〈危機の時代を生きる――創価学会学術部編〉第22回 社会と調和する宗教の視点2022年11月23日

  • 創価大学大学院文学研究科
  • 准教授 大西克明さん

 今、改めて「宗教と社会」に注目が集まっている。現代に求められる宗教の在り方とは、どのようなものか。「危機の時代を生きる――創価学会学術部編」の第22回のテーマは「社会と調和する宗教の視点」。宗教社会学を専門とする、創価大学大学院文学研究科准教授の大西克明さんの寄稿を紹介する。

どこまでも眼前の他者のために 差異乗り越える対話を

 メディアやインターネットで宗教を巡る議論が白熱しています。中には、全ての宗教を不安視するかのような、行き過ぎた言説も見受けられます。宗教とはより良い人生を送るためのものであり、本来、社会と対立するものではないはずです。
 それでは、宗教と社会の望ましい在り方とは何でしょうか。社会から離れ、閉じこもってしまう宗教か。それとも、社会と調和する開かれた宗教でしょうか。
 社会の側の関わり方もまた、時代と共に変遷してきました。
 前近代的な共同体では、宗教指導者が政治指導者と一致する社会も存在しました。あるいは宗教が国家の統治の手段となり、国教として定められた宗教以外の信仰が認められない社会もありました。
 そうした伝統的社会と異なる近代社会の特徴の一つとして、複数の宗教が存在するという事実が挙げられます。17世紀のイギリスの思想家ジョン・ロックは、複雑化する社会における寛容の在り方について論じました(『寛容についての手紙』)。
 そこで彼は、宗教的信念は外在的に操作されるものではなく、内在的に獲得されるものであり、強制性は正しい意味での宗教的信念を生み出さないと述べ、権力は宗教の内面性に干渉してはならないことを訴えました。

自由に「ただ乗り」

 その後、宗教(信教)の自由という人権の理念は、近代社会を特徴づけるものとされ、今日の日本社会は、かつての宗教に対する抑圧的体制への反省から、信教の自由の理念を社会に定着させてきました。
 しかし、リベラル(自由)な社会には、ある種のリスクが伴います。それは、自由に「ただ乗り」するフリーライダー(自由であるから何をしてもよいとする人々)の存在を許容してしまうことです。
 宗教社会学では、日本の新宗教(近代以降に誕生した宗教群)の特徴として現世主義が指摘されています。それは、現実世界を超えたところで救済を求めるのではなく、現実の諸課題を乗り越える側面に意義を見いだします。
 例えば、人間関係の悩みがあれば、そこから逃避するのではなく、自己を変革し、人生を強く生きていく術を仲間たちと切磋琢磨しながら、解決していくという姿です。

善と悪を現実化

 しかし、特に1970年代以降、現世主義が影を潜め、現実の諸課題から逃避することに重きを置く宗教が台頭してきました。
 現世を逃避する志向は、現実世界は「悪」に満ちているという思考と親和性を持ちます。その結果、現実社会との接点(地域社会や家族)を意図的に遮断する傾向を生んでいくのです。
 現実社会に違和感を持ち、人生に苦悩する若者は、そのような宗教団体と接点を持ち始めていきました。しかし、社会との接点を見失うと、社会への責任を放棄してしまう傾向があらわになるように思われます。1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件は、宗教の自由に「ただ乗り」し、社会への責任を忘却した結果であったといえましょう。
 宗教には、さまざまな世界観があります。信仰の内面性は誰も強制的に干渉できません。しかし一方で、宗教そのものは、社会の中で生かされ、社会と共にあるという自覚を、宗教者は真摯に持つべきであると考えます。
 では、なぜ宗教は暴走してしまうのでしょうか。私はその原因を、教理上の「善と悪」という象徴的な意味を、倒錯的に現実化してしまうところに見ています。精神における闘争として表現された「善と悪」が、現実の社会的葛藤の解消に直結しているのです。

精神における闘争として表現された「善と悪」。それを安易に社会的葛藤と結び付ける場合には危険性がある ©MHJ/DigitalVisionVectors/Getty Images

精神における闘争として表現された「善と悪」。それを安易に社会的葛藤と結び付ける場合には危険性がある ©MHJ/DigitalVisionVectors/Getty Images

 個人の苦悩が世界の困難へと直結し、解決の糸口を飛躍させ、時には暴力をも正当化する心理を醸成させます。
 本来、さまざまな葛藤は、多様性豊かな共同体において熟議・調整され解消していくものです。しかし、そのような過程に参画しなければ、あるいは参画を意図的に拒否するのであれば、宗教として自閉化していると言わざるを得ません。この事態は宗教が暴走する因子となります。では、暴走を抑制させるために、私たちは何を学ぶべきか。それが問われているように思えてなりません。
 今、宗教に何が求められているでしょうか。社会との関係の中で、宗教が自閉化せず、その役割を果たす条件について、四つの視点(社会性・倫理性・哲学性・神秘性)から考察してみたいと思います。

開かれた宗教の指標は社会性・倫理性・哲学性・神秘性

 第一に「社会性」です。世俗社会をどのように評価しようとも、社会との調和の中で宗教が存続しているという感覚を持つことが重要だと考えます。反社会的な行動は、調和の感覚が乱れた時に起こるものでしょう。
 仏教は出家(脱世俗)という文化を形成してきましたが、決して世俗との調和を無視したものではありませんでした。初期仏教の律(教団のルール)には、過剰な布施(供養)に対する抑制が説かれています。信仰深い一族が、日常生活に必要な享受物までも布施として比丘僧団に与えていた事態を契機として、そのような布施は受けてはならないと規定されたのです(「提舎尼法」における「学家過受食戒」。『平川彰著作集 第17巻 二百五十戒の研究Ⅳ』を参考にした)。
 何のための布施なのかに対して、教団と信者の間で慎重なやり取りが交わされていると同時に、過剰な布施を受け取らないという教団側の配慮に着目すべきです。
 信仰のためになら何でも許されるとする考え方を戒めているとともに、教団が社会の中で調和して存続しようとしている姿が見受けられます。仏教が長い時を経て存続している理由は、このあたりにあるのではないでしょうか。
 宗教は、他者への温かいまなざしを有しているはずです。その根底に立ち返るならば、他者の尊厳を踏みにじり、社会を「悪」と決めつけて暴力的な言動をするはずはありません。
 第二に「倫理性」という観点から見ていきましょう。現代においては人権感覚、人としての道理の感覚ではないでしょうか。人権感覚には、自他共に幸福を追求しようとする姿勢を基礎とし、弱者の人権を守り抜こうとする意志が伴います。
 ここでいう弱者とは、劣位な立場ゆえに声を発することのできない人々、子どもを含めた弱い立場にある人たちです。子どもを戦闘員として育て、自爆テロ要員としているテロ組織は、倫理性のかけらもないと断じたい。
 弱者は声を上げられません。その声なき声に耳を傾け、吸い上げていく回路を社会的に構築しなければならないと考えます。倫理性豊かな市民社会を創造していきたいという願いは、宗教者に共通するものではないでしょうか。

ルクセンブルクで行われた「人権と宗教」に関するパネルディスカッション。SGIの代表が出席し、キリスト教やイスラム教などの代表と宗教間対話を行った(2018年)

ルクセンブルクで行われた「人権と宗教」に関するパネルディスカッション。SGIの代表が出席し、キリスト教やイスラム教などの代表と宗教間対話を行った(2018年)

 第三に「哲学性」という観点から見ていきましょう。それは理性との対話を拒まない姿勢ではないでしょうか。宗教の意味世界は理性を超えたところにあるのは確かです。しかし、それは理性を否定しているのではありません。理性と共にあり、時には理性を生かしていこうとする側面が宗教にはあります。
 ドイツの社会哲学者ハーバーマスは、「宗教知」と「世俗知」の翻訳可能性を探り、宗教と世俗との対話に期待を寄せています。宗教は「声なき声」に耳を傾ける特質があります。それを世俗社会に反映させることは宗教の重要な役割です。その際、世俗理性との対話の必要性が生じます。
 ここに私は、教育という過程が大切だと考えています。理性的であることと宗教的であることは矛盾しません。むしろ、相互に高め合うことが期待されます。教育は両者を弁証法的に向上させていくものです。
 哲学性を欠如させた宗教は教育の過程を軽視します。また、教育の側も宗教の特徴や役割について深く考えていくことが必要でしょう。宗教知と世俗知との相互の対話は、危機の時代を乗り越える重要な要件であると考えます。
 第四に「神秘性」です。宗教性の核には神秘性が伴います。ここでは健全な神秘性という観点から考えてみましょう。その神秘性は「人間性の向上」「人格の完成」に向けて生かされるものではないでしょうか。
 「宗教」とは究極的な意味に関わる文化現象である、と宗教学では捉えます。その究極性は神秘的な感性と言葉で表出されます。例えば、大自然の神秘性と自らを関連づけることや、「現世の苦難」や「世界の悪」についての解釈はその典型です。
 そのような解釈は、宗教を構成する重要な要素ですが、あくまでも、目の前にいる具体的な他者を救うという営みの中で活用されるべきもので、人間性を疎外させるものであってはなりません。過去世や前世の因縁や業は、人間を良き方向に導くためのものであり、不安にさせるものであってはなりません。
 「人間のために宗教がある」という視点を持つ限り、神秘性を用いて人々を不安に陥れることはないでしょう。「宗教のための人間」に堕することなきよう、宗教者は自覚を新たにすべきだと考えます。

人間のために宗教がある。この視点を確認し合うことが危機の時代の処方箋に ©skaman306/Moment/Getty Images

人間のために宗教がある。この視点を確認し合うことが危機の時代の処方箋に ©skaman306/Moment/Getty Images

純粋性と寛容性をつなぐ仏教の「中道」の在り方

 社会性・倫理性・哲学性・神秘性という四つの視点から、宗教に求められる要件を述べてきました。
 その上でさらに、宗教の「純粋性」について考えてみましょう。ここで注目されるのは、仏教における「中道」の在り方です。
 宗教には純粋性が伴います。自らの信仰によって救いがもたらされると思慮するのはむしろ当然です。
 一方で、宗教が社会に開かれることで、当の純粋性が損なわれるのではないかと危惧するのも、一面では理解できます。社会に開かれるとは、異なる宗教的信念に寛容になると言い換えてもいいでしょう。しかし、純粋性と寛容性は単純に二分できるものでしょうか。
 仏教における「中道」は、対立する二つの考え方を認めた上で、その両者の極端な解釈の弊害を見抜き、正しい判断を導くための指標です。
 純粋性と寛容性は、中道の視点から見れば両立することが可能です。
 言い方を変えれば、社会から閉じようとする性質と、社会へ開こうとする性質は、矛盾するものではありません。宗教的信念を保ちつつ社会との調和を達成することは十分に可能です。
 先に挙げた四つの視点は、そのための指標であると私は考えています。
 創価学会の社会憲章には、「仏法の寛容の精神に基づき、他の宗教的伝統や哲学を尊重して、人類が直面する根本的な課題の解決について対話し、協力していく」「人権を擁護し促進する。誰一人差別せず、あらゆる形態の差別に対し反対する」とあります。
 これらの憲章は、池田大作先生の卓越したリーダーシップにより全世界に示された創価学会の根本理念です。苦しむ人々を救いつつ、世界に平和をもたらすための潮流をつくり上げるものといえましょう。宗教的信念と社会との調和が見事に示されています。
 対話という哲学的で教育的な価値を大切にすることこそ、現代社会に求められている宗教のあるべき姿であると私は確信しています。
 人間のために宗教はあります。宗教のために人間を利用してはならないという強固な誓いを、全世界の宗教者が互いに確認し合い、深めていくことこそが、危機の時代の処方箋になるのではないでしょうか。
 私自身、学術部員の一人として、また東洋哲学研究所の研究員として、危機の時代に応戦すべく、学術の探究をしていきたいと誓いを新たにしています。

〈プロフィル〉

 おおにし・かつあき 1972年生まれ。博士(社会学)。日本宗教学会評議員。専門は宗教社会学、近代日本宗教史。創価大学を卒業後、東洋大学大学院社会学研究科博士課程修了。現在は創価大学大学院文学研究科准教授。共著に『シリーズ日蓮第4巻 近現代の法華運動と在家教団』(春秋社)など。東洋哲学研究所研究員。創価学会学術部員。支部長。

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 『危機の時代を生きる』(写真右)は、生命科学や歴史、経済、教育等、各分野の識者へのインタビューなどを収録。『危機の時代を生きる2――創価学会学術部・ドクター部編』(同左)には、現代における仏法の価値を論じた学術部・ドクター部の友の寄稿などが収められている。

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『危機の時代を生きる』

『危機の時代を生きる』

『危機の時代を生きる2――創価学会学術部・ドクター部編』

『危機の時代を生きる2――創価学会学術部・ドクター部編』