⭐️やさしさ通心…No.747 | yasashisatuushinのブログ

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2024年7月6日(土)

 

おはようございます。

 

今週3日から新紙幣が発行されましたが、皆さんの財布にはもう、新紙幣は入っていますか?

私の財布はこれまでと全く同じで、早く一度、手にしてみたいなと思っています。笑

 

新しく、渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎が肖像画として登場しましたが、今朝は、私が個人的に一番知らない『津田梅子さん』の生涯をご紹介させて頂きます。

 

『女子高等教育の開拓者』

 

新5,000円札の図柄に選ばれた津田梅子は、津田塾大学を創立した女性として知られます。

 

彼女はどのような人生を歩み、なぜ津田塾大学を創立しようと考えたのでしょうか。

 

梅子は幕末の1864年(元治元年)、東京の御徒町で誕生しました。当初の名前は「むめ(うめ)」。

 

父親は先進的な考え方の持ち主と言われる、農学者の津田仙(つだ せん)です。仙は子どものころから英語やオランダ語を学び、通訳として幕府に仕えていました。

 

梅子の人生は、父の仙によって大きく舵を切られます。6才のときに「岩倉使節団」の一員として親元を離れ渡米。以後11年間、アメリカの家庭で育ったのです。

 

6才といえば現代なら小学校1年生。ピカピカのランドセルを背負っている1年生を 一人で海外に留学させることは、ちょっと想像ができないでしょう。

 

梅子がアメリカに渡ったのは1871年(明治4年)。1871年といえば郵便制度が開始された年です。

 

ようやく国内での手紙のやりとりが便利になったという時代に、6歳の幼児が親と別れてアメリカに行く心細さは計り知れません。

 

梅子を岩倉使節団に入れようと考えたのは、父親の仙でした。仙自身が、1867年に幕府の遣米使節の通訳として渡米し、アメリカの農業や男女平等の様子を目の当たりにしています。

 

この経験が娘梅子の渡米を後押しすることになるのです。

 

岩倉使節団の目的は、政府首脳による不平等条約の改正交渉、官僚や留学生よる欧米諸国の制度や技術の調査にありました。

 

伊藤博文や木戸孝允、大久保利通といった政府の首脳も同行しています。

 

梅子は「開拓使派遣留学生」の一員として10年間ものアメリカ滞在を計画していました。

 

他の男子学生が2年で帰国しているなか、女子学生だけ10年も滞在した背景には、北海道の開拓を行っていた黒田清隆(後の内閣総理大臣)による尽力があったからだと言われています。

 

黒田も1867年に梅子の父、仙とともに渡米し、アメリカの女性の教育レベルや地位の高さに驚いたのだそう。帰国した黒田が女子教育の重要性を政府に説き、女子留学生の派遣が政府によって許可されたというわけです。

 

当時、日本からアメリカに渡る交通手段は船のみ。梅子は「蒸気船アメリカ号」で約1ヶ月かけてサンフランシスコに到着しました。

 

それからワシントン近郊、ジョージタウンの「ランマン夫妻」の家で暮らすことになります。英語を流ちょうには話せない6歳の梅子はどんなに心細かったことでしょう。

 

ところが留学から2年後の1873年、「キリスト教の洗礼を受けたい」と夫妻に打ち明けるほど、アメリカの暮らしに馴染んでいました。

 

梅子は、フィラデルフィア近郊の教会で洗礼を受けたあと、初等教育を終え、8歳からは私立の女学校でフランス語やラテン語を学びます。

 

梅子の留学期間は1881年(明治14年)までのはずでしたが、本人の希望で1年間延長されます。そして翌年の7月、17歳になった梅子が帰国。

 

しかし、11年間もアメリカで暮らし、英語が堪能でも日本語が不自由な梅子に居場所はありませんでした。

 

帰国後にランマン夫人に送った手紙によると、梅子は自分のことを「移植された木」と表現しています。居心地の悪さを感じていたのでしょう。

 

梅子と一緒に留学した女子留学生の二人は、早々に結婚。のちに、梅子も何度か縁談をすすめられましたが、「話を聞くだけでもうんざりです」と断って一生結婚をしないと誓ったそうです。

 

梅子は伊藤博文の家の家庭教師を経て、1885年(明治18年)に「華族女学校」の英語教師に就任します。

 

華族女学校(のちの学習院女子大学)は華族の女子に本格的な学びを提供する場所です。梅子は華族女学院で女子学生に英語を教えながらも、ふたたびアメリカへ留学することを夢見ます。

 

ただ、当時は6歳のころとは異なり、女性の梅子が留学することは非常に困難でしたが、留学時代のアメリカの友人の助力により、授業料の免除等を勝ち取って、華族女学校に在籍したまま渡米することが認められます。

 

期限は2年間。梅子が再度アメリカに渡るのは1889年(明治22年)、24才のことでした。

 

アメリカに渡った梅子はブリンマー大学に入学します。大学で質が高い教育を受けて、女性にとっての教育の重要性を再認識しました。

 

当時の梅子が学んでいたのは生物学です。1894年には梅子が執筆した「蛙の卵の発生について」の論文が学術雑誌に掲載されています。

 

女性教育への思い、女子英学塾の創設、ブリンマー大学在学中、梅子は「日本婦人米国奨学金制度」を設立しました。自分のように学びたい女性の助けになればと考えたのです。

 

資金集めのための講演や募金活動を行い、2度目の留学から帰国したのは1892年(明治25年)のこと。ふたたび華族女学校に勤め、明治女学院でも教壇に立ちます。

 

その後も二回、アメリカやイギリスに留学して、「女性の地位向上のためには専門的な知識、学問が必要不可欠だ」との強い思いを強くします。

 

そして1900年(明治33年)、「女子英学塾」を創設。これまでのお行儀作法の延長のような学校ではなく、少人数方式のレベルが高い教育を目指した学校です。

 

初年度の入学者は日本全国から集まった10名の女性。女性たちは英語を学び、英語教師を目指しましたが、ここから日本人女性活躍の第一歩が踏み出されたといってもよいでしょう。

 

女性の地位向上、女性の自立を追求し続けた梅子、彼女が残した津田塾大学は今なおその理念を受け継ぎ、「英語教育」「少人数教育」「留学・国際交流」の3つの理念を掲げています。

 

梅子は女子英学塾をひらいたときの挨拶で、「オールラウンドウィメン(all round women)」という言葉を残しました。

 

女子英学塾は英語を学ぶ学校でしたが、英語の習得のみならず、視野の広い女性であるようにとの思いが込められた言葉です。

 

オールラウンドウィメンは、当時の女子学生に贈られた言葉でした。しかし、梅子ら先人の努力の甲斐あって、現代には男女が対等に力を発揮できる社会が実現されています。

 

今や、すべての子どもたちに向けられた言葉と言えるでしょう。

視野を広く持って学ぶこと。そして一人の人間として自立して生きること。

 

苦労と困惑を繰り返しながら、女性の地位向上のために奮闘した梅子が人生を通じて表現したことは、将来のために何をすべきかと考えるとき、きっと役に立つはずです。

 

【ベネッセ教育情報より抜粋】

 

1917年(大正6年)の春ごろ、52歳の梅子は体調を崩して入院する。2か月後に退院したものの、その後も入院と退院を繰り返した。

 

梅子は、この時期の日記(英文)に下記のように記した。

 

[自分自身のことをいつまでも思い煩うまい。事物の永遠の成立ちのなかで、わたしやわたしの仕事などごく些少なものに過ぎないことを学ばねばならない……。

 新しい苗木が芽生えるためには、ひと粒の種子が砕け散らねばならないのだ。わたしと塾についてもそう言えるのではなかろうか。その思いが念頭を去らない。]

 1917年(大正6年)6月13日付の日記より。

 

津田 梅子(つだ うめこ、旧暦 元治元年12月3日〈新暦 1864年12月31日- 1929年〈昭和4年〉8月16日)は、日本の女子教育家。

 日本初の女子留学生の一人で、女子英学塾(現:津田塾大学)の創設者であり、日本における女子教育の先駆者と評価される。

 また、欧米の学術雑誌に論文が掲載された最初の日本人女性である。聖公会の信徒。

 

【ウキペディアより】