日常的スピリチュアル、安田です。


成長には負荷が必要であり
生みの苦しみのような境地によって
成長することができます。

成長には訓練が必要であり
訓練というのは負荷をかける歩み
努力をしていくということです。

成長欲求は誰でも持っていますが
私たちの本能は、痛みを避けて
快楽を得ようとするので

成長欲求を満たしたい願いと
本能基準の願いの狭間で
葛藤してしまうのです。

本能基準の願いも必要なのですが
痛みを避けていたのでは
一歩も前に進めないし

快楽ばかりを求め続けても
成長することはできません。

何をするにしても
訓練にする意識をしていくことで
成長欲求を満たす歩み
努力ができるようになるのです。

訓練というと
特別な環境で、特別なことを
やるような印象がありますが

私たちの現実の歩みが
訓練になっていきます。

現実の環境というのは
いくらでも妥協しやすいし
流されやすいのです。

特別な環境であれば
その環境に合わせることができれば
特別なことがしやすくなりますが

現実の環境の中で
成長につながる歩みをすることは
簡単ではないのです。

かと言って、今の時代の私たちは
修行僧のように山に籠って
特殊な訓練をする必要はないのです。

訓練というのは
現実の環境の中でしなければ
意味がないのです。

なぜなら、現実の環境の中でしか
成長することができないからです。

多くのセミナーに参加しても
成長することはできないのです。

セミナーというのは
どう歩むのか、努力をしていくのかを
教えてくれるだけであって

現実の環境の中で
学んだことをどう活かしていくかは
自己責任なのです。

セミナーからの刺激は
一時的であり、一瞬であるので
その刺激を維持できるのは
長くても48時間までなのです。

セミナーによって
基準を上げる体験が
できるのですが

一度でも上げた基準があれば
その基準を軸にすることができ
現実の訓練に活かすことができます。

ただ、現実の環境が
最も厳しい環境であり
セミナーで上げた基準との
ギャップでより葛藤するのです。

私たちの現実の歩みというのは
一時的、一瞬の歩みではなく
継続していく歩みなのです。

訓練というのは
継続していくことであり
継続をしていかなければ
成長することができないのです。

常に気を張るような
歩みはできませんが

訓練する意識をしていくことで
成長につながる歩みが
できるようになります。

今の時代の訓練というのは
訓練される環境の中に飛び込むか
自己訓練を極めるかになります。

自己訓練というのは
どう努力をしていくかを決めて
決めた通りの歩みを
していくことをいうのです。

自分で決めることなので
負荷をかけることもできれば
妥協することもできます。

どう決めて歩むのかは
自己責任になっていくので
誰も何も文句を言うことはありません。

現実的に、常に限界まで
歩み続けることは簡単ではないので
「ちょっと無理をする」という歩みを
続けていくしかないのです。

ちょっとの無理
小さな無理を継続することで
負荷をかけ続ける訓練が
できるようになるのです。

成長には時間がかかるので
一気にやって、一気に終わらせる
ような歩みをする必要はないのです。

地道な努力を続けていくことで
ちょっと、小さな負荷を
かけ続けることができ
自己訓練を極める歩みができます。


今回も読んで頂きましてありがとうございました。

安田 悌