〈ぶら~り文学の旅 海外編〉9 ラープチャルーンサップ「観光」2022年9月14日

  • 巧みな描写と人間愛に満ちた名作
  • 作家 村上政彦

 本を手にして想像の旅に出よう。用意するのは一枚の世界地図。そして今日は、ラッタウット・ラープチャルーンサップの『観光』です。
  
 作者は、アメリカで生まれましたが、育ったのはタイです。長じて、またアメリカへ渡りました。ノーベル文学賞作家のカズオ・イシグロは、日本で生まれ、イギリスで育ちました。カズオ・イシグロが、初期の頃には日本を舞台にした小説を書いた一方、ラープチャルーンサップの最初の創作集はタイを舞台にしています。
  
 『観光』は、母と息子の物語です。母は、マラリアに罹って体調を崩していても、職場に出勤した。意識を失って救急車で病院に搬送されたが、翌日には職場のデスクにいた、という気丈さ。
 その母が、ある日、片頭痛で会社を休んだ。薬を飲んだから大丈夫と言われても、語り手の「ぼく」は身を案じている。2週間後、母は浴室で倒れた。医師の診断は、片頭痛に関連する網膜剝離。もっと早く検査をしていたら、失明は免れただろうという。
  
 二人は旅に出ます。
 母は、目が見えているうちに、「天国」と聞いた島へ行きたいと言った。アンダマン諸島の最南にある島コー・ルクマク。
  
 「列車は列島をのろのろ進み、線路の両側には海が広がる。東を見ると、湖南から流出した土砂が土地を軟らかくし、泥が海に注いでタイ湾を茶色に染めている。西にそびえる山脈は、浜辺を乾いた不毛の土地に変える季節風を遮り、アンダマン海の澄んだ青さは損なわれていない」
  
 列車と船を乗り継いで20時間の行路です。途中で一泊し、トランの港に着いたところで、ルクマク島までの切符を買った。母は、ひどい船酔いになって、トラウェンの西側の、小さな島のバンガローで泊まることにした。「ぼく」は「大地を覆う清涼な皮膚のような滑らかな海」に潜って、このぼんやりした視界の中の世界が、母の見ている世界かもしれないと思う。
 島で二人は「ぼく」のこれからについて話し合います。「ぼく」は、北の職業大学へ進むつもりでいたが、失明した母を一人残しては行けない、と迷っていた。それを見抜いた母は「目が見えなくなるだけで充分なのよ。それでおまえまで苦しんでほしくない」と進学を勧める。
  
 本作の魅力は、作者の圧倒的な表現力です。
  
 例えば――
 「ぼくらはしばらく黙ったまま、椰子の木を騒がす風の音と浜辺にうち寄せる波の音に耳を澄まし、砂の上を横に走っていく蟹の素早い影を見ている」
  
 このような見とれてしまう描写が、作品全体にちりばめられています。
 “神は細部に宿る”との有名な言葉があります。小説は細部からできていることを、改めて証明した秀作です。
  
 【参考文献】
 『観光』 古屋美登里訳 早川書房