〈Seikyo Gift〉 動画企画「SEIKYO STUDIO」 アグネス・チャンさん2022年5月1日

 今年で日本デビュー50周年を迎える歌手のアグネス・チャンさんが、動画企画「SEIKYO STUDIO」(動画配信サイト「YouTube」の聖教新聞公式チャンネルで公開)に登場です。
 
 2月18日に行った神奈川文化会館での収録の際に、池田先生の長編詩から作られた「そこには 幸せが もう生まれているから」「ピースフル ワールド」の2曲に込めた思いを聞きました。

「そこには 幸せが もう生まれているから」

 こちらから動画を視聴できます。

「ピースフル ワールド」

 こちらから動画を視聴できます。

◇特別インタビュー

この歌を一人でも多くの人に

 ――池田先生の長編詩「平和を! 平和を! そこに幸福が生まれる」から作られた2曲を披露していただき、本当にありがとうございました。どのような思いで歌われたのでしょうか。
 
 長引くコロナ禍にあって、仕事を失ったり、病気になったり、大切な人を亡くしたりと、つらい思いをしている方は少なくありません。そうした方々に歌で寄り添い、池田先生の励ましのメッセージが届くようにと、祈る思いで歌わせていただきました。
 
 また、この会場(神奈川文化会館)で歌うに当たり、神奈川が戸田先生の「原水爆禁止宣言」発表の地とお聞きしました。この地で“平和の歌”を歌う意義をかみ締めました。
 
 何より、きょう収録した映像は、奥さまのお誕生日である2月27日に紹介されるとうかがいました。また本年、池田先生・奥さまはご結婚70周年の節目を迎えられます〈5月3日〉。
 
 私たちを、日だまりのような温かさで包んでくださる、お二人のご健康・ご長寿を祈りながら、襟を正して歌いました。
 
 そう思うと、カメラの向こう側に先生・奥さまがいらっしゃるような気がして、とても緊張しました(笑い)。

“平和の歌”を情感込めて歌うアグネスさん(2月18日、神奈川文化会館で)

“平和の歌”を情感込めて歌うアグネスさん(2月18日、神奈川文化会館で)

 ――アグネスさんは日本でデビューした翌1973年に池田先生と初の出会いを結ばれています。当時の思い出を聞かせてください。また、歌われた2曲が誕生したいきさつも教えていただければと思います。
 
 初めての出会いのきっかけは、ある雑誌の企画でした。当時、私は18歳。日本語もほとんどできませんでした。そんな私に、先生は本当に優しく接してくださいました。実の父親を思い浮かべたほどです。
 
 先生をはじめ多くの方との出会いや、ボランティアやユニセフ(国連児童基金)などの活動を重ねていくにつれて、「歌で平和を」との思いが強くなっていきました。
 
 そんな中、先生に長編詩を頂いたのは、デビュー35周年を迎えるに当たって、「平和」をテーマにしたプロジェクトを進めていた時でした。
 
 2006年に行われた「平和の文化と子ども展」(主催=創価学会女性平和委員会)にお招きいただいた際、写真パネルの中の一枚に釘付けになりました。先生が海外の訪問先で現地の子どもたちと一緒に納まった写真です。先生の笑顔に包まれて、子どもたちの表情は明るく朗らかで、笑顔が弾けていました。
 
 気が付いたら私は、考えるより先に展示を案内してくださっていた方に声を掛けていました。
 
 「池田先生から、歌詞を頂くことはできるのでしょうか」と。
 
 唐突なお願いであったにもかかわらず、このことを聞かれた先生は後日、長編詩を書いてくださったのです。
 
 18歳の時の出会いがあってからを思い起こすと、本当に不思議なご縁です。この長編詩から“平和の歌”ができたのです。

アグネス・チャンさんと池田先生ご夫妻(2007年12月6日、東京牧口記念会館で)。アグネスさんはこの日、本部幹部会に出席し、先生の長編詩をもとに作った歌を歌い上げた

アグネス・チャンさんと池田先生ご夫妻(2007年12月6日、東京牧口記念会館で)。アグネスさんはこの日、本部幹部会に出席し、先生の長編詩をもとに作った歌を歌い上げた

 ――07年12月の本部幹部会の席上、アグネスさんが先生ご夫妻を前に、この2曲を歌ったことが、とても印象に残っています。
 
 あの時は無我夢中でした。歌い出すや、その場にいた方々が、次々と涙を流して聴いてくださったことは決して忘れません。ベストな状態で歌い上げようと、私自身、込み上げる涙を必死でこらえたことを覚えています。
 
 この歌に込められた力の強さ、歌詞が持っているエネルギーの大きさを肌で感じた瞬間でした。同時に、この歌は私一人だけのものではない。歌に込められた先生のメッセージを、一人でも多くの人に届けることが、私の使命なのだと感じました。
 
 思えば、私自身がこの歌に励まされた一人です。歌の誕生と同じ時期に、私は「唾液腺腫瘍」と「乳がん」を患いました。
 
 “あと何回、この歌を歌えるんだろう”と悲嘆したことも、“二度とステージには立てないかもしれない”と覚悟したこともありました。
 
 「そこには 幸せが もう生まれているから」の歌詞にはこうあります。「冬がきたりなば 春遠からじ」「人生は しあわせに なるためにあるから」と。
 
 また、「ピースフル ワールド」の歌詞には、「悲しみも 苦しみも知る人が 一番幸せになる」とつづられています。
 
 闘病を続けながら、この“平和の歌”と共に全国をツアーで回り、コンサートに来てくださった方々と、歌詞に込められた思いを分かち合いました。私が歌い続けられたのは、自分の体がどうなるかよりも、果たさなければならない使命があると信じたからです。
 
 そう思えたからこそ、私は病気を乗り越えることができました。今では自身の大病も、人の悩みや苦難に寄り添える自分になるための試練だったのだと考えています。
 
 そうした中、08年の第50回「日本レコード大賞」で「特別賞」を頂くことができました。世の中に、この歌を届けることができた一つの証しとなったと思い、本当にうれしかったです。

 ――アグネスさんは今もステージに立ち、この“平和の歌”を歌い続けています。改めて、歌に託す思いや、伝えたいことを聞かせてください。
 
 私がこの歌を通して伝えたいことは“命の輝き”です。今この瞬間に、同じ星で生きていることが、どれほど素晴らしいことなのかを忘れないでほしいと思います。
 
 命の尊さは平等です。人は皆、幸せになるために生まれてきました。言葉で言うだけなら簡単ですが、私は世界中の人々が、この思いを心に抱くことができれば、おのずと平和が訪れると信じています。
 
 私自身、長年、平和活動に携わる中で、世界が平和に少しずつ近づいていると思える瞬間が何度もありました。その一方で、コロナ禍があらゆる面で与える影響や不安定な世界の状況を伝える報道に触れ、涙が出てくることもあります。
 
 争いが起これば、一番苦しむのは、そこに住んでいる子どもたちです。私はその状況に対して何もしてあげられない。その現実に、怒りさえ込み上げてきます。
 
 でも歌は、私が行くことができない所にも行ける。海も国境も、人の憎しみをも超えて、歌は人の心の中に入って、心をつなぐことができると信じています。だからこそ、私はこの“平和の歌”を命を懸けて残していきたい。この歌だけは未来に歌い継がれてほしいと思います。
 
 そう願うからこそ、私一人でなく、多くの人に歌ってほしい。プロじゃなくていいんです。自分の家の台所やお風呂場でも、通勤や通学途中の心の中でも――。
 
 「ピースフル ワールド」の歌詞にこうあります。「出来ることから 一歩踏み出せば 歩んだ足跡に いつの日か 仲間が」と。
 
 平和の夢を抱き、自分にできることを続けていけば、必ず“山のように”“波のように”後に続く仲間が現れる。そう信じてこれからも、この歌に込められたメッセージを、声の限り、命の限り、届け続けていきます。