〈ONE GOSHO この一節とともに!〉 男子部教学室編2023年1月29日

一昨日御書

希望に燃えて先手を打て

 「青年・凱歌の年」が晴れやかに開幕し、各地の男子部の同志は、清新な息吹で対話の旋風を起こしている。次なる立正安国の峰への出発に際して、勝利の鍵となる「入念な準備」の重要性を確認する。

御文

 謀を帷帳の中に回らし、勝つことを千里の外に決せしものなり(新874・全183)

通解

 謀を帷帳(幕を張り作戦計画を練る場所)の中にめぐらし、千里の外に勝利を決した者である。

背景

 本抄は文永8年(1271年)9月12日、日蓮大聖人が、幕府の侍所の所司(次官)として軍事・警察を統括する平左衛門尉頼綱に送られた書状である。
 御執筆の日である文永8年9月12日は、大聖人が「竜の口の法難」に遭われた当日である。本抄は、その経過を物語る一書である。
 本抄御執筆の2日前の9月10日、大聖人は平左衛門尉と対面。その際に、謗法を捨てて正法帰依しなければ、自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(他国からの侵略)が起こることを再び警告された。しかし、平左衛門尉が全く受け入れる姿勢を見せなかったため、改めて本抄を著され、「立正安国論」を付して送られた。

解説

 文応元年(1260年)7月16日の「立正安国論」の提出以来、諸宗等からの迫害は一段と激しさを増したが、その黒幕として、特に大きな影響力を持っていたのが、真言律宗の僧・極楽寺良観であった。文永8年(71年)、祈雨の対決で大聖人に敗れた良観は、幕府要人やその夫人たちに働きかけて弾圧を計画。同年9月10日、幕府は大聖人を呼び出して、平左衛門尉が聴取した。この2日後、「竜の口の法難」に至る。
 本抄の冒頭では、人々が法華経の正しい道に背いて、謗法の邪な道を行じているために、「聖人は国を捨て、善神は瞋りを成し、七難並び起こって四海閑かならず」(新873・全183)と指摘されている。当時、競い起こっていた種々の災難の原因は、国中の人々が正法に背き、邪法に帰依しているからであるとの、「立正安国論」の趣旨を簡潔に述べられている。
 そして、その中で予言した他国侵逼難が、蒙古からの国書の到着として的中したと記されている。大聖人は「極楽寺良観への御状」で、「日蓮は日本第一の法華経の行者、蒙古国退治の大将たり」(新861・全174)と仰せになり、蒙古襲来を乗り越えるためにも、大聖人の言を用いるよう、強くいさめられていると拝される。
 “どうすれば、蒙古の侵略から国を守ることができるのか”――その方途を示唆するために大聖人が引用したのが、今回の拝読御文である。中国の故事を引かれて、太公望と張良という人物が、“最高の作戦を立て、戦わないうちから千里離れた戦場の勝利を決した”と仰せなのである。
 「青年・凱歌の年」の開幕に当たり、勝利の実証を心に期して出発した人も多いだろう。仕事や家庭、学会活動と忙しい中で、全てを勝ち飾っていくためには、何事も入念な事前準備が欠かせない。それは、広宣流布の闘争においても同様である。
 1955年8月、若き池田先生が陣頭指揮を執り、わずか10日間で388世帯という弘教を成し遂げた「札幌・夏の陣」。同じ時に、全国45都市での夏季地方指導で結実した弘教は平均100世帯。その4倍にも迫る快挙であった。
 広布史に燦然と輝くこの拡大の要諦こそ、万全の事前準備である。同年6月末、札幌市担当の責任者として派遣が決定した後、池田先生は札幌班の班長に幾度も手紙をしたためた。その内容は、温かな励ましに始まり目標の共有や全体のスケジュールなど、具体的な戦いの方途に及んだ。この手紙を回覧し、札幌班では勝利を決する布石が次々と打たれていったのである。
 “戦いは勝ったよ!”――8月16日、札幌駅に到着した先生が発した言葉は、単なる願望ではなく、心を砕いた事前の準備に裏打ちされた“勝利宣言”だったのである。
 かつて池田先生は、「仏法は『現当二世』と説く。つねに、現在から未来へ、希望に燃えて、先手先手を打っていくための仏法であり、信心である。この一点を忘れてはならない」と語られた。
 先々の手を打っていくための源泉こそ、“断じて勝つ”との一念を定めた誓願の祈りにほかならない。湧きいだした生命力と智慧によって、「今、何をすべきか」を考え、一つ一つ、着実に行動に移していく。その日々の勝利の積み重ねが、飛躍の凱歌につながることを確信したい。
 どんな対話も、その一歩は友の幸福を祈ることから始まる。悩みに耳を傾け、励ましを送り合う希望の語らいを、さっそうと広げていきたい。