〈世界に魂を心に翼を――民音が開いた文化の地平〉 ミラノ・スカラ座⑧2022年10月20日

  • 芸術と人間の真髄に迫る公演

スカラ座でテノール歌手として活躍したレオニダ・ベロン氏㊨が、池田先生との再会を喜ぶ(1990年5月、都内で)

スカラ座でテノール歌手として活躍したレオニダ・ベロン氏㊨が、池田先生との再会を喜ぶ(1990年5月、都内で)

 イタリアの歌劇場で日本人初となる音楽監督に就き、ボローニャ歌劇場の首席客演指揮者等を務めた吉田裕史氏が、かつてオペラ界の重鎮のオフィスに招かれた時のこと。
 
 その重鎮は一冊のアルバムを取り出し、開いて見せた。
 
 並んでいたのはミラノ・スカラ座の海外ツアーの写真。1981年秋、初来日公演という。
 
 現地と遜色ない舞台装置。
 
 ソリストらの至極の顔ぶれ。
 
 500人ものオーケストラ、合唱団、スタッフをはじめ、大型トラック80台分の機材が遥か日本へ渡った。それまでの海外公演の常識を覆す規模である。
 
 「本国での公演も含めて、あの日本公演は最高峰だ」
 
 熱を込める重鎮の名は、ボローニャ歌劇場総裁のフランチェスコ・エルナーニ氏。
 
 81年当時はスカラ座副総裁・事務総長、後にローマ歌劇場総監督に。ミラノとローマの2大歌劇場で要職を歴任し、数々の名演を実現してきた。
 
 氏は言う。あの日本公演こそ“伝説の公演”だった――と。

ミラノ・スカラ座の初来日公演「オテロ」(1981年9月、東京・NHKホールで)

ミラノ・スカラ座の初来日公演「オテロ」(1981年9月、東京・NHKホールで)

“遠い世界”へ導いてくれた

 「初の日本公演に参加した同僚は、今では大半が引退しています。ですが私は仕事柄、これまで多くの人に当時の様子を聞く機会に恵まれてきました」
 
 そう話すのは、スカラ座で歴史資料の保管責任者を務めるアンドレア・ヴィタリーニ氏。
 
 スカラ座の公演史を画するアジア初のツアーである。欧米と異なる“別世界”で、しかも1カ月に及ぶ長期公演は、参加者の胸に鮮烈な記憶として残る。
 
 「口をそろえて言っていたのは、日本各地で出会った人々の歓迎ぶりです。皆、感激をもって話していましたね」
 
 大好評を博した81年の引っ越し公演。その後、スカラ座の日本公演はNBS(日本舞台芸術振興会)が窓口となって行われていくことになるが、その第1回の意義について氏は述べる。
 
 「初交渉から実現に至るまで16年という“長い構想期間”がありました。数々の苦労や困難を経て、あの第1回公演が、スカラ座を“遠い世界”へ導いてくれたのだと思います」
 
 スカラ座の楽団内でも、当時の模様が語り継がれている。
 
 ミラノ・スカラ座フィルハーモニー管弦楽団で、現在、コンサート・マスターを務めるジョルジョ・ディ・クロスタ氏。
 
 「スカラ座250年の歴史の中で、非常に重要な一幕だったと伝えられています。その後に続く『原点』であると同時に、今に語られる『伝説』ともいうべき舞台だと認識しています」
 
 バイオリニストとして来日したシーラ・バーンズ氏は「東洋での演奏経験は誰もなかったと記憶しています。演目の完成度もさることながら、聴衆の真心にあふれた公演でした」と。
 
 「音楽は人生に安息を与えるもの。言葉や文化は違えど、音楽を通じて人と人はつながれる。それを証明したのが、この日本公演だったのだと思います」

“文化を学ぶ”信念

 今では当たり前となった海外オペラハウスの招聘が、まだ根付いていない時代である。
 
 81年の公演が“人生初”のオペラ鑑賞となる人も多かった。
 
 民音は、オペラになじみが薄い人も公演を楽しめるように、また世界一流の歌劇場を“世界一流の観客”で迎えられるように、事前の“予習”となる取り組みに力を注いだ。
 
 81年2月には都内で「『ミラノ・スカラ座』講演会」を7日間にわたって実施。ソプラノ歌手やオペラ評論家を講師に迎え、上演される4演目の“見どころ”“聴きどころ”を伝えている。
 
 また7月から8月にかけて、東京のホテルニューオータニで「ミラノ・スカラ座展」を開催。ヴェルディ作曲「ナブッコ」のオリジナル楽譜やトスカニーニが使用した指揮棒、モーツァルトの毛髪など、国宝級の品々が展示され、1万6000人が来場する盛況となった。

来日公演を前に都内で開催された「ミラノ・スカラ座展」(1981年7月)

来日公演を前に都内で開催された「ミラノ・スカラ座展」(1981年7月)

 期待が最高潮に達した中で迎えた26公演は、どの地でも爆発的な感動に包まれたのである。
 
 こうした民音の取り組みの源には、創立者・池田先生の“文化を学ぶ”信念がある。
 
 ある集いで先生は語った。
 
 “民音が日本に招聘する音楽の中には、オペラやバレエといった、人によってはそれほど縁がないような芸術もあるかもしれない。しかし、こうした文化を一つ一つ学び、その魅力や素晴らしさを伝えていくことが、人と人とを深く結び、時代そのものを動かす潮流となっていくことを知っていただきたい”
 
 65年のスカラ座との初交渉以来、池田先生は交渉を陰に陽に支え、現地にも足を運んだ。
 
 さらに81年の来日公演の感動を、歌劇場の伝統や歴史とともに折あるごとに紹介している。
 
 スカラ座で活躍した歌手レオニダ・ベロン氏が来日した折、師弟に生きる氏の生涯を通してスピーチしたこともあった。
 
 「芸術の真髄へ、真髄へと迫っていく。それは人間と人生の真髄に迫っていくことである」
 「私どもも、この大切な一生を、見事に総仕上げし、これ以上はないという充実と満足で飾ってまいりたい」――と。
 
 また先生は氏との“出会い”を振り返り、こう語った。
 
 「人生において“出会い”は大事である。ある意味で、人生は“出会い”によってつづられているといってよい。いつしか忘れ去られていく出会いもあるかもしれないが、一瞬にして人生を変える出会いもある。
 
 ゆえに、私は一つ一つの出会いを最大に大事にしてきたつもりである。人との出会いを決しておろそかにしてはならない」
 
 公演の成否を超えて、縁した音楽家に最大限の敬意を払い、文化・芸術の奥にある人間の魂へと迫っていく――それが創立者の不変の姿勢であった。

ミラノ・スカラ座の初来日公演の鑑賞チケット

ミラノ・スカラ座の初来日公演の鑑賞チケット

 81年秋の公演は、民音の活動を支える推進委員にとっても、数々のドラマに彩られている。
 
 当時、オーディオ製品の製造会社に勤めていた推進委員。
 
 同僚の一人に来日公演があることを伝えると、何と4演目の全てを購入するという。「わざわざイタリアまで見に行くことを考えたら、こんなに安く鑑賞できるのはうれしい限り」と。
 
 「公演の本当の価値を、逆にこちらが教えてもらいました」と、やり取りを振り返る。
 
 また、友人と連れ立って東京公演を鑑賞した長野の推進委員は、「次は現地で見たい」と、翌82年にスカラ座へ。
 
 公演後、サインを求めて楽屋口に向かうと、そこは既に大勢のファンで大混雑。思わず「ミンオン!」と叫ぶと、プリマドンナが手招きしてくれた。
 
 周囲の観客が道をあけ、その中を進んでいくと、彼女は念を押すように「ミンオン?」。
 
 「ジャポン! ミンオン!」と答えると、彼女は笑顔で握手の手を差し出し、友人の分まで快くサインに応じてくれた。
 
 その推進委員は述懐する。
 
 「民音公演に足を運ぶたび、深い感動があります。そして、超一流の音楽団体を招聘できる民音もまた、世界最高の音楽文化団体なのだと思います」
 
 さまざまな音楽芸術に触れる喜びとともに、文化を伝える中で得る感動と感謝が、民音公演の一つ一つに息づいている。

民音創立者・池田先生がミラノ・スカラ座のバディーニ総裁(左から3人目)、エルナーニ副総裁・事務総長(右端)と会談(1981年6月)

民音創立者・池田先生がミラノ・スカラ座のバディーニ総裁(左から3人目)、エルナーニ副総裁・事務総長(右端)と会談(1981年6月)

 「あの日本公演で、どれほどの拍手喝采を浴びたか、今も忘れられません」
 
 スカラ座初来日から30年を迎えた2011年9月、エルナーニ氏が、東京・信濃町の民音文化センターを訪問した。
 
 「友人や知人、来賓が私のオフィスを訪れるたび、いつも池田会長との記念写真を見せて、歴史を語っています」
 
 来日公演の後、池田先生から届いた手紙や署名入りの書籍を今でも大切に保管していると述べ、氏は言葉を継いだ。
 
 「日本公演実現のきっかけをつくってくれたのは、池田会長です。会長との出会いが『伝説の公演』への道を開いたのです」
 
 単なる音楽鑑賞の次元を超えた、芸術と人間の真髄に迫る公演を――。創立者の信念を礎に実現したスカラ座の初来日。
 
 この不滅の金字塔を原点に、世界を結ぶ文化の挑戦が続く。
 
 (ミラノ・スカラ座編=完)
  
  

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