おはようございます。今朝の部屋の温度10℃。孤立化を避け、共々に希望を持って生きていく社会こそ大切ですね。

翼を広げ、一人でも多くの友との関わりが、しっかりとした地域をつくる。一人の一念のおき方を変えることから始めよう。自他共の幸福に生き、スクラムを広げていく推進者として生きていこう!今日もお元気で。

 

〈Seikyo Gift〉 インタビュー 政治学者 姜尚中氏 ぶれることなく大衆と共に 今求められる「中道」の姿勢2022年12月4日

  • 苦悩を抱える人をすくい上げ
  • 社会の極端化を防ぐ人間の絆

 政治学者として世界を見つめながら、社会の課題に切り込んできた姜尚中氏。危機に直面する現代をどう捉え、どんな役割を宗教に期待しているのか――。姜氏にインタビューした。(聞き手=萩本秀樹、村上進 9月3・5日付から抜粋)

政治のありよう

 ――さまざまな危機が噴出する現代の世界のありようを、歴史の上からどう捉えるべきでしょうか。
  
 歴史というのは、繰り返すのではなく、「韻を踏む」。アメリカの作家マーク・トウェインが言ったとされる言葉ですが、これにならえば、現代は1930年代と似た様相を呈していると思います。
 
 1930年代は、ウォール街の大暴落(29年)などを背景に、自由主義と資本主義に対する不信感が高まった時代でした。政府が経済活動に介入しないといった、イデオロギーとしてのリベラリズムは神通力を失い、むしろ、国家が介入することが、社会の秩序を保つ“切り札”であるとされていった。「小さな政府」から「大きな政府」への移行です。
 国民の、国家に対する期待値、国家との一体感を求める思いが、強まる時代だったということもできます。
 
 一方で、現在起こっていることを見てみると、例えば、コロナ禍が始まった一昨年、公明党が主導して実現した「一律10万円の特別定額給付」は、それまでであれば、到底通らなかった提案だと思います。ところが、コロナ禍が長期化した今となってみれば、10万円の給付は当然、なされるべきだったし、それでは到底足りないという話もある。財政規律をいったん棚上げしてでも、国が補助金や給付金を出さなければ、社会が回らない状況となっています。
 国家がどう動くかが、社会にとっても、個人にとっても命綱になっている。ここが30年代と似ています。
 
 しかし日本では、この数十年間、没政治化とさえ言える状況がかなり進んでしまったのが現実です。官僚主導で物事を進め、政治家は口を挟むなという空気があった。その中で、選挙での投票率も下がり続けた。今、日本の最大の問題は、経済の問題ではなく、国家の問題、政治の問題であると私は思います。
 政治がうまく機能するためには、やはり社会が強くなければいけない。そして社会が強いというのは、国家と国民を結ぶ中間集団が機能しているということなのです。

砂粒化する個人

 ――個人でもない、国家でもない、その間に位置する中間集団が、社会で果たす役割について教えてください。
  
 創価学会員のように、中間集団に自分の居場所を持つ人は、自分の考えを伝えるとともに、他にもさまざまな意見があることを知り、議論し合うことができます。一方、そうした場を持たない人は、自分と社会との間に介在する多様な価値観に触れることなく、むき出しの形でメディアの洗礼を受けます。
 すると、自分の身の回りで起こっている現象について、流れてきた情報を鵜吞みにしたり、フェイクニュース(虚偽報道)に侵されたりしてしまう。SNSが普及する現代においては、なおさらです。
 
 現代は、中間集団が痩せ細り、若者を中心に、社会関係の網の目から離脱する人が増えてきています。そうしていわば“砂粒化”した個人が、極端な情報や言説に触れることで、バラバラだった状態から、一定の方向にマスとなって動き出してしまうことがあります。それはナショナリズムや全体主義の温床となる危険をはらんでいます。
 偏った情報や妄想を信じている個人がマスとなって固まれば、極端な方向に向かうのは十分にあり得ることです。
 
 一方で、普段からいろいろな人と自由に、対等に交流し合える中間集団に足場を持っている人は、デマや妄想とは対極の、リアリティーと常に接点を持つ人たちです。
 その結果として、仮に極端な考えを持っていたとしても、リアリティーを伴う人間関係の中で、やがて均衡のある考えへと是正されていくのです。こうした身体的なつながりの価値は、ますます高まっています。
 
 現代は、さまざまな苦悩を抱えて暮らす人がいながらも、彼らを取り巻く社会の課題が、見えづらくなっています。苦悩を誰にも相談できないがゆえに、反社会的な行動を起こす人もいる。個人が、遠心分離機にかけられたように砂粒化し、極端な方向へと動いてしまう。それは、彼らをすくい上げる中間集団がなくなってきているからだと思うのです。

姜尚中氏の近著『それでも生きていく――不安社会を読み解く知のことば』(集英社)

姜尚中氏の近著『それでも生きていく――不安社会を読み解く知のことば』(集英社)

よって立つ足場

 ――砂粒化した大衆が、ナショナリズムといった極端な方向に動いてしまうような事態を、どのようにすれば防ぐことができるのでしょうか。
  
 健全なナショナリズム、あるいは愛国心というものは、「愛郷心」の延長線上にあるものだと私は思います。地域を愛することなくして国を愛そうというのは、非常に観念的であり、うつろなナショナリズムにほかならない。自分という存在が、「どこに錨を下ろすのか」が大切なのです。それは、「愛郷心なきナショナリズム」に流されてしまう自分との、戦いであるともいえます。
 その点、創価学会の牧口初代会長が、「郷土民」という考えを、「国民」「世界民(世界市民)」に先立つ、個人のよって立つ足場として大切にされたことは、今日的な意味があると思います。
 
 昨今のグローバル化の流れの中では、地域に根差すことのないまま、「世界に羽ばたけ」といった言葉が広まった側面もあります。しかし今、ウクライナ危機のようなことが起こり、空気は一挙に反転しています。“海外は怖い”というように。(※強調は編集部)
 改めて、「ぶれない」ことの大切さを思います。そして極端にぶれないためには、自分が錨を下ろせるような、中間的な集団が必要になります。そこに、創価学会をはじめとする宗教団体の役割があるのではないでしょうか。

信仰が原動力に

 ――現代のような危機の時代に、学会に期待することは何でしょうか。
  
 仏法は「中道」(注)の思想を説きますね。よく、中道は“足して2で割った真ん中”という誤った認識がなされますが、私は、中道の実践ほど難しいものはないと理解しています。時代が変わっても変わらずにいて、同時に、変わらないために変わり続けるという中道の立ち位置――今まさに、社会で必要とされている姿勢だと思います。
 
 この非常に難しい立ち位置を、とりわけ政治において貫くのは、信仰的な基盤があってこそできることだと私は思います。思い起こすのは、キリスト教民主同盟を率いたドイツのメルケル前首相です。熱心なキリスト教徒である彼女は、その信仰心を原動力として、中道の立ち位置からの政治手腕を発揮しました。
 
 すでに述べたように、民主主義というのは、ある意味では大衆が過激化する危うさを備えています。国や社会は、国民や市民の思いが集積して成り立つものでなくてはならない。
 ゆえに国民を信頼することが大切である一方で、“砂粒化”した個人が群れとなって動くときは、民主主義とは似ても似つかないものに変わってしまう危険性もある。

 大衆が奔流となって誤った方向に向かうときは、命を懸けて止めなくてはならない。しかし、上から超然として大衆を見るのではなく、自分もその大衆の一人として、大衆の中に入っていくことが、できるかどうかです。
 大衆の大きな流れを受け止めながら、それに流されず、同時にまた、大衆の中にい続ける。私は、池田SGI(創価学会インタナショナル)会長が公明党の出発に際して訴えた「大衆とともに」という指針も、そのような意味ではなかったかと思うのです。
 
 大衆の中にいながら迎合せず、外にいながら中にある――まさしく中道の立ち位置です。
 そうした中道をいざ実践するのは難題ですが、それに挑めるかどうかが試されているのが、現代です。地域に根差して活動する、学会員一人一人が担う役割は大きいと思っています。
 
 現代の人たちは、「自由」という言葉を毎日、シャワーのように浴びて生きてきました。自由が与えられるということは、それだけ多くが自己責任化されているということでもあります。ただ、人は自己責任だけでは生きていけない。病気や災害があれば、誰かの力が必要であり、ネットワークの力ですくい上げられて、初めてまっとうに生きていける人が多くいます。そうした助けとなるのが、創価学会のような中間集団であるわけです。
 中間集団が至る所に存在して、人々をすくい上げられるようにしていくことが、社会の足腰を強くすることだと私は思います。
 
 しかし実際、長年、勤め上げた企業を定年退職した男性の高齢者などは、自分の居場所がないと感じている人が多いのではないでしょうか。一般に「アソシエーション」と呼ばれるような、共通の目的や関心を持つ人々同士が関わり合える空間が、もっと自発的に出てくれば良いと思います。
 中間集団が痩せ細ってしまうと、自分の悩みを誰にも言えない人たちが増えていきます。
 最近では、衝撃的な元首相の銃撃事件(7月8日)もありました。容疑者である青年が犯したことは決して許されることではありませんが、彼も孤独だったのではないか。社会の中に、彼のような人をすくい上げる余地がなくなってきていることの危険性を感じています。
 
 その上で心配なのは、今回の事件に関連して、あくまで「反社会的な団体」と一部の政治家のつながりが問題となっているわけですが、これを機に、「政治と宗教」の関わりを全般的に問題視するような見方があるとしたら、これは全くの筋違いということです。今、見つめなければならないのは、「政治と宗教」というより、「政治と反社会的な団体」の関係性を巡る問題であるからです。

 (注)相対立する両極端のどちらにも執着せず偏らない見識・行動

学会伝統の座談会は、多様な価値観と触れ合いながら、自身を磨く成長の舞台(2020年2月、韓国で)

学会伝統の座談会は、多様な価値観と触れ合いながら、自身を磨く成長の舞台(2020年2月、韓国で)

幸も不幸も人生

 ――長い時間軸で人生を見つめるからこそ、“幸もあれば不幸もある”現実を受け止めることができるようになる――近著『それでも生きていく――不安社会を読み解く知のことば』(集英社)では、ご自身の経験からそうつづられています。
  
 2010年に息子を亡くしたことは、私が、「幸せ」について深く考えるようになるきっかけでした。
 
 何の不自由もないことが幸せであり、それが人生の目的であると考えてしまえば、不幸に見舞われたときに、それを恨んだり、否定したりしてしまいます。そしてそれは、私たちが無意識に抱いている幸福観かもしれません。
 でも、今は悩み一つない人生であっても、誰もが家族や親しい人を失うなどの場面に直面するでしょうし、いつかは自分にも病や死が訪れる。もしも、幸福と不幸が分断されたものであると捉えれば、“いつか自分は不幸になるのではないか”という不安は尽きません。しかし、長い時間軸で人生を見つめて、幸福と不幸は地続きであり、“どちらもあるのが人生だ”と考えると、私自身も完全に不安から解放されたわけではありませんが、だいぶ気持ちが楽になりました。
 
 アメリカの哲学者ウィリアム・ジェームズは、「二度生まれ」という概念を提唱しています。人は苦痛や苦悩を引き受けることで、自分の中の価値観を変え、「二度目の誕生」を経験する、と。
 私は、ジェームズがそう書いた背景には、宗教的な経験があったのではないかと思っています。人生には、知識や経験を増やすといった次元を超越して、人間が“丸ごと”変わる瞬間がある。それは信仰に基づく経験である、と。
 
 そのときに、人は今まで知らなかった、自分の未知の領域を発見します。場合によっては、今まで自分が幸せだと考えていた価値観が、崩れていくかもしれません。
 しかし人間は、現状に満足しているときよりも、幸せではないとき、幸せを求めるその過程にいるときのほうが、思索を重ね、自分を深めていけるという側面があるのではないかと、私は思うのです。
 
 誰の人生にも、1回や2回は訪れるであろう「二度生まれ」の経験は、生き方の転換を促すきっかけになります。池田SGI(創価学会インタナショナル)会長であれば、それを「人間革命」と呼ばれるのではないかと思います。この価値の転換は、知識の伝授では起こりえないものです。

「生みの苦しみ」

 ――「不安社会」を生き抜く若者に、メッセージをお願いします。
  
 最近、若者の口から「希望」という言葉を聞かなくなったと感じています。
 「幸せ」は、何かうれしいことがあったなど、自分一人で感じられる喜びや満足を指すのだと思います。でも「うれしいことがあったから希望を感じた」とは言わない。希望とは、「共に喜ぶ」ことであり、他者がいてこそ感じられるものだと思うのです。
 
 自由と自己責任をうたった価値観のもとで、「幸せ」を実現する人はいるかもしれないけれど、「希望がある」とはなかなか言えないのが現代です。誰かが幸福であれば誰かが不幸であるといった、“ゼロサムゲーム”のように考えられることが多い。幸せそうな人に嫉妬したり、攻撃したりする人もいる。
 格差や不平等がまん延する社会にあって、ドイツの哲学者ニーチェが「ルサンチマン」と表現した、弱者が強者に対して抱く嫉妬・怨恨といった感情が、全世界的な傾向になってしまっているのではないでしょうか。
 
 だからこそ、希望を生み出すことが必要です。自分の未来に希望を抱いている人は、たとえ今不幸であっても、耐えられる。他者の不幸の上に自分の幸福を築くようなことは、しないはずです。牧口初代会長以来、創価学会が実践してきた、「他を益しつつ自己も益する」といった考え方が多くの人々の生き方の軸になっていくことが、希望の源泉になっていくと思います。
 
 現代は、人を幸福にするはずだった自由が、かえって人を孤独にする時代であるともいえます。しかし、かといって、人は自由を求めずには生きられません。難しい時代ですが、同時に「生みの苦しみ」の時代でもあるのです。
 ここをくぐり抜けることができれば、必ず明るい未来が開けてくる――一人一人が、その希望を社会にともし続ける存在になっていただきたいと思います。

 カン・サンジュン 1950年、熊本県生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。国際基督教大学准教授、東京大学大学院情報学環・学際情報学府教授、聖学院大学学長などを経て、現在は、東京大学名誉教授・熊本県立劇場館長兼理事長・鎮西学院学院長・鎮西学院大学学長。専攻は政治学、政治思想史。ミリオンセラーになった『悩む力』をはじめ、『心の力』『マックス・ウェーバーと近代』『在日』『オリエンタリズムの彼方へ』『朝鮮半島と日本の未来』など著書多数。小説作品に『母――オモニ』『心』がある。近著は『それでも生きていく――不安社会を読み解く知のことば』(集英社)。

 ※こちらから、9月3・5日付で掲載されたインタビューの全文をご覧いただけます。

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 kansou@seikyo-np.jp
 ファクス 03-5360-9613

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 本紙の連載をまとめた二つの書籍が好評発売中である。
 『危機の時代を生きる』は、生命科学や歴史、経済、教育等、各分野の識者へのインタビューなどを収録。『危機の時代を生きる2――創価学会学術部・ドクター部編』には、現代における仏法の価値を論じた学術部・ドクター部の友の寄稿などが収められている。
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