金曜日の夜に、ひどく仕事に追われている同僚と二人で東海汽船の八丈島航路に乗り込んだ。
天候は悪く、条件付きの出航となり、三宅島を超えると特に波が高く結構なゆれだった。
 
船中でベトナムの焼酎を飲んだが、ココナッツ味で・・・・かなり違和感のある味だった。
 
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八丈島の底土港に着岸したが、現地で落ち合うはずだった同僚の迎えが来ず、八丈島フィッシングクラブの迎えが来て「早朝の第一便の飛行機は天候不良で決行となりすべてキャンセルとなった」とのことだった。結局、今回の釣りは船で到着した私と同僚の二人で巡ることとなった。
波が高く、釣り人も集まらないので八丈小島行きの渡船も出ない・・・・
 
風も強かったので、神湊港の桟橋で釣りをすることにした。
桟橋では、第二投目でシマアジの40センチクラスがヒットしたが、途中で口切れしてばれてしまった。
今回の釣りでは唯一のあたりだった・・・・
 
潮の流れが速く、桟橋に密集するかご釣りや底物の釣り人の合間で釣りをするのも少々無理があった。
 
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残念ながら、翌日の渡船も出船しないとのことだった。
翌日は早朝(夜)から桟橋で夜釣りをするつもりだったが、結局4時半頃に桟橋に到着することとなった。
大きな朝日に迎えられた。
 
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神湊港の桟橋で釣りをするが、横風が強く、潮も当て潮となりコマセも聞かず、釣りにならなかった。
7時ころに八重根港に移動したら、地元の釣り人が大型のカンパチを上げていたが、出遅れてよい釣りができなかった。結局、早々に納竿することとした。
 
釣果は、チョウチョウウオ一匹、二日間で使ったアミブロックは2枚と、これまでの八丈島釣行で最低の水準だった。ほとんど釣りをしなかった・・・・
きちんと地磯を探れば、よいつりになる可能性もあったが、なんだか同僚も疲れが溜まっているようで、あまり釣りをしたくない様子だったことから観光をすることにした・・
 
歴史民俗資料館に行ってみた。東京都の支庁建物を改造したもののようだ。
流人文化コーナーがあって、少々、興味をひかれたものがある。
八丈島は、1606年の宇喜多秀家父子が流されたことが有名だが、明治4年まで1755名~1865名が遠島になったそうで、三宅島の2300名よりも少ない。
 
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近藤富蔵の碑があった。
 
近藤富蔵は、千島探検で有名な近藤重蔵の長男で、1826年の23歳のときに、重蔵の別荘の土地境界争いから、博徒あがりの塚原半之助と妻、母親、子供の7名を殺傷(5名死)し、その罪で、八丈島に流罪となった。
 
俗に言う「鎗ヶ崎事件」で、その事件の元になった、別荘は、三田村鎗ヶ崎(現在の中目黒二丁目)にある。父の重蔵が華美な別荘を作り、邸内に築いた近藤富士(富士山を模した築山)の管理を博徒あがりの塚原に任せたことが事件の原因だとも言われているようだ・・・・富蔵はひどい放蕩息子だった、または、父に成り代わって博徒を成敗し勤実であった・・など、小説やエッセイでさまざまな人物像が描かれている。
 
遠島中の富蔵は、八丈実記72巻(清書69巻)という、柳田国男や渋沢敬三らに高く評価された民俗学的な書物を著した。東京都公文書館に保存されているようだ・・・絵本のようで面白い・・・(図書出版緑地社のHP引用)
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明治13年に赦免を受け53年の流人生活を終えるが、いったん本土に戻って四国順礼(お遍路!)を済ませて、八丈島に帰島し、83歳まで観音堂の堂守として生涯を終えた。
 
強力、大食、無殺生の逸話もあり、碑には「モフイワジカカジ思ヒオモヘドモ、マタアヤナクモシメス水茎」とある。どうしても筆をとってしまう生まれつきの文筆家だったようだ。
 
興味深い翁だったようだ・・・
 
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島の南側の末吉では、サーフィンをやっていた。島に何度もきているのだが、サーフィンは初めてみた・・イメージ 6
 
洞輪沢(ぼらわざわ)温泉が末吉地区の近くにあるが、無料温泉ではあるものの、ひどく汚くてドン引きする。
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残念な釣行だったが、今回で、上期の磯釣りは終わりだ。
来週以降はフライフィッシングに専念するつもりだ。
 
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