奮い立たせて、力強く立ち上がらせる。学会には、この無数の尊き共戦の姿、そして勝利の姿がある。現実に息づいた、人間主義の姿がある。(中略)
 南無妙法蓮華経の「下種」とは、いわば究極の励ましです。人々の生命の底に眠っている勇気の力、希望の力を引き出し、目覚めさせるのです。限りない人間の底力を奮い立たせるのです。その限りない底力こそ「仏性」にほかならない。
 無限の勇気、無限の希望、無限の智慧の源泉である尊極の仏性を持つがゆえに、人間は尊い。また、その仏性を現実に勇気として現し、希望として現し、そして智慧として現して、正義と幸福の道を堂々と歩みきっていってこそ、人間の尊厳を輝かせていくことができる。これが仏法の人間主義です。(『池田大作全集』第33巻所収、「御書の世界〈下〉」)
 
 

Q1:私たち創価学会員が実践する仏法対話の意義とは?

 妙法に縁させて、人々の心に成仏の種子(仏種)を植えること――すなわち「下種」の実践です。
 中国の天台大師は法華経に基づいて、仏が衆生を成仏へと導く(化導する)過程を、植物の種まき・育成・収穫に例えて「下種・調熟・得脱」の三つの段階があるとしました。
 「下種」とは「種を下ろす」ことであり、人々に成仏の因となる妙法を初めて教えることです。「調熟」とは、仏の化導によって、人々の仏法を理解する力(機根)が次第に増していくことを、生育した種が熟していくことに例えたもの。「得脱」とは、最終的に成仏を遂げさせることです。仏が衆生を化導するそれぞれの利益を、「下種益・熟益・脱益」といいます。
 そもそも、釈尊が説いた膨大な諸経典には「仏種」が明示されていません。唯一、法華経の本門寿量品で、釈尊自身が凡夫であった時に「菩薩道を実践したこと」によって成仏することができたと示しているだけです。つまり、これらの教えでは「熟・脱」の利益にとどまるため、機根が整っていない末法の衆生は成仏できません。
 日蓮大聖人は「種・熟・脱の法門、法華経の肝心なり。三世十方の仏は、必ず妙法蓮華経の五字を種として仏に成り給えり」(新1458・全1072)と仰せになり、「南無妙法蓮華経」こそ、法華経の肝心である成仏の根本法であり、仏種であると明かされました。ゆえに、末法のいかなる衆生にも直ちに仏種を植え、万人を成仏へと導いていける大聖人仏法を「下種仏法」といいます。
 
 

Q2:「下種」によってこそ末法の衆生を救えるのですね。

 「種を下ろす」といっても、仏性はもともと万人に具わっています。しかし、御書に「仏種は縁より起こる」(新1953・全1467)とある通り、仏界の真実を説き示す妙法に縁しなければ、仏性が働き始めることはありません。
 大聖人は「仏になる法華経を耳にふれぬれば、これを種として必ず仏になるなり」(新697・全552)と仰せです。仏法対話によって、相手の“心田”に成仏のための種を植える「下種」の実践が、相手の仏性を発動させる一切の出発点となります。
 この「下種」には、相手に法を聞かせる「聞法下種」と、仏法の実践を決意させる「発心下種」の二つがあります。
 戸田先生は「初めて会って折伏した。けれど信心しなかった。これは聞法下種である。ところが、次の人が行って折伏し、御本尊様をいただかせた。これは発心下種である。どちらも下種には変わりはない。功徳は同じである」と語りました。
 大聖人が「一句をも人にかたらん人は如来の使いと見えたり」(新1721・全1448)と仰せのように、妙法を一言でも語り広げていく人は誰であれ「仏の使い」であり、弘教が実る、実らないを問わず、無量の福徳があることは間違いありません。
 そして、御書には「春夏、田を作るに、早・晩あれども、一年の中には必ずこれを納む」(新363・全416)とあります。
 田に植えられた稲の成長に早い遅いの違いはあっても、必ず実を結んで収穫できるように、誰しも妙法に縁することで、発心の時期は異なっても、いつか必ず成仏という幸の大輪を咲かせることができるのです。
 
 

Q3:縁する人々の幸福を祈り妙法を語っていきます。

 「始聞仏乗義」には「煩悩と業と苦との三道、その当体を押さえて法身と般若と解脱と称する」「法華経に値って三道即三徳となるなり」(新1326・全983)とあります。煩悩・業・苦という「三道」に迷う末法の衆生の生命に、そのまま、仏の法身・般若・解脱という「三徳」を開いていける、下種仏法の偉大な功力を教えられています。
 いかなる迷いの生命も、成仏の根本因へと転換していけるのが妙法です。悲哀を創造の源泉に、逆境を前進へのバネに――日蓮仏法は、価値創造の本源の力といえるでしょう。
 末法濁世での民衆救済に挑まれた大聖人は、衆生の一人一人に内在する仏性の開発を促すことで、時代そのものを変革していける道を開かれました。その意義は、現代においてこそ、ますます輝きを放っています。
 紛争、環境問題、経済不況。未来への不安は、転じて、“人間そのもの”に対する根本的な不信を助長しているのではないでしょうか。ゆえに、万人に無限の可能性が具わることを示す日蓮仏法の生命哲学が、これほど希求されている時はありません。
 人間自身の希望の変革が、時代・世界をも変えていく。これが、大聖人の「下種仏法」の要諦です。
 私たちが目の前の友に妙法を語り、励ましていく「下種」の実践によって、広宣流布の水かさが増します。妙法の力が世界に広がることで、全人類の仏性が触発され、時代変革の大潮流が生まれるのです。