〈紙上教学研さん 御書根本の大道 池田大作先生の講義に学ぶ〉「御義口伝」要文編② 序品第12023年5月20日

 今回の「御書根本の大道 池田大作先生の講義に学ぶ」は、金田男子部書記長が登場。「大白蓮華」昨年12月号の「世界を照らす太陽の仏法」から、法華経の「序品第1」についての「御義口伝」を学びます。

世界を照らす太陽の仏法 「大白蓮華」2022年12月号から

 信順とは、信じて順じる――教えに基づき生きる。つまり師弟の道です。師の言われたことの本質に肉薄し、それを過たずに実践することです。その時、「所聞の理会し」すなわち、仏法の教えを会得し、「師資の道成ず」すなわち、師弟の道を成就することができるのです。
 師弟こそ「如是我聞」の本質です。ここに「不信」を打ち破る要諦もある。
 「日蓮等の類いをもって『如是我聞』の者と云うべきなり」と仰せです。師弟不二の道を歩む人は皆、法華経をわが身で読んで、「如是我聞」したことになる。共々に成仏の道を歩んでいけるのです。
 私たちの立場で言えば、大聖人直結の学会と共に広宣流布に生き切る人が、「『如是我聞』の者」になります。
 ◆ ◇ ◆ 
 広宣流布、立正安国のために悩むのは、仏と同じ尊き悩みです。真剣に祈り、題目を唱え抜きながら悩み、弛まず挑戦する時、「煩悩即菩提」の法理のままに、仏の「菩提の慧火」によって価値創造していける。「生死即涅槃」のままに「涅槃の智火」によって、自他共に崩れぬ幸福の境地を開くことができます。
 「広宣流布の大願」は最も崇高なる煩悩であり、仏の崇高なる願いです。誓願の炎で煩悩の薪を燃やし、永遠の菩薩道に励む私たちの境涯は、仏の生命と一体です。即、仏界となる。ゆえに無限の力と最高の智慧と勇気を、わが色心に漲らせていくことができるのです。
 途中に何があっても、最後に勝てるのが妙法です。一切を変毒為薬して、全てを生命の凱歌に転ずることができる。そして、自らの生命から発する福徳が、一家眷属も照らし、成仏へ導いていくことは、御聖訓に照らして間違いありません。(中略)
 さあ、「御義口伝」の大哲理を生命に刻み、永遠の勝利を晴れ晴れと飾る師弟の旅路を歩んでいきましょう!

海外から来日した青年に励ましを送る池田先生(2002年9月、東京・信濃町の創価文化会館〈当時〉で)。師匠の分身として、青年が全責任を担い、青年が先頭に立って、広布の新展開を!

海外から来日した青年に励ましを送る池田先生(2002年9月、東京・信濃町の創価文化会館〈当時〉で)。師匠の分身として、青年が全責任を担い、青年が先頭に立って、広布の新展開を!

師弟不二の人こそ「如是我聞」の者

金田陽介 男子部書記長

 今回は「序品第1」についての「御義口伝」を学びます。
 その冒頭は、「如是我聞」の内容から始まります。
 「如是我聞」とは「私は仏からこう聞いた」という意味で、法華経全編の冒頭の一句であり、多くの経典の冒頭に出てくる句です。「御義口伝」には次のように仰せです。
 「文句の一に云わく『「如是」とは信順の辞なり。信ずれば則ち所聞の理会し、順ずれば則ち師資の道成ず』。詮ずるところ、日蓮等の類いをもって『如是我聞』の者と云うべきなり云々」(新986・全709)
 池田先生は次のように講義されています。
 「『如是我聞』の一句からは、釈尊と弟子たちとの不二の絆が浮かびます。全生命を賭して、仏である師の言葉を受け止め、実践し抜いてきたからこそ、『このように、私は聞いたのだ』と確信をもって語り得たのです」
 さらに、「『我聞』の本質とは、『自らが南無妙法蓮華経の当体である』ことを聞いた、ということです」と。
 師の心を過たずに受け止められる弟子かどうか。問われるのは、自らが師の生き方に連なり、人々に勇気と希望を送るために「行動」「実践」しているか。自身がそうした使命の存在であることを確信できているか、です。
 「如是我聞」の深意は、自らの師弟の道を見つめ直す意味でも胸に迫ります。
 いくら学会活動の経験を積んできたとしても、訳知り顔で信心を“評論”するような人間になってはいけない。月々日々に、師匠に迫る自行化他の実践を貫こう――私自身、そう決意しました。

 先生は続けて、教えてくださっています。
 「注意すべきは、『不信』と、いわゆる疑問や懐疑とは同じではないということです。大聖人は、『開目抄』に『疑いを強くして答えをかまうべし』(新74・全203)等と、弟子の疑念を真正面から受け止め、一つ一つを明確に晴らし、確信を深めさせています。どんな疑いにも、文証(経文)、理証(道理)、そして現証の上から微動だにしない。『智者に我が義やぶられずば用いじ』(新114・全232)と仰せの通りです」
 私自身も、学会活動を実践し、先生の指導を学ぶ中で、さまざまな疑問や懐疑に対する明確な答えを見いだすことができ、確信を深めてこられたと実感しています。
 人を励ますため、誰かに希望を送るため、足を動かしているか。汗をかいているか。師に連なる実践をしているか。私たちはどこまでも、真の「如是我聞」の弟子でありたいと思います。

“新時代の山本伸一”たらんと、広布の誓願に燃える男子部の友(昨年10月)。明年3月の「世界青年平和大会」へ向け、人材拡大のうねりを起こす

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 もう一つ、序品についての「御義口伝」の中で重要なのが、「即」の一字です。
 「煩悩即菩提も生死即涅槃も、全く正反対と思われるものを『即』の一字でつないでいます。この『即』は、単純なイコールの意味では断じてありません。
 『即』とは変革の法理です。生命の真実の姿を仏の智慧の眼で見れば、煩悩と生死の苦悩に支配された境涯にも、菩提・涅槃という覚りの境涯が内在しています」
 私はこれまで、友人に仏法の生き方を語る中で、「学会の人は自分の悩みも解決していないのに、どうして他人の心配ばかりしているんだ」と言われたことが何度もあります。そんな時、私は「それは逆で、悩みが多いのに人を励まそうとできること自体がすごくない? 信心している人の生き方は、『悩みながらも人を励まそうとする生き方』なんだよ」と答えてきました。
 自分が悩んでいる中で他者を励まそうと思えること自体が、ある意味で悩みに負けない自在な境涯であるし、そうした心を持てること自体が功徳とさえいえるのではないでしょうか。
 さらに、池田先生は教えてくださっています。
 「法華経には、仏も『少病少悩』と説かれています。仏であっても一切衆生を救うために悩み抜いている。だからこそ仏の智慧も休みなく生じている。『悩み』は即、『覚り』への薪となるのです」
 悩みながら人を励ますから、悩みを踏み越えていける自分になっていく――「即」の法理を胸に刻んで現実に向き合う時、限りない勇気が湧いてきます。
広宣流布大誓堂完成10周年の「11・18」へ、訪問・激励と折伏弘教に挑みながら、新たな歓喜と希望をつくっていきたいと、改めて決意しています。

【序品第1の概要】法華経の説法が始まる場所は、古代インドのマガダ国の首都・王舎城の近辺にある霊鷲山。そこに比丘・比丘尼、菩薩たち、神々や人間以外の生物、さらに国王などが集まる。釈尊は瞑想に入り、何も語らない。神通力によって、花が降り、大地が振動し、仏の眉間からの光に照らされて一万八千もの世界が皆の眼前に広がる。この不思議な現象の理由を弥勒菩薩が尋ねると、文殊菩薩は“過去にさまざまな仏たちが、同じようなことを示した後に法華経を説いた”と答える。いよいよ釈尊が法華経を説く舞台が整う。