こんにちは。

 

今月は「毎日更新」にチャレンジしています。

今日は27日目です。

 

 

 

 

 

「もし無人島にひとつだけ持っていけるとしたら…?」みたいな話、

 

大人になってもたまにはしますよね?笑 

 

私はしています(〃▽〃)

 

 

 

そして、もし本を一冊だけ持っていけるとしたら…?

 

これは難題なのですが、その候補のひとつに上がるのが「プラテーロとわたし」です。

 

 

 

 

 

 

スペインを代表する詩人のひとり、ファン・ラモン・ヒメーネスの散文詩集です。

 

ヒメネス(ヒメーネス、1881~1958)は、1956年にノーベル文学賞を受賞しています。

 

でも、日本では意外と知られていないような気がします。

 

 

 

 

「プラテーロ」は、ヒメネスが愛した驢馬(ロバ)の名前です。

 

 

「プラテーロはまだ小さいが、毛並みが濃くてなめらか。

 

外がわはとてもふんわりしているので、からだ全体が綿でできていて

 

中に骨がはいっていない、といわれそうなほど」(岩波文庫、長南 実訳)

 

 

月のような銀色の驢馬、“しろがね号”という感じのようです。

 

 

 

 

 

目次を眺めるだけで楽しいです。

 

ひとつひとつの題で私も詩が書きたくなります。

 

 

白い蝶、夕暮れの遊び、おののき、いちじく、向かいの家、引き返す、春、四月の牧歌、自由、恋びと、

 

パン、友情、裏庭の木、カナリアが逃げた、夏、摘み残しのぶどう、こだま、道、夜明け、パセリの冠、

 

カーニバル、ノスタルジア、木挽き台、ボール紙のプラテーロ…

 

 

 

詩人ヒメネスは愛するロバに語りかけます。

 

「ねえ、プラテーロ」 「この小川はね、プラテーロ」

 

「ほら、ごらんよプラテーロ」 「さあ行こうよ、プラテーロ」

 

 

プラテーロに、町のひとつひとつの情景、暮らし、思い出をていねいに説明したり、語りかけたりします。

 

この町は、ヒメネスの故郷、アンダルシア地方のモゲールという町です。

 

 

 

 

ヒメネスは、セビーリャ大学で法律を学び、その頃に詩と出会い、文学を志しマドリッドに行きます。

 

けれども、一番のよき理解者だった父親の急死に大きなショックを受け、精神に不調をきたし療養生活に入ります。

 

死の恐怖やノイローゼの症状に苦しんだようです。

 

最初は南フランスで、そのあとスペインに戻り、故郷のモゲールで療養を続けました。

 

 

「プラテーロとわたし」は、この故郷モゲールでの療養中に書かれた散文詩をまとめたものです。

 

詩人の傍らにはいつもプラテーロがいました。

 

 

 

季節は春、夏、秋、冬と移ろい、風景も草花も木々に成る実も季節ごとに移ろいます。

 

季節と同様、人生もしずかに移ろいます。

 

そんな町の風景や人びとの暮らしを見つめ、プラテーロに語りかけるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

この本を読んでいると素直な優しい気持ちになります。

 

「ねえ、プラテーロ」という言葉が、まるで私自身への呼びかけのように感じられて

 

お話を聞く小さな子どもになったような気持ちになります。

 

そして目の前にモゲールの田舎の風景が広がっていくように感じられるのです。

 

ヒメネスの詩はとても色彩ゆたかです。

 

 

 

「ねえ、プラテーロ」となんどもくり返し優しく呼びかけられて

 

138編のお話を、読み聞かせのように毎日少しずつ聞かせてもらったら

 

すっかり素直な気持ちになってしまいます。

 

 

 

けれども、138の散文詩は優しくのどかな世界だけをうたっているのではありません。

 

老いや病や死、人の心の弱さやおそれ、自然のきびしさにも触れられています。

 

美しく優しいだけではないところを、ちゃんと感じさせてくれるところが好きです。

 

 

 

牧歌的な雰囲気の中にうすく広がる哀しみのような、せつなさのようなもの。

 

それは、風景に溶け込んでいる、自然なもののようにも感じられます。

 

また、時に、アンダルシアのつよい陽光と濃い影のようなくっきりとした明暗も感じられます。

 

 

 

 

いつも一緒に過ごしていたプラテーロとヒメネスにも別れのときがきます。

 

それは、死という別れですが、秋から冬にかけて木の葉が落ちていくような自然な別れに感じられます

 

 

終わりの数編には、死と再生、魂の永遠性が感じられる詩が紡がれています。

 

「モゲールの空にいるプラテーロへ」という詩も素敵です。

 

 

そうとも。夕暮れに、静かなオレンジ畑をとおり、こうらい鶯とオレンジの花の中を、

 

わたしがゆっくりと物思いに沈みながら、きみのなきがらにやさしく歌をうたう松の木にちかづくとき、

 

 

黄花アイリスの前で立ちつくすわたしの姿を、ねえ、プラテーロ、永遠の薔薇の花園から、

 

しあわせなきみが見ていてくれることを、わたしは知っているよ。

 

土にかえったきみの胸から、黄花アイリスは芽生えたのだものね。(一部抜粋)

 

 

 

この本の副題には「アンダルシアのエレジー」とあります。哀歌なのですね。

 

ちいさなもの、弱いもの、はかないものに向けるまなざしは慈しみに満ちています。

 

療養中で弱さを感じていたヒメネスのまなざしなのでしょう。

 

そういう意味では、若くて元気な心より、少し弱さを知った心に響いてくるものなのかもしれません。

 

 

 

 

日本に住んでいるとあまり馴染みのないロバ。

 

頑固で愚鈍というようなあまりいい意味で使われないこともあるロバですが

 

ヒメネスはこう表現しています。

 

 

「きみはいっぱんにいわれているような意味での驢馬などではないし(中略)

 

きみは私が知っているような、そしてわたしが理解しているような意味での驢馬なのだよ」

 

 

大切な存在のものはみなそうなのだと思います。代わりなどいない唯一無二の存在。

 

それはまた、自分自身のことなのかもしれません。

 

 

プラテーロと過ごす故郷での日々の中で、ヒメネスの心も再生されていくようです。

 

プラテーロに向けて語り続けた言葉は、ヒメネス自身への言葉だったのかもしれません。

 

また、プラテーロはヒメネス自身、あるいは何か象徴的なもののようにも感じられます。

 


 

 

私は訳がよくて訳注も充実している岩波文庫版がいちばん好きです。

 

 

 

 

こちらは(↓)、ソプラノ歌手の波多野睦美さんが、28篇の詩に訳をつけ、

 

銅版画家の山本容子さんが描きおろした着色銅版画28枚が添えられている詩画集です。

 

 

 

 

 

 

 

何年か前、娘が「お母さんがすごく好きそうな本を見つけたよ」と買ってきてくれたものです。

 

ヒメネスも山本容子さんも波多野睦美さんも好きな私。

 

さすが娘、よくわかっています。

 

これもとても素敵な本です。波多野さんの訳もわかりやすくて素敵です。

 

 

(この本は、イタリアの作曲家テデスコの、ギターと朗読のための作品が元になっています)

 

長 新太さんが絵を描かれている本もあります。

 

 

 

 

こちらはわたしの部屋にいるロバさん。

どこの国だったか…蚤の市で見つけて連れて帰ってきました。

手のひらサイズですが、ずっしりと重いブロンズです。

よく耳やしっぽに指輪をかけているのですが

背中にスマホも乗せてくれる働き者です。

 

 

 

 

本の好みも少しずつ変わってきました。

 

ずっと好きな本も、読み方や感じ方が変化してきています。

 

先日書いたマリー・ローランサンの絵と同じような感じで

 

若い頃はそれほどしっくりこなかったこの「プラテーロとわたし」も、今はこうしてお気に入りに入ってきました。

 

 

 

そう…、私は今とても幸せなのだと思います。

 

いろいろなものが、とてもきめ細かく美しく感じられる。

 

カッコよくはすすんでこられなかったけれど

 

ここまで登ってきてこの景色がみられるようになったことがうれしくて…

 

だからこの本を紹介したくなったのかもしれないなあと思います。

 

 

長い話にお付き合いいただきありがとうございました。

 

 

どうぞすこやかな一日でありますように。