〈希望の指針――池田先生の指導に学ぶ〉 立正安国①2021年9月3日

  • 仏法は現実を変革する力

 連載「希望の指針――池田先生の指導に学ぶ」では、テーマごとに珠玉の指導・激励を紹介します。今回は小説『人間革命』『新・人間革命』から、「立正安国」(全4回予定)の第1回を掲載します。

【宗教の使命とは?】 広宣流布は人類への「貢献活動」

 <1954年(昭和29年)、戸田城聖は政治・経済・教育など、社会のあらゆる分野に広布の人材を輩出しようと「文化部」を設置。翌年、各界で活躍する同志を文化部員に任命し、その代表を4月の統一地方選挙の候補者に推薦した>
 
 広宣流布の活動は、宗教革命を基本として、それによって、広く人類社会に貢献する活動である。日蓮大聖人の仏法が、行き詰まった現実の社会を見事に蘇生させることを目的とする以上、この宗教活動が、いつか社会化していくことは必然の道程であった。社会の各分野で活躍する人材を輩出していくという戸田城聖の構想は、水滸会や身近にいる幹部との会話で、しばしば語られていたが、政治改革は、未聞の活動領域であっただけに、現実の問題として認識する人は、ほとんどいなかったといってよい。戸田の壮大な構想を耳にしても、心地よいユートピアの夢物語として、歓喜するにすぎなかった。
 
 そのなかで、師弟不二の道程を着々と歩んできていた山本伸一だけが、戸田の予言的展望を脳裏に刻んで、秘められた理想を現実化するための、うかがい知れぬ多くの辛労を、戸田と共に分かち合っていたのである。構想が未聞であっただけに、辛労の質もまた未聞であった。(中略)
 
 この新しい展開に示された戸田の構想は、最初から人類の文化活動全般に向けられていた。それは、人間の幸福の実現をめざす日蓮大聖人の仏法の実践展開として、必然的なことであった。したがって、文化部の活動は、政治の分野に限られるものではない。もっと広範な社会的分野における活動が、意図されていたのである。
 
 創価学会の存在を際立たせているものは、日蓮大聖人の仏法の唯一の正統派として、広宣流布を掲げ、立正安国をめざす実践活動に尽きるのである。この実践活動は即、一人の人間に人間革命をもたらす実践でもあった。
 
 自らの生命を革命したといっても、社会に生きる一社会人であることには変わりはない。その一人ひとりが、社会建設の新しい力を発揮していくはずである。そして、この慈悲の哲理を掲げた運動の波動は波動を呼び、やがて社会のあらゆる分野を潤していくことになるのも確かなことだ。いかにそれが、遠い道のりに思われようと、他に確実な方途がない以上、確信のあるこの道を、真っしぐらに進むよりほかに使命の完遂はない。
 
 戸田城聖は、広宣流布のはるかなる道程をつぶさに思いつつ、文化部の手塩にかけた要員をもって、社会を覚醒させる第一歩を踏み出したことに、油断のない配慮を、あらためて重ねなければならなかった。
 
 (『人間革命』第9巻「展開」の章、179~181ページ)

画・内田健一郎

画・内田健一郎

【立正安国の目指すもの】 人間の幸福のための社会を築く

 <1961年(昭和36年)8月、創価学会恒例の夏季講習会が開かれる。講習会の中心となったのは、山本伸一の「立正安国論」講義であった。伸一は、御書を拝し、気迫と情熱を込めて講義していった>
 
 「立正安国とは、わかりやすくいえば、真実のヒューマニズムの哲理を根本に、一人ひとりが自らの人間革命を行い、社会の繁栄と世界の平和を創造する主体者となっていくということです。
 
 日蓮大聖人の御一代の弘法は、『立正安国論に始まり、立正安国論に終わる』と言われております。
 
 大聖人が、この『立正安国論』をお認めになった目的は、地震や洪水、飢餓、疫病などに苦しみ喘ぐ、民衆の救済にありました。そして、そのために、まことの人間の道を説く仏法という生命の哲理を流布し、人間自身の革命をめざされたのです。つまり、一人ひとりの悪の心を滅し、善の心を生じさせ、知恵の眼を開かせて、利己から利他へ、破壊から創造へと、人間の一念を転換する戦いを起こされた。
 
 なぜなら、人間こそが、いっさいの根本であるからです。肥沃な大地には、草木が繁茂する。同様に、人間の生命の大地が耕されれば、そこには、平和、文化の豊かな実りが生まれるからであります……」
 
 (中略)
 
 「社会の混乱や悲惨な現実をもたらす原因は、人間という原点を忘れた考え方に、皆が心を奪われていくことにあります。
 
 現在、日本にあっては、昨年の新安保条約の成立以来、政治不信、政治離れが起こり、人びとの関心は、経済に向かっている。
 
 確かに、党利党略に終始し、実力行使や強行採決など、議会制民主主義を踏みにじる現在の政治を見ていれば、国民が失望し、不信をいだくのも当然かもしれない。それも、政治家が民衆の幸福を、人間という原点を忘れているからです。しかし、だからといって国民が政治に無関心になって、監視を怠れば、政治の腐敗はさらに進んでいく。
 
 また、人間を忘れた経済も冷酷です。ただ利潤第一主義、経済第一主義に走れば、社会はどうなるか。豊かにはなっても、人心はすさみ、自然環境の破壊も起こり、結局、人びとが苦しむことになります。
 
 科学の世界にあっても、科学万能主義に陥れば、その進歩は、かえって、人間性を奪い、人間を脅かすものになっていきます。
 
 ヒューマニズムに帰れ――これが、現代的にいえば日蓮大聖人の主張です。そして、政治や経済、科学に限らず、教育も、芸術も、社会のすべての営みを、人間の幸福のために生かしていく原理が、立正安国なのであります」
 
 (『新・人間革命』第4巻「立正安国」の章、284~287ページ)

「仏法者の使命は、人類の幸福と世界の平和の実現にある」――池田先生は、現実社会の変革のため、世界の指導者たちと対談を重ねてきた(1990年7月、ソ連<当時>のゴルバチョフ大統領と)

「仏法者の使命は、人類の幸福と世界の平和の実現にある」――池田先生は、現実社会の変革のため、世界の指導者たちと対談を重ねてきた(1990年7月、ソ連<当時>のゴルバチョフ大統領と)

【創価学会の目的】 地上から“悲惨”の二字を根絶へ

 <1961年(昭和36年)8月の、夏季講習会で「立正安国論」を講義した山本伸一は、「須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を禱らん者か」(御書31ページ)の御文を拝し、力強く訴える>
 
 四表とは、東西南北の四方であり、広く社会を、また、世界をさす。
 
 「この意味は、『当然のこととして、一身の安堵、つまり、個人の安泰を願うならば、まず、四表、すなわち、社会の安定、世界の平和を祈るべきである』ということです。
 
 ここには、仏法者の姿勢が明確に示されている。
 
 自分の安らぎのみを願って、自己の世界にこもるのではなく、人びとの苦悩を解決し、社会の繁栄と平和を築くことを祈っていってこそ、人間の道であり、真の宗教者といえます。
 
 社会を離れて、仏法はない。宗教が社会から遊離して、ただ来世の安穏だけを願うなら、それは、既に死せる宗教です。本当の意味での人間のための宗教ではありません。
 
 ところが、日本にあっては、それが宗教であるかのような認識がある。宗教が権力によって、骨抜きにされてきたからです」
 
 (中略)
 
 「世の中の繁栄と平和を築いていく要諦は、ここに示されているように、社会の安穏を祈る人間の心であり、一人ひとりの生命の変革による“個”の確立にあります。
 
 そして、社会の安穏を願い、周囲の人びとを思いやる心は、必然的に、社会建設への自覚を促し、行動となっていかざるを得ない。
 
 創価学会の目的は、この『立正安国論』に示されているように、平和な社会の実現にあります。この地上から、戦争を、貧困を、飢餓を、病苦を、差別を、あらゆる“悲惨”の二字を根絶していくことが、私たちの使命です。
 
 そこで、大事になってくるのが、そのために、現実に何をするかである。実践がなければ、すべては夢物語であり、観念です。
 
 具体的な実践にあたっては、各人がそれぞれの立場で、考え、行動していくことが原則ですが、ある場合には、学会が母体となって、文化や平和の交流機関などをつくることも必要でしょう。また、たとえば、人間のための政治を実現するためには、人格高潔な人物を政界に送るとともに、一人ひとりが政治を監視していくことも必要です。(中略)
 
 また、そうした社会的な問題については、さまざまな意見があって当然です。試行錯誤もあるでしょう。しかし、根本は『四表の静謐』を祈る心であり、人間が人間らしく、楽しく幸福に生きゆくために、人間を第一義とする思想を確立することです。
 
 さらに、その心を、思想を深く社会に浸透させ、人間の凱歌の時代を創ることが、私どもの願いであり、立正安国の精神なのです」
 
 (『新・人間革命』第4巻「立正安国」の章、287~289ページ)