第26回 「総務の戦い②」 大変な地域へ足を運び、希望の絆を2023年2月27日

  • 〈君も立て――若き日の挑戦に学ぶ〉

イラスト・間瀬健治

イラスト・間瀬健治

【「若き日の日記」1958年(昭和33年)10月20日から】 

学会員を厳然と守ることだ。私の使命は。

難よ来れ。われは恐れない。たじろがない。

勝利の響きを九州から全国へ――九州の同志から贈られた「常勝太鼓」をたたく池田先生(1991年2月、宮崎平和会館で)

勝利の響きを九州から全国へ――九州の同志から贈られた「常勝太鼓」をたたく池田先生(1991年2月、宮崎平和会館で)

九州に汗の歴史あり

 1958年(昭和33年)6月20日、池田先生は、聖教新聞に「若き革命家ナポレオン」と題する一文を寄稿。「前進」こそが、ナポレオンの生涯を貫く姿勢だったことに言及し、こうつづった。
 「妙法の哲理を右に、慈悲の剣を左に持って、世界の平和に、白馬に乗って、雄々しく、前進だ」
 10日後の6月30日、学会の総務に就任した先生は、仏法の慈光を広げるべく、広布前進の先頭に立って、全国を駆けていった。
 8月、盛夏のもとで、精力的に足を運んだのは関西・九州だった。8日、京都へ赴くと、翌9日、列車で福岡に出発。早良区に建設された九州本部の落成入仏式に出席した。前年の57年(同32年)4月、九州総会の席上、戸田先生が「九州に本部をつくろう」と提案。待望の大法城が完成したのである。入仏式を終え、池田先生は呼びかけた。
 「九州の皆さん、戸田先生に届けとばかりに、『東洋広布の歌』を全員で大合唱しようじゃありませんか」
 池田先生の心中は、恩師への報恩の思いでみなぎっていた。先生は、歌に合わせて舞い、九州の新出発を祝福した。
 九州指導からの帰途の12日、先生は和歌山に寄り、青年たちに渾身の励ましを送った。
 その後、16日から3日間にわたって、長野の諏訪・松本に初めて足跡をしるし、帰京後の20日、再び関西・九州指導へと出発。この日の日記につづった。
 「特急『つばめ』にて、一転――関西へ、そして九州へ。(戸田)先生とのお約束だ……私は遂に戦い始めたのだ」
 さらに日記に、こう加えた。
 「鹿児島、桜島――宮崎指導へと、いよいよ師子奮迅の力を発揮。とくに青年部の嬉しそうな顔、顔、顔……。この純粋なる後輩のためにも、われわれは闘うぞ。暑き九州に、汗の歴史あり」
 20日からの関西・九州指導では、初の鹿児島、宮崎訪問を予定していた。翌21日、空路で関西から福岡に入った先生は、23日、鹿児島へと向かった。

あなたが太陽に

第8回中部総会に出席し、友を激励する池田先生(1992年4月、愛知・名古屋市の中部池田記念講堂で)

第8回中部総会に出席し、友を激励する池田先生(1992年4月、愛知・名古屋市の中部池田記念講堂で)

 鹿児島市内で行われた指導会で、池田先生は御聖訓を拝した。西山殿御返事(雪漆御書)の一節である。
 「夫れ雪至って白ければそむるにそめられず・漆至ってくろければしろくなる事なし、此れよりうつりやすきは人の心なり」(全1474・新1951)
 この御文を通し、“信心とは、希望と確信と勇気、そして実践です”と語った。
 この日、池田先生は城山の岩崎谷荘に宿泊。1938年(昭和13年)夏、牧口先生が泊まった施設である。池田先生の訪問の20年前、67歳の牧口先生は鹿児島で、座談会、折伏に臨んだ。
 30歳の池田先生は、先師、恩師から受け継いだ“広布の魂”を燃やし、鹿児島を激励に駆けた。
 翌日の58年(同33年)8月24日、同志と船で桜島へ。30代で迎えた初の入信記念日であった。この時、桜島に会員はおらず、一行を出迎える友はいなかった。先生は、「一日も早く、桜島の広布を」との念願を語った。
 この日を契機として、桜島での弘教が活発化する。同年11月の、鹿児島支部結成の原動力となった。
 桜島訪問を終えた24日、休む間もなく福岡へと戻った先生は、翌25日、空路で宮崎に入り、宮崎市内での「班長・班担当員会」に出席。「宮崎は団結をしていきなさい。心から、お互いの人格を尊敬しあい、守り合っていく同志であってください」と、宮崎広布の要諦を力説した。
 秋に入ると、“総務の戦い”はさらに加速していった。
 9月14日、愛知を訪れ、清須市で開催された女子部、男子部の総会に出席。女子部の総会終了後、代表の友を激励した。父親がいないメンバー、家族から信心反対に遭いながら、純粋に信心に励む乙女もいた。先生は温かく包み込むように語った。
 「反対しているお父さんを大事にしていきなさい。決して嫌ってはいけない。たまには好物を買ってあげたり、肩をもんであげたりするんだよ。優しさがなければ駄目だよ」
 翌日、名古屋市内で懇談会をもち、弘教が進まずに悩む地区部長には、こう励ました。「あなた自身が『太陽』のような存在になることです。そうすれば、必ず良くなります」
 懇談会では、中部の使命を訴えた。
 「広布の途上にあって、中部が占める役割は非常に大きいのです。特に、名古屋が、東京、大阪を結ぶ中間にあって、商工業の発達している現状から見ても、ますますその役割は重大です」
 その後、静岡・浜松で行われた男子部、女子部の総会へ。先生は、男子部に対して訴えた。
 「今こそ、折伏をしなさい。そして、うんとけなされなさい。その悔しさを御本尊に祈り切っていくのです。絶対に幸福になって、学会の正義を宣揚するという“人間革命のくさび”を打っていく時が今です」
 先生の烈々たる気迫に触れ、青年たちは、“浜松、そして静岡から勝利の炎を”と立ち上がったのである。
 列車、飛行機、船――あらゆる交通手段を使って、各地を奔走する先生の体は限界に達していた。
 「熱っぽい一日」(『若き日の日記』、1958年8月31日)
 「心身共に、無理の連続」(同、同年9月17日)
 戸田先生から託された広布の構想を実現するため、激励の歩みを止めるわけにはいかなかった。総務に就任した先生の双肩には、学会の未来がかかっていた。

7万人の祭典

「すべての演目が素晴らしい」――池田先生は、浜松市内で開催された「第1回静岡合唱友好祭」へ足を運び、“静岡家族”の熱演をたたえた(1991年10月)。「私は歌う。皆さまとともに歌い続ける」「成長している人、人間革命している人は光っている。この、皆さまの『人間革命』の光を世界へと送っていただきたい」と語った

「すべての演目が素晴らしい」――池田先生は、浜松市内で開催された「第1回静岡合唱友好祭」へ足を運び、“静岡家族”の熱演をたたえた(1991年10月)。「私は歌う。皆さまとともに歌い続ける」「成長している人、人間革命している人は光っている。この、皆さまの『人間革命』の光を世界へと送っていただきたい」と語った

 9月23日、先生の姿は、東京・国立競技場にあった。
 戸田先生の「原水爆禁止宣言」が発表されてから1年、7万人が参加し、第5回青年部体育大会「若人の祭典」が盛大に開催されたのである。
 企画・運営は、青年部の室長を兼務する先生を中心に入念に行われた。
 午前9時、雨上がりの国立競技場に、花火が打ち上げられ、鼓笛隊、音楽隊が先頭を切ってパレード。その後、約3千人の選手が入場し、スタンドには7万人の同志が勢ぞろいした。文化と友情に彩られた壮観な祭典だった。
 来賓たちは、口々に感嘆の声を発した。先生は、創価の青年の強固な連帯を示し、“学会は空中分解する”との世間の風評を打ち破っていった。
 翌24日、疲労困憊の体を押して、先生が夜行列車で向かったのは大阪だった。「大阪事件」の裁判に出廷するためである。
 公判を終え、26日午前9時の特急に乗って東京へ。しかし、富士駅で停車を余儀なくされる。死者・行方不明者が千人以上に及んだ「狩野川台風」が襲ったのである。先生は、列車で一泊するほかなかった。
 「夜半には、車内も、駅にも、食べ物、全くなくなる。豪雨しきり」(同、同年9月26日)
 台風が通過した静岡県と関東地方では、河川の増水・決壊によって人的被害が広がった。葛飾の総ブロック長を兼任していた先生は、27日に帰京するとすぐに、浸水被害を受けた葛飾に飛んだ。
 さらに、即座に文京支部の男子部に連絡を取り、甚大な被害が及んだ伊豆地方の救援活動を要請した。
 当時、伊豆地方には文京支部のメンバーが多く住んでいた。先生は、電話で明快な指示を出した。
 「最初の2、3日がとても大事です。中でも、食糧や水の援助が大事です」
 「救援するといっても、学会員だけを助けるという姿勢であってはいけません。地域の方によくよく細かく気を配ることが大事です。近隣の方も含めて、救援物資を配ってください」
 すぐに救援物資の調達が行われ、物資を乗せたトラック数台が被災地に向かった。先生は、矢継ぎ早に激励のはがきを現地に送った。全国の同志からの見舞品も届けられた。
 当時の「大白蓮華」には、救援に向かう男子部を見届けた、国鉄職員の声が掲載されている。
 「今まで被災地へ救援に行く者を数知れず輸送したが、これほど、格好といい、精神といい、ホントウにやる気になっている者は、かつてなかった」
 台風発生から1カ月後の10月25日、先生は、被害の大きかった狩野川流域に自ら足を運んだ。救援活動が一段落し、“心の支え”が求められていた。
 静岡・沼津から車で伊豆長岡駅に向かい、“復興の祈り”をしみこませるかのように被災地で題目を送った。
 「元気を出すんですよ」――被災者一人一人に万感の言葉をかけていった。
 温かい励ましを受け、同志は再起を誓った。この時の先生の訪問が縁となって、後年、入会した友もいた。
 「大変なところへ、自ら足を運ぶ」「最も大変な地域、最も厳しい状況で、必死に戦っておられる友を励ます」――この実践こそ、先生が示した創価の魂である。
 獅子奮迅の“総務の戦い”によって、全国の隅々にまで、勇気と希望の明かりが届けられていった。