【学生部必読!】「御義口伝」要文10選2022年7月25日

  • 御書根本に師弟共戦の大道を

絵・間瀬健治

絵・間瀬健治

 今回の学生部教学のページでは、年間拝読御書「御義口伝」の要文10選を、池田大作先生の指針とともに紹介する。「御義口伝」講義開始から60周年となる、8・31「学生部の日」に向け、師弟不二の信心で、行学錬磨の戦いに挑もう!(創価新報2022年7月20日付より)
 
 

【御文①】

 我らが頭は妙なり。喉は法なり。胸は蓮なり。胎は華なり。足は経なり。この五尺の身、妙法蓮華経の五字なり。(新997・全716)
 

【通解①】

 我々の頭は妙であり、喉は法であり、胸は蓮であり、胎は華であり、足は経である。この五尺の身が妙法蓮華経の五字の当体である。
 

【指針①】

 私ども自体が、妙法蓮華経の当体であります。また、「足は経」とありますが、敷衍すれば、それは行動を意味するといえましょう。
 
 私たちは、今いる地を、深い因縁で結ばれた本有常住の国土ととらえ、“必ずこの地域を広宣流布するのだ! 幸せの花園にするのだ!”と決めて、勇んで行動を起こしていこうではありませんか。
  
(小説『新・人間革命』第26巻「奮迅」の章)
 

【御文②】

 「大願」とは、法華弘通なり。「愍衆生故」とは、日本国の一切衆生なり。「生於悪世」の人とは、日蓮等の類いなり。「広」とは、南閻浮提なり。「此経」とは、題目なり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るなり。(新1027・全736)
 

【通解②】

 (「大願を成就して」の)「大願」とは法華弘通すなわち広宣流布のことである。「衆生を愍れむが故に」の「衆生」とは日本国の一切衆生のことである。「悪世に生まれて」くる人の「人」とは、日蓮とその門下である。「広く此の経を演ぶ」の「広く」とは南閻浮提、すなわち全世界に広宣流布することである。「此の経」とは南無妙法蓮華経の題目のことである。今、日蓮とその弟子として、南無妙法蓮華経と唱える者のことである。
 

【指針②】

 「広宣流布の大願」と「仏界の生命」とは一体です。だからこそ――この誓いに生き抜く時、人は最も尊く、最も強く、最も大きくなれる。この誓いを貫く時、仏の勇気、仏の智慧、仏の慈悲が限りなく湧き出でてくる。この誓いに徹し切る時、どんな悩みも変毒為薬し、宿命をも使命へと転じていける。
 
 (「聖教新聞」2013年11月9日付、広宣流布大誓堂落慶記念勤行会への池田先生のメッセージ)
 

【御文③】

 「師」とは師匠授くるところの妙法、「子」とは弟子受くるところの妙法、「吼」とは師弟共に唱うるところの音声なり。(新1043・全748)
 

【通解③】

 「師」とは師匠が授ける妙法、「子」とは弟子が受ける妙法であり、「吼」とは師弟が共に唱える音声をいう。
 

【指針③】

 苦境を打開し、宿命を転換するにあたって、大聖人が強調されたのは、師弟の「思いを合わせる」ことでした。師匠と心を合わせる祈りこそ、無敵だからです。具体的には“師匠ならどうされるだろう”“今こそ弟子として立ち上がる時だ”と、求道の心で唱題することです。(中略)師弟不二の信心で唱える題目こそ、真の師子吼です。その時、自分自身に本来具わる無量の智慧と力が自在に発揮できるのです。
 
 (「大白蓮華」2021年2月号「世界を照らす太陽の仏法」)
 

【御文④】

 難来るをもって安楽と意得べきなり。(新1045・全750)
 

【通解④】

 難が襲ってくることをもって、安楽であると心得るべきである。
 

【指針④】

 私たちは、いかなる障魔が競い起ころうとも、強き信心で、御本尊に祈ることができます。そして、共に励ましあえる同志がいます。したがって、学会とともに歩む人生、それ自体が、最高の「難即安楽」の人生を歩んでいることになるのです。
 
 (中略)「さあ何でもこい!」「難があるからこそ、人生を大きく楽しめるんだ。多くの人を救えるんだ」という、究極の積極的人生にこそ、真実の安楽があると教えられているのです。
 
 (『創価学会永遠の五指針』)
 

【御文⑤】

 この本法を受持するは、信の一字なり。元品の無明を対治する利剣は、信の一字なり。「疑いなきを信と曰う」の釈、これを思うべし云々。(新1047・全751)
 

【通解⑤】

 この本法(南無妙法蓮華経)を受持するのは信の一字による。元品の無明(根本の迷い)を対治する利剣は信の一字である。『法華文句』の「疑い無きを信と曰う」という釈をよく考えるべきである。
 

【指針⑤】

 元品の無明とは、自分の生命に仏の生命が具わることを信じられない根本的な迷いであり、“不信の生命”です。
 
 (中略)どんなに科学が進歩した時代になっても、この問題は解決できません。
 
 不信と憎悪が渦巻く現代社会にあって、自他共に尊極の生命を輝かせ、真実の喜びの人生を築く道を教えているのが仏法です。
 
 この元品の無明を断ち切る「利剣」こそ信心なのです。
 
 (『信仰の基本「信行学」』)
 

【御文⑥】

 悪を滅するを「功」と云い、善を生ずるを「徳」と云うなり。(新1062・全762)
 

【通解⑥】

 悪を滅するを「功」といい、善を生ずるを「徳」というのである。
 

【指針⑥】

 唱題に励み、広布を進め、さらに、人々を不幸に陥れる悪を責めてこそ、自分自身の生命の悪を滅することができる。それが功徳である。悪と戦ってこそ、功徳が生じるのである。(中略)正邪を決しゆけ! この明快なる文学者の叫びを、天高く「正義の旗」を掲げゆく、勇敢なる青年部の諸君に贈りたい。
 
 (新時代第25回本部幹部会での池田先生のスピーチ)
 

【御文⑦】

 自他不二の礼拝なり。その故は、不軽菩薩の四衆を礼拝すれば、上慢の四衆の具うるところの仏性もまた不軽菩薩を礼拝するなり。鏡に向かって礼拝をなす時、浮かべる影また我を礼拝するなり云々。(新1071・全769)
 

【通解⑦】

 (不軽菩薩の礼拝は)自他不二の礼拝である。なぜかといえば、不軽菩薩が四衆を礼拝すれば、増上慢の四衆の仏性もまた同時に、不軽菩薩を礼拝するのである。これは、ちょうど、鏡に向かって礼拝する時、そこに映っている自分の影もまた自分を礼拝するのと同じ原理である。
 

【指針⑦】

 折伏とは、相手を論破するとか、打ち負かすことではありません。誰もが仏性を具えた尊極の存在であり、その「自他共の」尊厳性に目覚めよという励ましであり、呼びかけです。不軽菩薩の振る舞いそのものです。それは、自身の「諦め」「無力感」などの無明の氷壁を破る戦いでもあります。
 
 (『調和と希望の仏法 「人間の宗教」の時代へ』)
 

【御文⑧】

 桜梅桃李の己々の当体を改めずして無作の三身と開見すれば、これ即ち「量」の義なり。(新1090・全784)
 

【通解⑧】

 桜は桜、梅は梅、桃は桃、李は李と、おのおのの当体を改めず、そのままの姿で、無作三身と開きあらわしていくのである。これが一切を摂めることであり、(無量義の)「量」の義である。
 

【指針⑧】

 人生は桜梅桃李です。自分が他人になることはできない。自分は自分らしく、大輪を咲かせていけばよいのです。そうでなければ何のための人生、何のための生命か。
 
 他人と比較する必要などまったくない。むしろ、自分の“過去と現在”を比べて成長しているかどうかです。「昨日より今日」「今日より明日」という生き方こそ、仏法の生き方なのです。
 
 (普及版『法華経 方便品・寿量品講義』上)
 

【御文⑨】

 始めて我が心本来の仏なりと知るを、即ち「大歓喜」と名づく。いわゆる、南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり。(新1097・全788)
 

【通解⑨】

 初めて自分の心が本来の仏であると知ることを、すなわち「大歓喜」と名づける。いわゆる南無妙法蓮華経は、歓喜の中の大歓喜である。
 

【指針⑨】

 欲しいものを手に入れたり、名誉や名声を得たりする喜びは、外からのものであり、その喜びは一瞬にすぎず、決して永続的なものではありません。それに対して、唱題に励むならば、自身の生命の大宮殿が開かれ、心の奥底から、泉のごとく、最高の喜びの生命、すなわち大歓喜が湧き出でてきます。しかも、いかなる試練にさらされ、逆境に立たされようが、その歓喜の泉が涸れることはありません。
 
 (小説『新・人間革命』第30巻下「暁鐘」の章)
 

【御文⑩】

 一念に億劫の辛労を尽くせば、本来無作の三身念々に起こるなり。いわゆる南無妙法蓮華経は精進行なり。(新1099・全790)
 

【通解⑩】

 一念に億劫の辛労を尽くして、自行化他にわたる実践に励んでいくなら、本来わが身に具わっている仏の生命が瞬間瞬間に現れてくる。いわゆる南無妙法蓮華経は精進行である。
 

【指針⑩】

 この御文は、苦難を恐れぬ、真剣勝負の戦いがあってこそ、自身の一生成仏、人間革命、境涯革命があることを教えられているんです。
 
 私の日々は、ある意味で、大地にわが身を叩きつけるような、苦闘の連続だった。涙も涸れるような悲痛な時を、何度も経験してきました。そのなかで、この御文を心の支えに、わが心を燃え上がらせ、唱題に唱題を重ね、すべて乗り越えてきたんです。私は勝ちました。君も、広宣流布のため、人びとの幸せのため、自身の未来のために、勇んで辛労を尽くしていくんだよ。
 
 (小説『新・人間革命』第26巻「厚田」の章)