〈世界に魂を心に翼を――民音が開いた文化の地平〉 タンゴ・シリーズ③2023年4月3日

  • 最後の最後まで「勝利」のために

民音主催によるオスバルド・プグリエーセ楽団「ファイナル・コンサート」の千秋楽公演(1989年11月、東京厚生年金会館で)。紙吹雪が舞う中、オルケスタが奏でる圧巻の音色に、聴衆は惜しみない拍手と喝采を送った

民音主催によるオスバルド・プグリエーセ楽団「ファイナル・コンサート」の千秋楽公演(1989年11月、東京厚生年金会館で)。紙吹雪が舞う中、オルケスタが奏でる圧巻の音色に、聴衆は惜しみない拍手と喝采を送った

 半世紀にわたってラテン音楽界の動きを発信してきた音楽ライターの佐藤由美氏は、アルゼンチン・タンゴ界のマエストロ(巨匠)たちから、共通の“信念”を感じるという。
 
 「マエストロにとって“誇りの結晶”ともいうべき存在が自身のオルケスタ(大編成の楽団)です。楽団の維持に形容し難いほどの執念を込めています」
 
 本年1月に「民音タンゴ・シリーズ」で来日したファクンド・ラサリも、同様の思いを抱いていたと佐藤氏は言う。
 
 「オルケスタでなければ奏でられない、本物のタンゴがある――そう熱く語っていました。かつて彼の祖父である巨匠カルロス・ラサリにも取材しましたが、オルケスタがタンゴの要だと同じく強調していました」
 
 民音タンゴ・シリーズで来日したマエストロの中には、米ニューヨーク・ブロードウェーのゲスト出演の話を断って、楽団と共に来日した巨匠もいた。
 
 「『そんなことして大丈夫なの?』って聞いたんです。そうしたら『平気だよ。自分にとって大事なのは楽団だから』と。自身のオルケスタがどれほど大切か――。それはタンゴの本場でさえ楽団が存続できない中、団員を守り抜いてきた巨匠たちの一貫した信念なんです」
 
 不遇の時代にオルケスタを率い、“タンゴ黄金時代”を築いた一人のマエストロがいた。
 
 オスバルド・プグリエーセ。人呼んで“最後の巨匠”である。

庶民の中で磨いた音楽

 1905年、貧しい共同住宅が並ぶブエノスアイレスの下町でプグリエーセは生まれた。
 
 印刷所で働きながら、新聞を売って家計を支えた。15歳からタンゴのピアニストとなるも、カフェで一晩演奏して得られる報酬はわずか4ペソ。帰宅しては翌朝、そのギャラを母親に手渡した。
 
 母は“いつか息子が「コロン劇場」に出演できたら”と夢見ていたという。アルゼンチンの同劇場は、パリのオペラ座、ミラノのスカラ座と並び称される“世界三大劇場”で、当時、“低俗”と蔑まれていたタンゴを奏でるなど、想像すらつかない。
 
 長い下積みを経て、楽団を結成したのは39年。庶民が集う場で、じっくりと自分たちの音楽を磨く。曲中のたった2小節を数日かけて仕上げる「練習の鬼」だった。一度聞いたら耳から離れない、独特のリズムを刻む「ラ・ジュンバ」をはじめ、数々の名曲を生み出し、やがて“現代タンゴの最高峰”として不動の地位を確立するに至る。平和と平等の理想を、自らの人生と楽団で体現した巨匠でもあった。
 
 79年2月、民音タンゴ・シリーズ第10回の記念に、プグリエーセの出演が実現した。全国57ステージのツアー公演である。
 
 日本タンゴ・アカデミー会長の飯塚久夫氏は述懐する。
 
 「往年のファンの熱狂ぶりは忘れられません。『いよいよ、プグリエーセか!』と沸いたものです。当時、私は九州にいたのですが、九州中のチケットを買って“追っかけ”して回りました。本当にいい思い出です」
 
 日本公演が大盛況の一方、地元アルゼンチンで、タンゴ文化は厳しい状況に置かれていた。当時は軍事政権下で、名だたるタンゴアーティストが国外に活動拠点を移していた時である。
 
 タンゴを楽しめる場所が街中から一つ二つと消え、大御所のプグリエーセでさえ、思うように演奏活動ができなかった。
 
 専門誌「中南米音楽」(79年2月号)には、来日を控えたプグリエーセの談話が掲載されている。以前はラジオで8~9曲、ダンスパーティーで20曲と演奏し、そこで新しい曲が次々に生まれたと振り返る一方で、“今は有名な社交場でも4曲ですよ。4曲で何ができますか?”。
 
 同誌の編集にも長年携わってきた佐藤氏は指摘する。
 
 「そうした本国の状況の中、地球の反対側の日本で57回もの公演が行われた。しかもその全てが立派なホールです。自身のオルケスタで思いのままに演奏できる――。現に彼は民音公演で新曲を披露しています。大歓声で迎えてくれる民音の聴衆に、きっと大きな勇気をもらったのではないでしょうか」
 
 氏は笑顔で付け加えた。
 
 「そんな団体は世界中探しても民音だけでしょう。音楽文化を心から愛し、尊重する。だからこそプグリエーセも全幅の信頼を寄せたのだと思います」

“世界三大劇場”の一つに数えられるブエノスアイレスのコロン劇場

“世界三大劇場”の一つに数えられるブエノスアイレスのコロン劇場

 タンゴ史に不滅の“事件”が起きたのは、民音公演から6年を経た85年。あのコロン劇場に請われて、プグリエーセがタンゴ・リサイタルを開いたのだ。
 
 「こよなく音楽を愛した私の母には、このコロン劇場は、天上のものでした……」
 
 プグリエーセはこう語り、自身の楽団の演奏で夢の舞台を飾ったのである。民衆に根を張った巨匠の“勝利の凱旋”だった。
 
 それから4年後の89年、民音で企画を担当していた本橋伸介さんが、親交を重ねるプグリエーセ氏の自宅を訪ねると、思いも寄らない申し出を受けた。
 
 「『楽団の引退公演を、日本で、民音でさせていただきたい』と――。衝撃でした。最後の舞台に母国のアルゼンチンではなく、民音のステージを選ばれた。それほど愛情を抱いてくださっていたことに涙が出ました」
 
 結成50周年を迎える大オルケスタの解散公演である。同年11月のツアーが電撃的に決まり、タンゴファンの喜びが弾けた。
 
 「当時、ファンには、プグリエーセが聴けるのは、いつ最後になってもおかしくないとの予感がありました。私は最前列で公演を聴いていたのですが、フィナーレで舞った金色の紙吹雪を拾い集めて、今も大切にとってあります」(飯塚会長)
 
 歴史的公演であり、日本ツアーの期間中、北京での公演も日程に組み込まれている。
 
 この時、ツアーに随行した本橋さんは、中国からとんぼ返りしたプグリエーセ氏を成田空港に迎えた。東京への車中、夜景に目を輝かせる巨匠の姿がまぶたに焼き付いているという。
 
 「空気が澄んだ冬の夜でした。彼は珍しく饒舌に話をしていたんです。街並みのネオンを眺めながら、『美しい……』と感嘆していたのが印象的でした」

70年のタンゴ人生を締めくくる民音での引退公演を終えたオスバルド・プグリエーセ氏とリディア夫人が、民音創立者・池田先生と(1989年12月、都内で)

70年のタンゴ人生を締めくくる民音での引退公演を終えたオスバルド・プグリエーセ氏とリディア夫人が、民音創立者・池田先生と(1989年12月、都内で)

 同年12月10日、民音創立者の池田先生は、東京・信濃町の旧・聖教新聞本社にプグリエーセ氏を歓迎している。
 
 「北京に行ってこられたようですね。寒さでお体はどうかと心配していました」
 
 共通の知己である周恩来総理との思い出を語り合う中、民衆を愛し、平和を求める信念は強く響き合った。
 
 池田先生は語った。
 「あなたは『タンゴの王者』です。世界の民衆の『魂の港』に入り、そこに根ざしておられる。この一点を私は最大に注目し、たたえたいのです」
 
 プグリエーセ氏が応える。
 「民衆が大事です。平和が大事です。平和なくして文化もありえません。どこの国でも人々は平和を願っています。しかし願いだけでは足りません。現実の対立を解消しなければならない。その意味で、池田会長は偉大な“平和の守り手”です。世界の人々を友好で結んでおられる。ゆえに私は尊敬するのです」
 
 先生は言葉を継いだ。
 「平和と友情の心――それは人間性の真髄です。また芸術と文化の真髄です。ゆえに“大音楽家”は“大平和主義者”でもある。その証明を今、私は目の前に見る思いです」
 
 氏は唐突に「一つ約束をしておきます」と切り出した。それは、池田先生に献呈曲を贈りたいとの申し出だった。
 
 「曲名は『トーキョー・ルミノーソ(輝く東京)』に決めてあります」
 
 先生は真心に深く感謝し、語った。「できれば、その曲の愛称を『友情の賛歌』と呼ばせていただきたい。日本とアルゼンチンの友情は当然として、すべての国と民族を『友情』で結ぶという意義を込めて」
 
 氏は笑みを浮かべ、応えた。
 「大賛成です。会長と共に力を合わせて、平和へと進みたい。ともあれ私は、最後の最後まで、死の瞬間まで、『勝利』のために戦います」
 
 友情の賛歌「輝く東京」は、その2年後に完成。『タンゴ名曲辞典』(中南米音楽発行)に掲載され、“プグリエーセの真骨頂たる構成の妙と旋律が見事”と評されている。
 
 後に名だたるタンゴアーティストから先生に献呈曲が贈られるようになるが、その第1作がこの「輝く東京」であった。

巨匠の功績をたたえて名付けられた「オスバルド・プグリエーセ駅」

巨匠の功績をたたえて名付けられた「オスバルド・プグリエーセ駅」

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