西の空に太陽が沈むと、茜色の夕焼けから宵闇がゆっくりと迫り、もうすぐ穂をつけようとする稲が植わった田んぼ(水田)の上を、蛍が一匹、二匹と舞い始める。やがて、あたりがすっかり暗くなり、夏の星座のさそり座をはじめ満天の星が煌めくと、おびただしい数の蛍が飛び交って点滅を繰り返すのだった。その光景の何と幻想的だったことか。

 子どもだったころ、縁側から庭先に飛び降り、数匹の蛍をすくうように手のひらにのっけると、逃げ出さないようそーっと寝床に引き返し、電球の灯を消して、吊るされた蚊帳にすばやくすべり込む。そして、蛍を静かに手のひらから放し、しばらく戯れると、昼間、蝶やトンボを追いかけて、灼熱の太陽の下、激しく駆け巡って、疲れきった体を癒すかのように、深い眠りにつくのだった。子どもの頃の夏の情景が、未だに瞼に焼き付いて離れない。

 話は変わるが、30年ほど前、マレーシアを旅したことがあった。クアラルンプールに着いてガイドブックを開いていると、ホタル観賞のオプショナルツアーが紹介されていた。さっそく申し込み、夕刻、迎えのマイクロバスに乗りこんで、ホテルを出発。一時間ぐらい走ると、郊外の川岸に設けられた桟橋に着いた。そこで指示されるままライフジャケットを着用すると、10人乗りぐらいの小舟に乗って、ホタル観賞に出かけたのだった。川は、夕刻にスコールのような大雨が降ったためか、かなり水かさが増している。船上は高温多湿で耐え難いものだったが、ホタルを見ることができるとあって、気持ちは高ぶっていた。

 すっかり日が落ち、暗闇の中をしばらく船に揺られると、土手のほうにマングローブのような木々が密集しているところがあり、そこにホタルが群がっていて、まるでクリスマスツリーに飾り付けられた点滅する電飾ランプのように、ホタルが光を放っていた。ホタルは、それぞれ種により異なるそうだが、この地のホタルは約3秒ごとに1回光り、オスのほうがメスよりずっと明るく、これはオスがメスを誘うためのサインだとか。

 ホタルの鑑賞スポットに30分ほどいて、その後、元の桟橋に引き返し、帰りのマイクロバスに乗ったが、バスに揺られながら振り返ってみると、何か物足りなさを感じるのだった。それは、マングローブにたかるホタルは、それはそれで感動的ではあったが、わがふるさとの夏の夜を飛び交う蛍が、強烈に脳裏に焼き付いていて、その風景とは異なっていたからではないかと思う。

 後で知ったが、マレーシアではホタル保護のため、現在も自治体が、環境保全とホタル観賞産業の育成に取り組んでいるという。日本も、マレーシアに劣らず取り組まれていることだろう。蛍にとっては、「人間が多くなって蛍の棲める環境が少なくなっても、また逆に過疎になって人が住まなくなり、人の手が入らなくなった環境(本来の自然)でも蛍には棲みにくい」(AI検索)ようで、この絶妙なバランスを必要としている。

 ところで、私は日本人。マングローブに群がるホタルよりも、日本の愛唱歌にもあるように「川端楊(柳)」に舞う蛍のほうが、限りなく素朴で、美しく、そして愛おしい。日本の夏、蛍が舞う風情を懐かしく思う。