こんにちは。

 

 

数日間滞在していた息子夫婦が去っていき、ちょっと気が抜けている私です( ´艸`)

 

 

 

 

さて、少し前のことになりますが、ある方(女性の学生の方)からメッセージをいただきました。

 

それは、ずっと前に私がブログに載せた「空の記憶」という散文のようなものへの共感にあふれていて

 

何度も読み返してしまうほど感動したのでした。

 

 

そんな古い記事を見つけて読んでくださったこと、深く共感してくださったこと、何より励ましとして受け取ってくださったことがとてもとても嬉しかったのです。

 

その方がお若い方であったことも、もしかしたら嬉しさの要因のひとつだったのかもしれません。

 

私も若い頃の方が今よりずっと苦しかったから。

 

 

 

“苦しかった”と言い切ってしまうのはちょっと違うとのですが、

 

葛藤が大きかったというのでしょうか……

 

 

 

けれども、時が経って感じることは、人と色の混じらないような違和感こそが、自分の個性、感性そのものだということ。

 

もしそれを大きく譲ってしまったら、私は私を楽しめなくなってしまう、

 

私が私で居る意味を失ってしまう。

 

妙な言い方かもしれませんが、変でよかった、苦しくても変を明け渡さなくてよかったと今は思います。

 

 

 

 

少数派でも独りぼっちということはありません。

 

仲間は必ずいます。

 

少数派の人には少数派の人に与えられた使命のようなものがあって、小さくても目立たなくても頭にその光を灯しています。

 

自分の光を感じられるようになると、その光をもつ人がわかるようになります。

 

だから、その光を隠さずに「わたしはここにいます」とその光をかがやかせてほしいと思うのです。

 

そして、これからは少数派の人たちも生きやすい世界が拡がっていくように感じています。

 

もっとひとりひとりになっていくように思います。

 

 

 

思えば、私がセラピストとして活動させていただいたことも、こちらのブログで発信させていただいてきたことも

 

そんな少数派の人たち、仲間たちへの想いがあったからなのかもしれません。

 

幸せな状況だから少数派でなくなる、孤独ではなくなるということではなくて

 

それはもっと本質的なことだと思うのです。

 

 

 

浦賀(横須賀市)

好きな風景です。渡し舟があります

 

 

 

 

 

「空の記憶」

 

小さいころ、ぶらんこがとても好きでした。

 

鉄棒も雲梯も得意でしたが

 

ぶらんこは特別でした。

 

ただ空を見つめて

 

無心になって高く高く漕いでいく、

 

その感じがとても好きだったのです。

 

 

 

夕暮れ時に

 

赤く染まっていく空を見ながらぶらんこを漕いでいると

 

胸がぎゅっとして

 

なぜか泣いてしまうことがありました。

 

どうして泣いているの?と聞かれても

 

どうしてなのかはわかりません。

 

 

 

母に頼んで、時々夜の公園に行き

 

星空を見ながらぶらんこに乗りました。

 

それはとてもとても特別な気持ちでした。

 

高く高く漕いでいくと

 

月も星も近づいてきます。

 

でもまだ遠い…

 

もっともっと漕いでも

 

まだまだ遠い…

 

 

 

どうして私は向こうではなくこっちにいるんだろう?

 

まるで空からこぼれ落ちてしまったみたい…

 

母をおもりにしていなければ

 

向こうに心がさらわれていってしまいそう…

 

この気持ちはなあに?

 

だれに聞いてもわかりません。

 

 

 

 

ずっとあとになって

 

“郷愁”という言葉を知ったとき

 

「ああ、あの気持ちは“郷愁”だったんだ」

 

そう思いました。

 

 

いつだって帰りたかったのです。

 

決して消えることのなかった空の記憶。

 

 

こっちにいると、わたしは毛色のちがう猫。

 

それとも、もしかして“みにくいあひるのこ”?

 

見えるものを指さしてお話しても

 

だれも見えないというのです。

 

いったいわたしはだあれ?

 

 

 

じぶんを守るため

 

閉じてきたものがたくさんあることに

 

本当はとっくに気づいていたはずだけれど

 

気づかないようにしてきたのです。

 

だからいつも

 

どこか本当のじぶんと違ってしまう悲しさが

 

大きくなっていきました。

 

 

 

「さあ、もう時はとっくに来ているのですよ!」

 

いろんなかたちでメッセージが届いて

 

遅ればせながら閉じていた扉を開いたら

 

なつかしい空がひろがっていました。

 

とても自由な気持ち、

 

たのしい気持ちが湧いてきました。

 

 

 

そして“空の記憶”を持っている人たちが

 

わたしの周りにちゃんといてくれることを知りました。

 

ポツンと一粒でいたわたしは

 

本当は大きな繋がりのなかの一粒で

 

ひとりではなかったのです。

 

 

 

悲しかった“空の記憶”は

 

今はわたしのいのちの道しるべ。

 

わたしがわたしであるために必要だった記憶。

 

わたしはたった一粒、ちいさな一粒。

 

でもかけがえのない一粒。

 

だからもう迷わずにわたしはこの道をいきたいのです。

 

 

(2015年6月25日のブログより)

 

 

 

 

私の愛すべき大切な人たち、“空の記憶”を持つ人たち、孤独を感じている一粒さんたち、みんなと毛色が違うと感じている猫さんたち。

 

だいじょうぶ、だいじょうぶ。

 

「わたしはここにいます」とその光を放ってくださいね。

 

その光を見つけてくれる人がかならずいます。仲間がいます。

 

ここにもいますよ!ひっそりと。

 

 

 

ペリー公園近くの浜 この砂浜とフェリーの距離感がいつも不思議に感じられます

 

 

 

 

 

お読みくださりありがとうございます。

 

 

いつも心に希望がありますように💛