【池田先生の創価大学での講演に学ぶ】「創造的生命の開花を」2022年12月28日

  • 〈第4回入学式 1974年4月18日〉

「諸君のためには、いかなる労苦も惜しまず、新しき世界への道を開いてまいりたい」「どうか、諸君は、“点”と“点”とを“線”で結び、さらに、それを壮大な立体とした世界の平和像をつくりあげていってほしい」――池田先生は創大生に万感の期待を寄せて語った(1974年4月18日)

「諸君のためには、いかなる労苦も惜しまず、新しき世界への道を開いてまいりたい」「どうか、諸君は、“点”と“点”とを“線”で結び、さらに、それを壮大な立体とした世界の平和像をつくりあげていってほしい」――池田先生は創大生に万感の期待を寄せて語った(1974年4月18日)

 創立者・池田大作先生の創価大学での講演を通して、建学の精神を学ぶ本企画。今月は、第4回入学式に池田先生が出席して行った講演「創造的生命の開花を」(1974年4月18日)を掲載する。
 
 

人類の平和と幸福を実現する“発想の母胎”に

 きょうは講演というより、あいさつという内容で話をさせていただきます。海外訪問からもどったばかりで、時差による体の変調もまだ残っていますし、そのため話にも飛躍があるかもしれません。また聞きづらい点があるかもしれませんが、ご了承ください。
 
 まず最初に、入学試験の難関を見事に突破して、晴れて合格の栄冠を勝ちとられた諸君に対し、私は心よりお祝いを申し上げるしだいであります。本当におめでとうございました。(拍手)
 
 ご承知のとおり「知識」や「学問」そのものには、善悪はありません。皆さんは、この最高学府において四年間、優れた学問を研鑽した結果、社会へ出ていってからきわめて巧妙なる知能犯にもなれるし、秀でた有益なるインテリゲンチア(知識人)にもなれるのであります。いずれになるかは、皆さん方各人の自由意思の発動しだいであります。ですから、この四年間、願わくは全員、良心に基づいた学究生活を送られんことを、切にお祈り申し上げるものであります。
 
 私はこの春、親善と文化交流を行うために、三月七日から四月十三日までの約四十日間、北米、中南米に行ってまいりました。創価大学の創立者として、いくつかの大学を訪問し根本的な転換を要求されている現代文明、教育の本質的なあり方について、さまざまに語りあいました。それについての二、三の提案も行い、講演もしてまいりましたので、最初にその報告を、簡単にさせていただきたいと思います。
 
 まず、最初にまいりましたのは、カリフォルニア大学バークレー校であります。同校には十人のノーベル賞受賞の教授がおられますが、ここでは、ボウカー総長と懇談いたしました。
 
 次に訪れたニューオーリンズ大学でもヒット総長と「教育国連」構想、さらにはその前段階として、世界の大学を結ぶ「世界大学総長会議」や学生の連合である「学生自治会会議」を開催することを話しあい、意見の一致をみました。
 
 このことは、後に訪れたカリフォルニア大学ロサンゼルス校のミラー副総長との対話においてもテーマにのぼり、教育交流を中心として世界平和に寄与していくことを、強い共感をもって確認しあったしだいであります。また、同校(ロサンゼルス校)では「二十一世紀への提言」(=『池田大作全集』第1巻収録)と題して、講演も行ってまいりました。
 
 このほか、中南米においてもパナマ国立のパナマ大学、ペルーのサンマルコス大学を訪問し、種々意見を交換しました。
 
 とくに、サンマルコス大学のゲバラ総長からは、同大学訪問に寄せてメッセージをいただきました。総長から創価大学の皆さまにぜひともお伝えいただきたいとのことでしたので、そのメッセージを学長にお渡しし、諸君への伝言といたします。(拍手)
 
 今回の訪米だけではなく、過日、香港においては中文大学を訪問し、同様の提案を行ってまいりました。昨年はヨーロッパの各大学も訪問しております。今後、いよいよ本格的に世界のさまざまな大学から教授や学生が数多く本学を訪れるであろうし、諸君がどんどん行かなければならないような時代がくるかもしれない。忙しくなると思いますが、またそこには、大きな張りあいがあることを、知っていただきたいと思います。
 
 私は、私の信念として、諸君のためには、いかなる労苦も惜しまず、新しき世界への道を開いてまいりたいと思っております。私が、世界の人々のなかを駆けめぐるその胸中には、つねに大切な、そして心より信頼する諸君の存在があることを知っていただきたいのであります(拍手)。どうか、諸君は、“点”と“点”とを“線”で結び、さらに、それを壮大な立体とした世界の平和像をつくりあげていってほしいのであります。これは、私の諸君に対する遺言と思ってください。お願いします。(拍手)
 
 「教育国連」の発想は、国際政治による平和への努力が空転し、行き詰まっている現代にあって、それを教育の力で真実の世界平和を勝ちとるための、最後の、そして確かな切り札であると、私は思っているのであります。そのために、「世界大学総長会議」も提案してきたし、学生諸君が平和へ立ちあがるために「学生自治会会議」の提案も行ってきたわけであります。これらは私一人ではとうていできないし、やがての時代、諸君たちがその実現に努力してほしいのであります。
 
 ともあれ、世界はますます、この“発想の母胎”である創価大学に、注目してくるでありましょう。創価大学の諸君こそ、それにふさわしい世界的偉材と育っていかなければなりません。そして、人間と人間のスクラムによって、脈動しゆく世界交流、信頼関係への樹立へ向かって、大いなる波動を起こしていかなければならない、と私は諸君に期待をかけるものであります。
 
 私がサンマルコス大学を訪問したさい、総長との会談の席に同席した二十数人の教授の方々から、各人のモットーを贈られました。この教授の方々のすべては、ペルーにおいては第一級の教授とうけたまわっております。その一つに「教授も学生も大衆とともに歩み、人類の幸福と平和と英知という目標に到達するまでは、一切の困難を乗り越えるべきである」という言葉がありました。
 
 現代知識人の悪しき習慣は、この“困難”をいつも避けているところにあります。私は避けない。民衆の真っただ中にあって、いかなる困難をも乗り越え、人類の崇高な目的に立ち向かっていく精神こそ、大学の存在理由であり、古くまた新しい大学の使命であると、私は生命の底から叫びたいと思いますけれども、諸君、どうでしょうか。(拍手)
 
 わが創価大学をはじめ、世界の各大学が、そしてすべての教師と学生が大衆とともにこの共同作業に取り組むならば、必ずや人類平和の目標は達せられるにちがいありません。私が今回の大学訪問をとおして、数々の提案をしてきた意義も、ここに帰せられるのであり、本大学の学風建設の当事者たる諸君に、その英知の事業を託したい気持ちでいっぱいなのであります。
 

創立者の精神が脈打つキャンパスで、学生たちは英知を磨き、生き生きと友情を育んでいる(創価大学で)

創立者の精神が脈打つキャンパスで、学生たちは英知を磨き、生き生きと友情を育んでいる(創価大学で)

若き創立者との自覚で

 昨年の第三回入学式の折、少しばかり大学の発祥について、歴史をさかのぼって考察を加えておきました。そのとき、大学というものが制度や建物からではなく、新しい知識と学問を求めようとする若者の情熱と意欲から起こったものであることを、述べておきました。
 
 すなわち、真理をこよなくみずからのものにしたいという若者の熱望がまずあって、それが学問的職業人、つまり教師を生み出し、そしてこの教師と学生との人間的共同体が、今日の大学の淵源になっていったのであります。つまり、もともと大学というものは、学問を求め真理を愛する学生たちの熱誠から始まったということなのであります。
 
 これこそ、大学の始原であると同時に、帰趨であると、私は思うのであります。学生不在の大学となれば、もはや目的の手段化であり、大学の生命はない、と言いたい。残念なことに、今日の日本の大学には、方向喪失と停滞がつきまとっています。ゆえに、今こそ、大学の原点に立ち返る必要があると考えます。
 
 そこで、本日、めでたく入学された諸君に、心の底から要望したいことは、諸君こそ私と同じく、若き大学の創立者であり、創造者であるという一点を、決して忘れないでほしい、ということなのであります。在学中のみでなく、生涯、創価大学を皆の手で建設し、守っていただきたいというのが、私のお願いなのであります。(拍手)
 
 教授と学生の断絶の問題について、サンマルコス大学の副総長と話しあったさい、副総長は、次の二点を述べておりました。
 
 その第一点は、対話が絶えず行われなければならないこと、第二点として、学生が責任をもって大学諸行事に参画できうる体制を講ずべきである、というのであります。私は、この対談で、苦難のなかにも新しい大学の方向を真剣になって模索しているところは、学生をいかにして大学の主役にするかという点に、新たなる、また時代の流れとして、問題の解決を見いだそうとしている、と感じとったのであります。
 
 そこで私は、諸君たちは大学からあたえられるのを待っている、という姿勢ではなく、能動的に、かつ情熱的に“これこそ、大学の新しい希望の灯である”といえる、誇りに満ちた勇気ある建設作業に、取り組んでもらいたいと思うのであります。
 
 とくに対話という問題でありますが、価値ある対話というものは、それぞれの責任感と、信頼感から生まれるものであって、無責任な討論ではないのであります。すなわち、自分たちの大学であるとの強い自覚に基づく責任と、創価大学を人類文化の跳躍台としていくのである、という目的観に結ばれた相互の信頼関係が、必ずや実りある対話をもたらすことでありましょう。そして、本大学に見事な人間的共同体を創出していっていただきたいことを、私は強くお願いするものであります。
 
 これに関連して、私立大学の特質についてふれておきたい。言うまでもなく、私立大学の存在意義というものは、国家権力からの制約を受けることなく、自主的に建学の信念を貫きとおすところにあります。こうした大学の教育にあっては、広く人類の未来に思いを馳せ、世界的視野に立っての有為な人材を、自由に伸び伸びと育成することができるわけであります。
 
 狭い国家意識や、民族意識のワクにとらわれることなく、世界の桧舞台に雄飛すべきスケールの大きな視野の広い青年たちを、荒れ狂う社会の変革のために送り出すところに、私立大学の特色の一つを、見いだしたいのであります。
 

学問と文化の精華を守る砦

 次に、あらゆる大学の使命の一つである学問の研究の場にあっても、私立大学には学閥的閉鎖性のかげりがない。自由な、それでいて活力に満ちた気風がみなぎっていなければならない、と思います。思想の自由、研究の自由、発表の自由、といった学問研究における絶対条件を満たしうるのも、私立大学に課せられた特色である、と私は考えます。
 
 このような、みずからの信条に基づいて築きあげた学問の場こそ、独創的な研究成果を生み、個性豊かな研究者を育てていく母体となり、土壌となるにちがいない。また、泡沫のような時流にとらわれることなく、長大な展望に立っての息の長い研究に取り組めるのも、私立大学に課せられた役割であります。
 
 今、私が私立大学のもちうる特色として挙げた教育と研究のあり方こそが、人類歴史の流転のなかで産声をあげた、大学という制度のもともとの目標であり、使命であった。
 
 これに対して、国立、公立の大学にも種々の長所があり、特色があることも認めなければなりませんが、国立、公立の大学は、なんといっても国家からの要請、制約を無視できないという条件を背負っております。
 
 私立大学には、一国家、一民族の要請を受け入れつつも、さらに遠大な視野に立っての教育と研究を、自由に行いうるという最大の長所が備わっている。また、国家権力のあくどい介入に対抗して、真実の学問と文化の精華を守りぬく砦は、私立大学にこそ見いだしうると、考えたいのであります。
 
 現在、わが国の習性は、明治以来の流れとして、国立、公立の大学に、青年たちの教育と文化興隆の源泉を求めがちであります。いわば、国立、公立の大学を主流とみなしてきたのが、教育者をはじめとする多くの人々の固定観念でありました。
 
 しかし、私は日本と世界の将来を思うにつけても、大学精神を人類社会のなかに生き生きと通わせるには、私立大学こそが主流になるべきではないかと、主張しておきたいのであります。諸君、どうでありましょうか。(拍手)
 
 私立大学に学び、その自由闊達な精神を骨髄にきざみこみ、独創的な知恵を培った俊逸たちが、海を越え、大地を踏みしめて、この地球上のあらゆる民衆の真っただ中に入りゆくとき、初めて人間と人間、民族と民族、庶民と庶民の生命交流が可能となり、異なった文化の見事な融合と昇華が成し遂げられるものと、確信するからであります。
 
 陸続と続く友の輪の広がりから、民衆と民衆をつなぐ強固な交流の懸け橋が築かれ、新たなる地球文化、人類文化の胎動を告げる鼓動が、やがて人々の心を揺り動かすにいたるでありましょう。ともかく、諸君は、民衆間に架けられるべき平和と文化の橋をつくりあげる使節であり、建設者であり、担い手であります。
 
 同時に私は、未来の世界に響きわたる地球新文化誕生を告げる暁鐘を、諸君の手で、打ち鳴らしていってほしいのであります。そして、諸君の連打する暁鐘の音には、幾多の無名の人間庶民の切実な祈りにも似た願望が込められていることも、決して忘れないでいただきたい。
 

1年生から4年生まで全学年が初めて揃った第4回入学式。草創の大学建設を担い立つ決意と喜びが広がった

1年生から4年生まで全学年が初めて揃った第4回入学式。草創の大学建設を担い立つ決意と喜びが広がった

「力」を使いこなす「知恵」を開発する

 ところで最近、世界的に有名な社会学者の著した書に『力と知恵』(中岡哲郎・竹内成明訳、人文書院)という本があります。諸君のなかにもすでに読んで知っている方もあるかもしれませんが、その学者とはジョルジュ・フリードマンというフランス労働社会学の長老であります。
 
 この「力と知恵」の意味するものは“力”とは人間が技術の開発、発展によって得てきた環境支配の力であります。“知恵”とは、この“力”を使いこなし、人間の幸福のために価値判断していく英知をさしております。
 
 今、私はフリードマンの著書の内容を、諸君に説明するつもりはありません。ただ、この“力”と“知恵”という立て分け方を用いて、訴えておきたいことがある。
 
 それは、明治から戦前までの日本の教育、なかんずく大学教育の目標を振り返ってみるとき、あまりにも“力”に偏った指向性があったのではないかということであります。知識を吸収し、技術を身につける、そして“力”の面で一日も早く世界的レベルに追いつかなければならない。これが、日本の教育が追求してきた最大の課題であったと思うのであります。
 
 もちろん、その背景には、長い鎖国によって、科学技術の分野で欧米諸国から立ち遅れていたこと、もし一日も早く“力”をつけなければ、欧米諸国によって植民地化され、蹂躪される恐れがあったことは否定できません。そして、このいわゆる富国強兵政策によって、事実、他のアジア諸国が次々とその自由と独立を奪われていったなかにあって、日本は独立を維持することができたのであります。
 
 しかしながら、こうした“力”を崇拝し、富国強兵を追求し続けた結果が、日本を未曾有の敗戦という事態におとしいれたことも、歴史の尊い教訓の一つとして、とくに諸君たちは胸にきざんでいただきたい。
 
 また“力”の追求のために道具とされた教育が、本来、教育の生命である個々の人間の尊重、人間の尊厳の樹立という一点を失って、国家や企業にとって価値のある人間、すなわち国家、企業という組織のなかの歯車のような部品に甘んずる人間をつくりだしてきた。教育がその手段となってきたということも、忘れてはならない重大な問題であります。
 
 “力”の追求も大事だが、それは同時に“力”を使いこなせるだけの“知恵”の開発をともなわなければなりません。“知恵”とは、人間主体に根ざしたものであり、ソクラテスがいみじくも喝破したごとく「汝自身を知る」ことから発するのであります。ここにこそ、人間を機械の部品に堕落させない、人間を他のいかなる物とも交換しえないものとする、尊厳性樹立の起点があるわけであります。
 
 真実の学問とは、詮ずるところ、この自己への“知”にある。創価大学がめざす学問、教育の理想も、ここにあるといってよい。“力”への学問においては、優れた大学や研究機関が世界に数えきれないほどあるでありましょう。だが、それらは人間に何をもたらしたか。それは、惨憺たる現代文明の虚像ではなかったかとも、みえるのであります。
 
 諸君の使命は、あらゆる“力”を人間の幸福と平和のために使いこなす“知恵”を、身につけることにあると言いたいのであります。それは「汝自身」を知り、それに結びついた形で、学問を究めることであります。それが自分に、すなわち人間にとってどういう関係にあるか――すべてをここに引きもどして知識、技術、芸術の再編成をするとともに、新たな人類の蘇生を、もたらしていただきたいのであります。
 
 その着実な作業の積み重ねのかなたに、人類文化の偉大なるルネサンスがあることを確信し、諸君の成長を、心より祈ってやまないものであります。
 
 フランスの著名な文化人であり、歴史家であるルネ・ユイグ氏も、過日の東京大学での講演で、次のように述べられております。このユイグ博士とは、あす夕刻、お会いする予定になっておりますが(=後に両者は対談集『闇は暁を求めて』〈『池田大作全集』第5巻収録〉を出版)、その講演「自然と芸術における形態と力」というテーマの中で一部分を要約しますと、「現在の危機は文明の危機であり、物質化への危機である。人間の文化の欠点は、それがそれぞれの分野に分けられてしまい、全体というものを見失っている。私は人類の文化は唯一不可分のものと考える。また、知識人は自己の力と知識のすべてを挙げて、文明のために尽くさなければいけないと考える。今日の危機は社会的危機、政治的危機よりもより根本的な文明の危機というべきものである」という意味の警告の論調を展開しておられました。
 
 ここで、二十一世紀に羽ばたきゆく諸君に、私の友愛の情を込めつつ、若干、付言しておきたい。
 
 私は同じく昨年、本大学において“創造的人間をめざすように”ということを、要望してまいりました。そのことに関連して「創造的生命」という点に、言及したいのであります。何も私は、むずかしい哲学の解説をするつもりはありません。そしてまた、一般的定義づけをしようという考えも、毛頭ありません。
 
 ただ私は、諸君に、この長い貴い人生にあって、敗北の影のある、暗い人生の旅行者になってもらいたくないのであります。私自身の体験のうえから“諸君の前途に栄光あれ”と願いつつ、一つの示唆として、お話しするわけであります。
 

逆境への挑戦の中に「人間革命」が

 私の胸にあふれてやまぬ“創造”という言葉の実感とは、自己の全存在をかけて、悔いなき仕事を続けたときの自己拡大の生命の勝ちどきであり、汗と涙の結晶作業以外の何物でもありません。“創造的生命”とは、そうした人生行動のたゆみなき錬磨のなかに浮かび上がる、生命のダイナミズムであろうかと、思うのであります。
 
 そこには嵐もあろう、雨も強かろう、一時的な敗北の姿もあるかもしれません。しかし“創造的生命”は、それで敗北し去ることは決してない。やがて己の胸中に懸かるであろう、さわやかな虹を知っているからであります。甘えや安逸には創造はありえません。
 
 愚痴や逃避は惰弱な一念の反映であり、生命本然の創造の方向を腐食させてしまうだけであります。創造の戦いを断念した生命の落ちゆく先は、万物の“生”を破壊し尽くす奈落の底にほかなりません。
 
 諸君は、断じて新たなる“生”を建設する行為を、一瞬たりともとどめてはならない。創造はきしむような重い生命の扉を開く、もっとも峻烈なる戦いそのものであり、もっとも至難な作業であるかもしれません。極言すれば、宇宙の神秘な扉を開くよりも「汝自身の生命の門戸」を開くことの方が、より困難な作業、活動であります。
 
 しかし、そこに人間としての証があります。否、生あるものとしての真実の生きがいがあり、生き方があります。“生”を創造する歓喜を知らぬ人生ほどさびしく、はかないものはありません。生物学的に直立し、理性と知性を発現しえたことのみが、人間であることの証明にはならないのであります。創造的生命こそ、人間の人間たるゆえんであると思いますけれども、諸君、どうでありましょうか。(拍手)
 
 新たなる“生”を創りだす激闘のなかにこそ、初めて理性を導く輝ける英知も、宇宙まで貫きとおす直観智の光も、襲いくる邪悪に挑戦する強靭な正義と意志力も、悩める者の痛みを引き受ける限りない心情も、そして宇宙本源の生命から湧き出す慈愛のエネルギーと融和して、人々の生命を歓喜のリズムに染めなしつつ、脈打ってやまないものがあるからです。
 
 逆境への挑戦をとおして開かれた、ありとあらゆる生命の宝を磨きぬくにつれて、人間は初めて真の人間至高の道を歩みゆくことができると、私は確信するのであります。ゆえに、現代から未来にかけて“創造的生命”の持ち主こそが、歴史の流れの先端に立つことは疑いない、と私は思います。
 
 この“創造的生命”の開花を、私はヒューマン・レボリューション、すなわち「人間革命」と呼びたい。これこそ諸君の今日の、そして生涯かけての課題なのであります。
 
 最後に私は、十九世紀後半のフランスの作家であり、詩人であるペギー(一八七三年―一九一四年)が「教育の危機は教育の危機ならず。そは生命の危機なり」(『半月手帖』平野威馬雄訳、昭森社)と叫んだ言葉を思いおこすのであります。現代の危機は、まさに学問、教育の内部にまで入り込んでいるところに、その深刻さがあるといってよいでしょう。
 
 ゆえにまた、このことは、教育にこそ未来への突破口があることを物語るものであります。創価大学に私がかけているところのものも、そのためであります。
 
 それでは諸君、どうか楽しく有意義な四年間の出発でありますよう――。そして教授の諸先生方、また職員の方々、先輩の方々、本年入学された“未来の宝”をよろしく、と心よりお願い申し上げて、私の話を終わらせていただきます。
 
 

 『池田大作全集』第59巻所収。時節等については講演時のままにしました。出典・引用については、著者の了解を得て、整備している場合があります。編集部による注は( )内の=の後に記しました。
 
 

 本企画および海外の大学・学術機関での池田先生の講演の連載「創造する希望」は休載いたします。
 
 
(創価新報2022年12月21日付より)