こんばんは。
今日も二冊の本を。
一冊目は、小川糸さんの『とわの庭』
読みかけの本を実家に忘れてきてしまい、積読本の中から手に取った一冊。
まるでリアリティがオブラートで包まれたような不思議な感覚で読みました。
目の見えない女の子“とわ”と母親とのいびつな蜜月の日々から
いびつさが限界に達したように壊れていった壮絶な日々、
そして光に向かって拡がっていく再生の日々……
そこに支えとして、幼き日から蒔かれた物語、犬、庭の木々や植物たち、周りの人たちの繋がりと愛があった。
そして、もう一度確かめて受け取り直した母親との愛と関係性。
それは、小川糸さんご自身がお母さまとの愛と関係を結び直したところから生まれた、書かずにはいられなかった心の内側の物語のようにも感じられました。
冒頭にある詩“いずみ”が、丸い形のリースの端っこと端っこを繋ぐ糸のようで印象的でした。
そしてもう一冊は、カラヴァッジョの「果物籠」の表紙が印象的な須賀敦子さんの『トリエステの坂道』
もう何度読んだことでしょうか。
なぜカラヴァッジョなのか、この絵なのかは、最後の「ふるえる手」にまできてやっとわかる。
ウンベルト・サバを求めてトリエステへと向かう表題の「トリエステの坂道」から始まる須賀敦子さんのイタリアの日々の回想は、どこか侘しくひっそりとしている。
丈が足らずに届かないような、補いようのないものと知りながら、それでも与えられた“今日”を生きる人たち。
なんとも喩えようのないいとおしさがじんわりと感じられて、何度も手に取り読み返してしまうのは、
“はてしなく広がるポー河の平野の、なんということはない小さな町”である“カラヴァッジョ”のようなところに生まれ生きる人たちにも、
(カラヴァッジョは画家が生まれ育った町の名前)
ひとりひとり掛け替えのない物語があり、そこに必ずや注がれる光があることを感じるからなのかもしれない。
“直線的な道”も“曲がりくねった道”もどちらもが必要で
それは光と影のように離れ離れにはできない。
“光ではなく影で絵を描くこと”を試みたカラヴァッジョのように、須賀敦子さんもまた、影を書くことで光を描いているように感じられる。
カシミヤの黒いセーターの袖を鍋つかみのようにして手をくるみ、ふるえる手でコーヒーを注いでくれたナタリア・ギンスブルック。
敷き皿にこぼれあふれたコーヒーのように、こぼれていくこともまた必然なのだと思うと、
自分に与えられた場所に注がれている光を感じてじんわりとうれしくなる。
お立ち寄りくださりありがとうございます。
どうぞよい週末をお過ごしくださいませ💛