インタビュー 多様性の観点で捉える政教分離原則2021年10月1日

  • 京都大学名誉教授 大石眞さん

 日本におけるいびつな「政教分離」論をどう捉えるべきなのか(「第三文明」10月号から)。
 

1951年、宮崎県生まれ。東北大学法学部卒業。九州大学教授などを経て1993年から京都大学大学院法学研究科教授。法学博士。専門は憲法学、議会法、宗教法、日本憲法史。『憲法秩序への展望』(有斐閣)、『権利保障の諸相』(三省堂)など著書多数。法務省「法制審議会」委員などの公職も務める

 

1951年、宮崎県生まれ。東北大学法学部卒業。九州大学教授などを経て1993年から京都大学大学院法学研究科教授。法学博士。専門は憲法学、議会法、宗教法、日本憲法史。『憲法秩序への展望』(有斐閣)、『権利保障の諸相』(三省堂)など著書多数。法務省「法制審議会」委員などの公職も務める  

国家と教会の関係の多様なあり方

 政治と宗教を考える際、日本では「政教分離」だけが重視され、議論されますが、諸外国では決して政教分離だけが重視されているわけではありません。国家と教会の関係は多様な形があるうえ、政教分離といっても国によってその内実が異なっているのです。日本における政教分離は、その多様な形をいくつかの分類に分けたなかの一つの形を採用したものにすぎません。
 
 日本も含めた欧米的な世界では、イスラーム世界のような国家と宗教とを原理的にも分離しない祭政一致の政教融合制度は、一般的には否定されています。そのことを前提としたうえで、立憲的な民主制度のもと、国家と教会の関係がいくつかの類型に分かれているのです。
 

 一つは英国のような国教制度です。英国の公式宗教は英国国教会によるキリスト教です。英国国教会の首長はエリザベス女王であるわけですから、そこでは完全に宗教が公事となります。
 
 他方で他のヨーロッパ諸国では伝統的なキリスト教会やユダヤ教会など、かつて公の宗教であったものを現在も維持しながら、単一ではなく複数の教会を公のものとして認める公認宗教の体制をとる国もあります。現在のヨーロッパではこれが主流といえます。
 
 そしてもう一つの分類が国家と教会を分ける政教分離制度で、その代表国は米国とフランスです。日本の政教分離の制度は米国、フランスと同じ分類にはなりますが、そこにも違いがあります。
 
 まず大事なことは、日本の政教分離原則が国家と教会の関係の多様なあり方のうちの一つの類型にすぎないことを認識するとともに、諸外国に見られる多様なあり方についても理解することです。
 

日本に欠けている「信教の自由」の議論

 いろいろな政教分離観があるなか、日本と欧米で特に違うのは、欧米の政教分離の議論は、「信教の自由」との調整が常にセットになっている点です。たとえば欧米の刑務所や公立学校の宿舎、軍隊などには、施設付きの司祭や牧師がいます。ここで大事なことは、なぜそうした宗教者がいるのかという問いかけです。
 
 欧米では、政教分離の原則に沿って公の施設から宗教を切り離した場合、個人の信教の自由はどのようにして確保するのかという議論が同時に起こります。ドイツ語では“ゼーレゾルゲ”(魂への配慮)とも言われますが、個人の魂をいかに癒やすのかという配慮から、司祭や牧師が常駐しているのです。特に終末期の医療や介護等のターミナルケアの場ではなおさらです。日本でも刑務所内での教誨活動がありますが、それはあくまでも有志・篤志家が行っているもので、国が信教の自由に配慮をして対応しているというわけではありません。
 

 また、日本では憲法89条に「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」とありますが、フランスでは、国や自治体が所有権を持つ大聖堂や教会堂などの宗教施設を、カトリックやプロテスタントなどに無償で貸し出しています。
 
 信教の自由と政教分離をそれぞれに尊重するための調整役となる結節点として、欧米ではそういった制度が設けられているわけですが、このような信教の自由に関する議論が日本は欠けています。
 
 今回の東京2020オリンピックでは、多様性と調和がテーマとなりました。そのことを通じて多様性が大切であると感じたとすれば、やはりそれぞれの内心の自由を大事にする意味からも、その中核となる信教の自由について、きちんと理解することが肝要です。そのことが他者を尊重し、多様性を受け入れることにつながります。
 

取るに足らない“政教一致”批判

 日本では、政教分離が政治と宗教の分離だと誤解している人がいますが、あくまでも政教分離の基本は、国家と教会の分離です。これはつまり、世俗的な政治権力(国家)と宗教権力(教会)が一体化してはいけないということであり、およそ政治と宗教が関わりを持ってはいけないという意味ではありません。この点で、政治と宗教が絡み合ってはいけないと考えられてしまっていることや、宗教的な勢力が政党を支持してはいけないといった、本来の原則とは違う方向に議論が向かってしまっていることは非常に残念です。
 
 公明党と創価学会の関係についても、“政教一致”であるとする批判が今もなお出てきます。しかしこれはおよそ憲法の議論というよりは、はじめから政治的な含みのある議論であり、憲法の議論としてまともに取り合う憲法学者はほとんどいません。宗教団体は私的な団体であり、それが政党と互いにどの程度関わりを持つかは、国と宗教団体との関わりを論点とする憲法上の政教分離とはそもそも別次元の問題なのです。
 
 それでも一部には、憲法20条の「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」との文言を“政治上の影響力を行使してはならない”と解釈して読む人もいます。しかし普通はこうした読み方はしませんし、仮にそう読んだとしても、一体何をもって影響力とするのかが不明です。また、事実上の影響力を確定することもできないわけですから、批判する側がどこが政教分離原則に違反しているのかというメルクマール(標識)を明確に示さない以上、それは取るに足らない批判で、反論するまでもないレベルのものということになります。
 

 また、憲法上の議論だという見方についても、すでに内閣法制局を含めて、憲法の解釈では、事実上の政治に対する影響力の問題とはまったく違うということがたびたび示されていますので、これもまた取るに足らないものとして一蹴してよいものだと思います。
 
 この手の政教一致批判は、以前からある団体や政党もよく行っていますが、そうした政党の指導層は、政教分離論について果たして正しい理解をしているのでしょうか。もし正しい理解がないとすれば単に無知ですし、理解した上で批判しているのだとすれば、国民を引っ張る公党の姿勢としてはどうかと思いますし、そこは誠実さに欠けると批判されても仕方がないと思います。
 
 また、そこに“宗教は人民のアヘン(麻薬)”だと考えるマルクス的な解釈、あるいは“キリスト教的な道徳の由来はルサンチマン(強者に対して弱者が抱く憎悪やねたみ)”であるとするニーチェ的な解釈をしているのだとすれば、そもそも宗教に対する基本的な捉え方が違うということになります。それは、宗教そのものをどう捉えているのかという問題であって、政教分離の議論とはまったく別の議論になってくると思います。
 
 しかも、そこに無神論的な宗教観があるとすれば、もしそういう人々が信教の自由を守ると言ったとしても、それは上っ面をなぞるだけの表面的なものになってしまうと言わざるを得ません。
 

宗教的情操教育の必要性

 政教分離の原則は、決して観念的に政治と宗教を切り離すものではありません。実際に、米国では大統領が就任時に聖書に手を置いて宣誓します。フランスのシテ島にある最高裁判所の隣には、サントシャペル教会があり、そこで夜にコンサートが行われる際には、裁判所の建物の中を通って教会に通じます。いずれも政教分離の原理主義に縛られた日本では考えられないことですが、海外ではそのように日常的な生活のなかで宗教を捉えています。
 
 その点では、日本は宗教が持つ価値についての理解が不足しているのだと思います。実際には欧米におけるキリスト教と同様に、日本でも伝統的な仏教や神道などから派生した各種の宗教行事は、社会生活に深く浸透しています。だからこそ本当は、公教育の段階で宗教的な情操教育を行うことが望ましいと私は考えています。もちろん公教育の場で特定の宗教について教えることは憲法で禁じられていますが、宗教が持つ優れた情操面を伝えることまで禁止されているわけではありません。
 

 海外においては、たとえばベルギーの公立学校では、公的な学校教育機関としての中立性を保ちながらも、正規の科目として宗教教育が実施されています。もちろんこれは強制ではなく、親が選択できるというシステムになっています。そのように選択の自由があることによって、中立性原理と信教の自由との調整がなされています。公立学校だからといって宗教をすべて締め出すということは、決して世界の標準ではないのです。
 
 実は日本においても教育基本法15条で「宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない」と謳っています。このように、社会生活における宗教の地位を尊重するという精神のもと、宗教が持つ価値について教えることは決して憲法違反ではなく、むしろ必要なことだと言えるのではないでしょうか。