自分をつくるのは自分自身!――青春時代の悔しさをバネに「19世紀最大の彫刻家」となったロダンの人生 連載〈勇気の源泉――創立者が語った指針〉2022年7月28日

全員が獅子の人生を!――卒業式でスピーチする池田先生(1990年3月16日、東京・創価学園で)

全員が獅子の人生を!――卒業式でスピーチする池田先生(1990年3月16日、東京・創価学園で)

●東京・関西 創価中学・高校の卒業式(1990年3月)

 〈1990年(平成2年)3月16日、創価中学・高校の第20回卒業式と関西創価中学・高校の第15回卒業式が、中継で結んで行われた。東京校の会場に出席した創立者・池田先生は、式典に先駆けて除幕された獅子のブロンズ像に言及し、東西両校に“獅子の像”を贈った真情を語った〉
  
 獅子の証は何か。仏法では「師子王は百獣を恐れない。師子の子もまた同じである」と説く。何ものをも恐れず、何ものにも屈しないのが獅子である。
 皆さんのこれからの前途にも、“百獣”のようにさまざまな難問が襲いかかってくるかもしれない。とくに青春時代は、「疾風怒濤」ともいうべき、変化の激しい、心が揺れ動く季節である。しかし、私が創立したこの学園に集った人は、一人も残らず獅子の子である。
 ゆえに断じて、「さあ、何でもこい」「何があっても大丈夫だ」という、たくましい自分自身をつくりあげていただきたい。どんなに才能があり、地位や立派そうな肩書があっても、臆病であれば真の力は出ない。臆病な人間が何人集まっても“獅子”の一人にはかなわない。
 私は全員が「獅子の青春」「獅子の人生」を堂々と進みゆくことを、いつも祈り見守っていきたい。

東京・創価高校の「勇者の獅子」像。1990年3月に除幕された

東京・創価高校の「勇者の獅子」像。1990年3月に除幕された

1989年10月に贈られた関西校の「勇者の獅子」像。東京校と関西校の像は、それぞれ踏み出した前脚が左右反対になっており、2体で一対になる

1989年10月に贈られた関西校の「勇者の獅子」像。東京校と関西校の像は、それぞれ踏み出した前脚が左右反対になっており、2体で一対になる

 〈続いて先生は、獅子の像にちなんで、「近代彫刻の父」とうたわれる、フランスのオーギュスト・ロダン(1840~1917年)の生涯を紹介した〉
  
 ロダンは、「第二のルネサンス」と呼ばれる時代を、雄々しく戦い、生きた「芸術の獅子」であった。では、このロダンは、はじめから自信満々の天才だったか。決してそうではなかった。むしろ多感な青年期、人一倍、失意と挫折の連続だったのである。
 彼の10代にこんなエピソードがある。(以下、ディヴィド・ウァイス『ロダンの生涯』榊原晃三訳、二見書房から引用・参照)
 パリの庶民の街に生まれ、貧しい庶民の家庭に育ったロダンは、彫刻家を志し、当時、芸術家の登竜門であった官立美術学校に挑戦する。17歳前後――ちょうど諸君と同じ年代になろうか。ところが、彼の希望に反して失敗。それも得意の彫刻の試験で不合格であった。次の年も、またその次の年も、合格の報はロダンには届かなかった。3度目の落第で、彼は受験資格を失い、官立美術学校の門は永久に閉ざされてしまう。
 「見込みがない」「まったく才能が見あたらない」という烙印が容赦なく押されたのである。
 世間は矛盾だらけである。正しき“眼”を持っていないともいえる。問題は、その矛盾を突きぬけ、大きく乗り越えて、どう揺るぎない自分自身をつくりあげるかである。
 当時は、この美術学校の学位がなければ、芸術家としては認められないような時勢であったという。彼はまだ20歳前。激しい落雷のように、青春を襲った挫折であった。
 ある伝記によれば、この時、落胆し、憔悴しきったロダンは、母校のボアボードラン先生のもとを訪ねた。ところが、その先生は彼を慰めるどころか、断固とした口調で言いきった。
 「(=落第は)君にとってはこの上なくよいことだった」「君は、ミケランジェロが、《官立美術学校》を必要としたと思っているのかね?」
 “この失敗は嘆くどころか、未来の大成のためにはかえって幸運であった。古ぼけた権威に認められなくともよい。君は君らしく、新しき勇者の道を切りひらけ”というのである。彼は奮起した。
 もしロダンが、この師の励ましを受けず、彫刻をあきらめていれば、あの数々の世界的名作は生まれなかった。彼は、落第生と決めつけられた悔しさをバネとして、その後の全生涯をかけて「19世紀最大の彫刻家」たる自分をつくりあげていったのである。

オーギュスト・ロダン(写真:Mary Evans Picture Library/アフロ)

オーギュスト・ロダン(写真:Mary Evans Picture Library/アフロ)

「努力」即「幸福」

 〈池田先生は、挫折を成長の糧に変えたロダンの不屈の心を通して、学園生にエールを送る〉
  
 「自分なんかもうだめだ」と思うような瀬戸際の時が、諸君にもあるにちがいない。じつは、その時こそが、自身の新しい可能性を開くチャンスなのである。人生の勝利と敗北、幸福と不幸、その分かれ目が、ここにある。
 「自分」という人間を決めるのは、だれか――。自分である。「自分」という人間をつくるのは、だれか。これも結局は自分以外にない。他人の目や言動に一喜一憂する弱さは、それ自体、敗北に通じる。
 ロダンは、その後20年にもわたり、彫刻家の助手、建築彫刻、石膏取りなど下積みの仕事をかさねながら、徹底して勉強し、実力をつけていった。ほめてくれる人は、だれもいない。苦労して作った作品も、少しも売れない。貧しい身なりのため、図書館から本の貸し出しも制限されてしまう。
 しかし、わが道を定め、行動に徹しゆく人の心は、どんな境遇に置かれても、きょうの青空のように晴れやかである。
 下積みもなく、歯をくいしばるような辛苦もなく、かんたんに得られた名声や成功は、ホタル火のようにはかない。人間としての黄金の光を放つことはできない。労苦こそが自身の不滅の「人格」を磨くのである。
 ロダンはのちに、こう振り返っている。「仕事さえしていれば決して悲観しなかった。いつでも嬉しかった。私の熱心さは無限でした。休む間もなく勉強していました。勉強がいっさいを抱擁していたのです」(高田博厚・菊池一雄編『ロダンの言葉抄』高村光太郎訳、岩波書店)と。
 努力即幸福である。努力即勝利である。とともに、後年、ロダンは、弟子たちに“青年はあせってはならない”と繰り返し教えていたという。「一滴一滴、岩に喰ひこむ水の辛抱強さ」(『高村光太郎全集』第七巻〈ロダンの生涯〉、筑摩書房)を持たねばならない、と。これは芸術のみならず、万般にわたって、大事を成しゆくためのポイントであろう。
 岩にきざむ忍耐で、鍛えの青春を送った人は、年とともに光ってくる。「人格」が輝き「知性」が輝く。「精神」の果実の豊かな味わいがでてくる。その人こそ、真の栄光の人である。

ロダンの代表作「考える人」(パリのロダン美術館。AFP=時事)

ロダンの代表作「考える人」(パリのロダン美術館。AFP=時事)

信じる道を

 さて、ロダンが58歳の時に発表した文豪バルザックの像は、世間から悪評の集中砲火をあびる。しかし、だれに何といわれようとも、彼は10年近くの歳月、全魂をかたむけた自分の仕事に、満々たる「自信」と「誇り」をもっていた。
 ロダンはこの時、“全世界が反対しようとも、あの作品に私は責任をもつ”(同前参照)と断言したという。その裏付けには、だれにも負けない血のにじみでるような「努力」の積みかさねがあった。自分の「努力」は、自分自身がいちばんよく知っている。
 このロダンの言葉は、まことに味わい深い。どうか諸君も、この一生で何でもよい、いかなる分野であってもよい、“全世界が反対しようとも”と言いきれるものを、自分らしく成し遂げていただきたい。
 時には、傲慢な権威のカベに押し返されることがあったとしても、くじけてはならない。むしろ、それ以上の勢いで、みずから信ずる道を、誠実に、粘り強く求めぬいていく。私は、そうした強き「獅子の心」で、この青春を勝ち取っていただきたいと切望する。

楽観主義で生き抜け

 〈結びに池田先生は、名作『赤毛のアン』に話を移し、主人公アンの朗らかな生き方のように、楽観主義の人生を、と呼び掛けた〉
  
 アンはどんなに不幸な運命に出あおうと、決して嘆かない、悲しまない、負けはしなかった。
 “曲がり角をまがれば、きっとすばらしい景色がまた広がるにちがいない”と考え、明るく、伸び伸びと生きていった。そうした生き方ができること自体が幸福である。
 何かあれば、すぐ嘆き、悲しみ、落ちこんでしまう。それは、決して獅子の子の生き方ではないし、不幸な人生である。
 私は、アンの生き方をとおして、「君たちよ楽観主義で生きぬけ。長い人生を、悲観主義でいたずらに悲しんだり、苦しんだりしてはならない」と申し上げたい。
 これから、新しき世紀、新しき世界の舞台にむかいゆく諸君である。どうか、何よりも健康であっていただきたい。また、お父さんお母さんをはじめ諸君とつながった人々を、世界旅行にでも連れていってあげられるような力をもち、幸福な生涯を築いていっていただきたい。諸君のことは、毎日祈っているが、本日も、どうかご多幸であれ、と心から祈り、記念のスピーチとしたい。
  

 ※スピーチは、『池田大作全集』第57巻から抜粋し、一部表記を改めた。

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