みちのくの未来を照らす――永遠の指針「人材の牙城・東北たれ」発表から55周年2022年7月15日

  • 一番苦労して純真に戦っている皆さんが私は大好きなのです

 1967年(昭和42年)、池田先生は各方面への新しい前進のモットーを次々と発表。東北には、「人材の牙城・東北たれ」と贈った。きょう15日は発表から55周年の佳節である。「広宣流布の総仕上げは、わが愛する東北の使命だ」――師匠から、大いなる使命のバトンを託された天地・東北。ここでは、今日の大発展の淵源となった、同年7月14日から16日の激励行を紹介する。

「新しい人材の東北ができてきた。私はうれしい!」――2005年5月、新世紀第4回東北総会で池田先生は、友の奮闘をたたえた(八王子市の東京牧口記念会館で)。席上、先生は、人材をこよなく愛した戸田先生の姿を振り返り、「恩師の厳愛の薫陶ありて、学会の人材の城が築かれてきたことを忘れてはいけない」と

「新しい人材の東北ができてきた。私はうれしい!」――2005年5月、新世紀第4回東北総会で池田先生は、友の奮闘をたたえた(八王子市の東京牧口記念会館で)。席上、先生は、人材をこよなく愛した戸田先生の姿を振り返り、「恩師の厳愛の薫陶ありて、学会の人材の城が築かれてきたことを忘れてはいけない」と

2年ぶりの先生

 1967年(昭和42年)7月14日、池田先生は秋田へ向かった。この日、梅雨前線の北上に伴い、秋田は朝から激しい雨に見舞われた。だが、2年ぶりの師の訪問に、同志の喜びは爆発した。
 秋田市内で開催された秋田第1・第2本部の班長、班担当員との記念撮影会。会場には、山形県境の地域などから、1日かけて参加した友もいた。14回の撮影で、先生は壮年・婦人・男子・女子部それぞれに励ましを送った。
 千秋光彩県で副県長を務める藤原哲さんも、撮影会に参加した一人。「弘教に挑戦し切って集いました。宝の原点です」と振り返る。
 撮影会から9年前の58年(同33年)11月、藤原さんは池田先生と初めて出会う。男子部部隊長の面接の場だった。
 この時、先生から「皆を鼓舞するために舞を舞うことができますか」と。それまで舞を舞った経験などない。思い切って挑戦したが、まるで形にならない。
 「舞とはこうやるんだよ」――黒田節を舞う先生の姿を初めて見た。圧倒された。師の舞に、藤原さんは“リーダーは、真っ先に自分が立ち上がり、模範を示す。それが学会精神なんだ”と心に刻んだ。以来、生涯共戦を誓い、秋田広布に駆けてきた。
 5年前、脳出血に。早期治療が功を奏し、苦難を乗り越えた。藤原さんは、きょうも報恩の道を歩み続ける。
 ◆◇◆ 
 記念撮影の終了後、先生は秋田会館(当時)での東北第2総合本部の幹部会へ。「リーダーは戦えば戦うほど、功徳も大きい」と強調。温かく後輩を激励し、学会を守り抜く一人一人に、と訴えた。

秋田での記念撮影会に臨む池田先生(1967年7月14日、秋田市で)。朝からの激しい雨にもかかわらず、約3500人の友が集い、会場は歓喜に包まれた

秋田での記念撮影会に臨む池田先生(1967年7月14日、秋田市で)。朝からの激しい雨にもかかわらず、約3500人の友が集い、会場は歓喜に包まれた

恩師の思い胸に

 その日、杜の都・仙台は記録的な暑さだった。
 15日、秋田から舞台を宮城に移した池田先生は、県スポーツセンター(当時)での東北本部幹部大会に臨んだ。
 戸田先生が第2代会長に就任した1951年(昭和26年)5月、全国初の地方支部として仙台支部が誕生。2カ月後の7月15日、池田先生は初めて仙台を訪れた。幹部大会は、先生の仙台初訪問の日に開催された。
 池田先生が第3代会長に就任した60年(同35年)5月、東北創価学会は6支部の体制で出発する。それからの7年間で、223支部の陣容にまで発展した。
 会場は1万数千人の熱気に満ちていた。先生は、東北の友の奮闘をたたえ、恩師が青葉城を愛したこと、そこで語り合った思い出を述懐した。
 ――戸田先生が池田先生と青葉城址を訪れたのは、54年(同29年)4月25日のこと。その折、戸田先生は語った。「学会は永遠に人材の城でいこう。学会は人材をもって城となすのだ」
 この恩師の言葉を通して、先生は幹部大会で訴えた。
 「今、私は、東北の同志の皆さんに『人材の牙城・東北たれ』を旗印として前進されたいと思うのであります!」
 暑さを吹き飛ばすかのような、激しい拍手が場内に響き渡った。さらに、先生は東北の友に呼び掛けた。「ダイヤモンドの如く光り輝く人生を、共々に送っていこうではありませんか」
 それまでにも、先生は恩師の指導を踏まえ、東北の使命が「人材の城」を築くことにあると語ってきた。
 61年(同36年)11月20日に行われた東北本部の落成入仏式。先生は「人材の城をもって広宣流布を推進していくのである」と語った。翌日、青葉城址を訪れ、「人材の 城を築けと 決意ます 恩師の去りし 青葉に立つれば」と詠んでいる。
 幹部大会で39分間にわたるスピーチを終えた後、先生は「威風堂々の歌」の指揮を執った。会場を揺るがすような力強い歌声が響いた。
 翌16日の午前、青葉城址に足を運んだ。土井晩翠の「荒城の月」の歌碑を視察し、恩師を思いながら、仙台の町並みを望んだ。 

青葉城址から仙台市街を望む池田先生(1967年7月16日)。前日(15日)に出席した東北本部幹部大会で、恩師と青葉城址を訪れたことを振り返り、「広宣流布へのたゆみなき前進と勝利を」と呼び掛けた

青葉城址から仙台市街を望む池田先生(1967年7月16日)。前日(15日)に出席した東北本部幹部大会で、恩師と青葉城址を訪れたことを振り返り、「広宣流布へのたゆみなき前進と勝利を」と呼び掛けた

「わが家の宝物」

 「一番苦労して純真に戦っている皆さん方が、私は大好きなのです」
 東北指導の掉尾を飾る、福島市民センター(当時)での撮影会で池田先生は語った。
 16日、先生は福島市を初訪問。約6000人の同志と記念のカメラに納まった。
 この日は、日蓮大聖人が、時の権力者に「立正安国論」を提出した意義深い日。“きょうを原点に、さらに成長しよう”と皆、誓い合った。
 福島南本部で女性部副本部長を務める大内知子さんは、撮影会での一葉を今も大切に持っている。「写真は、わが家の宝物です」
 1958年(昭和33年)5月、「宿命転換」という言葉に引かれ入会。翌月、夫の應雄さん(副支部長)を入会に導いた。そこから、二人三脚で広布に走った。これまで夫婦で実らせた弘教は100世帯を超える。地域活動にも尽力し、信頼を広げてきた。
 2017年(平成29年)、夫婦を障魔の嵐が襲う。大動脈弁狭窄症で、知子さんが意識不明になった。
 福島から宮城の病院に転院し、手術が行われた。應雄さんと同志の祈りに包まれ、手術は無事に成功した。その後、知子さんに先生から伝言が届いた。
 「素晴らしき人生であれ。素晴らしき人生を歩め。素晴らしき人生を生き抜け」
 試練を乗り越えた夫婦は、新たな決意で「素晴らしき人生」を進み始めた。現在、應雄さんは90歳、知子さんは92歳。この上半期、夫婦は50人以上の友人に対話を広げた。
 「純真」に広布に尽くす二人の心には、みずみずしい求道の息吹がみなぎっている。
 ◆◇◆ 
 1967年(昭和42年)7月14日から開始された3日間の東北での激励行で、先生は2万人を超える友と共戦の絆を結んだ。
 「人材の牙城・東北たれ」――永遠の指針は、みちのくの未来を照らし続ける。

福島での記念撮影会で友を励ます(16日、福島市で)。撮影の合間には、池田先生の提案で参加者が「飯坂小唄」など、地元の民謡を合唱する場面もみられた

福島での記念撮影会で友を励ます(16日、福島市で)。撮影の合間には、池田先生の提案で参加者が「飯坂小唄」など、地元の民謡を合唱する場面もみられた