【創造する希望――池田先生の大学・学術機関講演に学ぶ】第12回㊤ アメリカ カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)「21世紀への提言――ヒューマニティーの世紀に」2021年7月23日

  • 〈1974年4月1日〉

米カリフォルニア大学ロサンゼルス校で、講演を行う池田先生。日本時間では、4月2日午前7時過ぎ――恩師・戸田城聖先生の祥月命日の朝だった(1974年4月1日)

米カリフォルニア大学ロサンゼルス校で、講演を行う池田先生。日本時間では、4月2日午前7時過ぎ――恩師・戸田城聖先生の祥月命日の朝だった(1974年4月1日)

 海外の大学・学術機関で行われてきた池田先生の講演を掲載する連載「創造する希望」。第12回は、アメリカのカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の講演「21世紀への提言――ヒューマニティーの世紀に」(1974年4月1日)である(上・下に分けて掲載)。
 
 

掲載範囲のポイント

●トインビー対談を踏まえて論を展開
●普遍的な真理を説く仏法の哲理
●「無常」を見つめることから真実の悟りが
 

生命尊厳の思想を基盤とした文明築く

 本日はUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)のヤング総長、またミラー副総長のご招待をいただき、アメリカの知性を代表するキャンパスで講演できることを、心の底から喜んでおります(拍手)。これからのアメリカを、否、二十一世紀の世界を担う皆さんへの満腔の期待と敬意を込めつつ、講師としてというよりも、むしろ、ともに未来を語り合う友人として話をさせていただきます。(大拍手)
 
 一昨年(一九七二年)及び昨年(七三年)の五月、イギリスの歴史学者であり哲学者でもあるトインビー博士の招待を受け、約十日間にわたって真摯な討議をいたしました。私は人間対人間の中に、相互の触発があると信ずる一人である。ゆえに、対話を最も重んずるのであります。
 
 ご存じのとおり、トインビー博士は現代の誇る最高の知性の一人であり、人類の巨大な財産であります。八十五歳でありながら、なお、かくしゃくとして創造的な仕事を続けておられる。
 
 トインビー夫妻は、いつも六時四十五分に起床しておられるようであります。この時間は、諸君はまだ睡眠中かもしれないし(笑い)お手洗いにいって、もう一度寝床に入る時間かもしれない(笑い)。起きられるとすぐに、お二人でベッドを片づけ、朝の食事を作るそうであります。そして九時になると博士は、用事があってもなくても、ご自身の机に向かうそうであります。
 
 私はこの姿を拝見して、美しく老いたものだと思った。諸君のように、若さという美しさもあるが、老いた美しさには、尊さをはらんだ美しさがただよっているように思えてならない。さて、諸君も、お父さん、お母さんが、美しく老いていかれるよう、落第したり落胆させるようなことをしないよう、切望するものであります。(笑い、拍手)
 
 トインビー博士との対話の際、座右の銘をうかがったことがあります。博士は「ラボレムス」というラテン語を挙げられた。「さあ、仕事を続けよう」という意味であります。
 
 ローマ帝国のセウェルス皇帝が西暦二一一年、イングランド北部の厳冬の地で、遠征の途にある時、重病に倒れて死期が迫った。しかし、指揮者として、仕事を続けた皇帝は、まさに死なんとするその日「さあ、仕事を続けよう」と、全軍にモットーを与えたのだとうかがいました。
 
 私は、博士が老いてますます若々しく、精力的に仕事が続けられる秘密を知った思いがしました。そして生涯“思想の苦闘”を続ける人間の究極の美しさを、そこにみたのであります。
 
 文明論、生命論、学問・教育論、文学・芸術論、自然科学論から国際問題、社会問題、人生論、女性論など幅広く話し合いました。二十一世紀の未来を展望しつつ、対話は果てしなく続き、延べ四十時間を超えるものとなった。私が日本に帰ってからも、書簡による討論は、幾度となく繰り返されたのであります。
 
 私が博士にお会いして、対談のあいさつをした時「さあ、やりましょう! 二十一世紀の人類のために、語り継ぎましょう」と、一瞬、厳しい表情となり、決意を込めた強い語調で言われた。自らの死のかなたにある未来の世界に強い関心を寄せ、若き私どもに、知性のメッセージを贈ろうとされる博士の心にうたれながら、私は対話を続けたのであります。本日、私は、博士に決して劣ることのない決意と誠意をもって、皆さんに語り継ぎたい。(大拍手)
 

講演には、カリフォルニア大学ロサンゼルス校のミラー副総長㊨をはじめ、教授、学生ら約600人の参加者が集った

講演には、カリフォルニア大学ロサンゼルス校のミラー副総長㊨をはじめ、教授、学生ら約600人の参加者が集った

 
 トインビー博士との対話の締めくくりとして、二十一世紀の人類への提言は何か、と問うた時、博士は「二十世紀において、人類はテクノロジーの力に酔いしれてきた。しかし、それは環境を毒し、人類の自滅を招くものである。人類は自己を見つめ、制御する知恵を獲得しなければならない。そのためには、極端な放縦と極端な禁欲を戒め、中道を歩まねばならない。それが、二十一世紀の人類の進むべき道だと思う」という意味のことを述べておられた。
 
 私も全く同感であり、特に「中道」という言葉にひかれた。というのは“東洋の心”を流れる大乗仏法は、中道主義を貫徹しているからであります。この言葉はアウフヘーベン(止揚)に近い言葉と考えていただきたい。すなわち、物質主義と精神主義を止揚する第三の「生命の道」のあることを、私は確信しております。
 
 現代文明の蹉跌を矯正する方途として、具体的な方法論も論じ合いました。しかし、技術的な方法論は、それのみにとどまっては、根本的な解決をもたらさない。ここで、どうしても「人間とは何か」「生きるとはどういうことか」等々、もう一度原点に踏み込む必要を、ともどもに痛感したのでした。いきおい博士との対談は、人間論、生命論といった、根本的なものに重点がおかれていったのであります。
 
 特に印象的であったものの一つに、生命論に関する対話があります。これは、人間が人間を知るための基本的な論議であり、人間の生命活動こそ、文明を形成する根本の要因だからであります。
 
 トインビー博士は二度の世界大戦を体験され、戦争が妥協のあり得ない最も悪い制度であると叫んでおられる。また最愛の子息を亡くされ、言いようのない精神的苦痛を味わわれた。それらは、博士の関心の大きな部分を、人間の生死、ひいては生命の奥深くに向けさせているようでした。
 
 私自身、兄を戦争で亡くしている。戦争ほど悲惨で、残酷なものはないというのが、私の実感であります。それは生涯、変わることがないでありましょう。生命をこのうえなく尊厳とする思想を、全人類が等しく分かち持つことが急務であると、トインビー博士と私は、強い共感と祈りをもって、確認し合ったのであります。
 
 私はきたるべき二十一世紀は、結論して言うならば、生命というものの本源に、光が当てられる世紀であると思っております。否、そうあらねばならないと信じています。そうあってこそ、文明は真実の意味でテクノロジーの文明から、ヒューマニティーの文明へと発展するであろうと思うからであります。
 
 トインビー博士との生命論に関する対話では、精神と肉体の関係についての問題、生命の永遠性についての問題、死刑論、安楽死の問題、エゴイズムの問題等々、多岐にわたるテーマが取り上げられたわけでありますが、本日、この講演の場においても、生命論を総括的に取り上げ、皆さんとともに、人類の行く末を見つめていきたいのであります。
 

聴講した学生たちからは「自分の生涯をかけて勉強するに値する“人間の哲学”だと思いました」など大きな反響が寄せられた

聴講した学生たちからは「自分の生涯をかけて勉強するに値する“人間の哲学”だと思いました」など大きな反響が寄せられた

 
 ご存じの方も多いかと思いますが、仏法の第一歩においては、人生を苦の集積であると説いております。生まれ出る苦しみ、老いる苦しみ、病気の苦しみ、そして死ぬ苦しみに代表されますが、愛する者といつかは別れなければならない苦しみ、求めても得られぬ苦しみ等々、人生には苦しみが充満していると説くのであります。
 
 楽しい時間というものは早く去り、そして必ず壊れていく。それを失う悲しみが加わって、苦しみを感ずる時間は長い。社会に広がっている貧富の差、人種、風俗の差は、人に楽しみを与えるよりも、苦しみを実感させているように私には思える。
 
 ではなぜ、人は人生に苦しみを感ずるのか。それは「無常」ということを知らないからであると、仏法では教える。無常とは、あらゆる宇宙、人生の現象で、常住不変のものはないということであります。その原理を知らないところから、苦しみが起こるというわけであります。
 
 若き者は必ず老い、形のある物は必ず滅ぶ。健やかであっても病むときが来、生あるもの必ず死す。ギリシャの哲人ヘラクレイトスは「万物は流転する」と言ったといわれておりますが、森羅万象すべて川の流れのごとく、一瞬としてとどまることなく変化しゆくものなのであります。この机やマイクや建物すべて、頑丈にできていることを疑うわけではありませんが、それすらも十分な時間さえあれば、いつかは破壊され、私は講演しなくてもすむようになる(笑い)。もっともそれまで待てるほど、私の体が丈夫だとは思っておりませんが……。(笑い)
 
 ところで、このような「無常」の原理を忘れ、それを常住だと思って執着するところに、魂の苦しみが生ずる原因があると、仏法は説くのであります。
 
 もし皆さんに、美しい恋人がおられるとして、最初からその恋人の三十年後、四十年後の姿を思い浮かべつつ、交際しておられる方は少ないと思います(爆笑)。やはり現在の美しさ、若さがいつまでも続くことを願うのが、人情というものであります。また、いかに膨大な富でも、死んだ後まで持っていけるものだと信じて、そのために一生懸命働こうという方も、あまりおられないはずです。
 
 ともかく、得た富を少しでも長く自身にとどめておこうとして働くのであります。これらは、決して誤った考えとはいえない。むしろ、自然な人間の感情である。しかし、この感情があるがゆえに、苦しみがあることも事実であります。恋人をいつまでも我が手にと思うがゆえに、種々の葛藤があり、愛する者と別れなければならない時、最も大きな魂の苦痛を感ずる。富を確保しようと思うあまり、その富に執着し、隣人と争い、富を失う苦しみも、味わわなければならないのであります。
 
 「死」という問題も同じである。私達が今、こうして生きているのは事実であり、常に死ぬことを考えて生きているわけにはいかない。いつの間にか、自らの生が、いつまでも続くと無意識のうちに考え、その生を保とうとして様々な努力をする。
 
 しかし、その強い執着が、人間にあらゆる苦しみを与えていることも疑いない事実である。死ぬことを恐れるからこそ、老いにおびえ、病に苦しみ、生を貪ろうとして果てしなき煩悩の泥沼にもがいているのが、私達の人生であるともいえるでありましょう。
 
 仏法は、これら無常の変転を明らかに見つめよと説く。むしろ偉大なる勇気を持ってこの事実を受け入れなければならない、と主張しているのであります。事実から目をそむけ、変化する無常の現象を追い掛けるのではなく、冷静にその事実を受け止めるところから、真実の悟りへの道は開けるといえるのであります。
 
 人生は無常であり、そのゆえに苦の集積であり、更にこの現実の肉体を持つ自己自身も、必ず死ななければならない。その死を恐れずに見つめ、その奥にあるものをとらえることを、仏法は教えております。
 
 先ほども申し上げたとおり、無常の現象にとらわれ、煩悩のとりこになるのは、決して、愚かな行為と片付けることはできない。というより、人間の生ある限り、生命の存在がある限り、生に執着し、愛を大切にし、利を求めるのは、自然な感情だからであります。従来、仏教は、煩悩を断ち、欲を離れることを教えるものとしてとらえられ、文明の発達の対極にあるもの、それを阻害するものとさえ考えられてきた。
 
 こうしたことは、無常を強調する一側面が浮き彫りにされたものであり、これだけが仏教のすべてであると考えるとしたら、仏教の一面的な評価にすぎないと言わざるを得ません。
 
 

 『池田大作全集』第1巻所収。肩書、時節等については、講演時のままにしました。
 
 

◎時代背景と講演の意義◎

 1974年4月1日、池田先生は、海外の大学・学術機関で初となる講演を、全米屈指の名門学府・カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で行った。
 
 当時の世界情勢は、アメリカとソ連の両大国を盟主とした東西陣営の対立に加え、社会主義国同士である中国とソ連の関係も険悪となり、複雑な様相を呈していた。
 
 一方、その当のアメリカは、60年代の後半から70年代初頭にかけて、人種差別問題やベトナム戦争の泥沼化で社会の分断が深まり、講演の前年に起こったオイルショックの影響で、アメリカの繁栄を支えてきた技術革新と大量生産・大量消費の文明が揺らいでいた。
 
 講演の冒頭、池田先生は72年と73年に行われたトインビー博士との対談を紹介しながら、仏法の中道主義こそ、物質主義と精神主義を止揚する第三の「生命の道」であると語った。
 
 そして、生命を手段化する「テクノロジーの文明」を超えて、生命尊厳の「ヒューマニティーの文明」へと発展するため、欲望に振り回される「小我」の生き方から、大宇宙の根本法に則った「大我」の生き方への転換が必要だと強調。
 
 21世紀を「生命の世紀」にするには、人間が知性のみならず、精神的、生命的にも跳躍すべきであると提唱した。
 
 講演を聞いた参加者からは、「我々に新鮮な勇気と感動を与える歴史的な講義」(ノーマン・ミラー副総長)、「人類の未来開拓へ、根本的な道標を示した、重要な意義をもつもの」(ネイサン・サビラ教授)など称賛の声が寄せられた。
 
 
(創価新報2021年7月21日付より)