例えば当方が住んでいるタイでは、普通にタイ式の仏暦です。今年は2565年を使っています。だから日本の様に元号が変わることで色々と大変なことにはなりません。西欧は当然西暦ですから2022年。日本は元号を使うのでカレンダー、役所、日常を含めて結構面倒ですから、皇紀2682年を使えばいいだけです。

面倒な議論は置いておき、日本は合理性に欠けることがあまりに多いと思います。物事の改善を得意とするはずの民族なのに、実態は大事なことは放置して過去を踏襲が多い。なぜ仏暦まで出して皇紀と比較したかは合理的じゃないですかね、この方が。西暦は当然便利だから使われているのが日本。西暦を普通に使うなら、そもそも自国でしょう。

 

歴史的根拠は?となったら、正直、そこはどうでもよいとしか思っていません。国民にとって便利であればそれでいいと。仏暦だって、釈迦の確実な生没年は分からないのですから。イエスも本当は何歳かもわかりませんし。

 

それでも少しだけ触れれば、そもそも元号を天皇と一致させるのは明治から。かなり新しいわけです。皇紀も明治5年の話ですから。だったら同じ明治による皇紀でも、元号を使用する根拠とさして変わらないわけです。

 

小生は神武天皇を信じておりません。ほとんど縄文時代の話です。当時のことがあまり分かっていないのに、天皇については明白って、それこそ無理があります。無理して歴代天皇を当てはめるから、例えば初代神武天皇も127歳(日本書紀)みたいになるわけです。景行天皇は147歳ですかね。

 

元号も大化の改新の645年からですから、それ以前の天皇には当然関係ないし、その後も令和で248個もあるから、時代や天皇とはほとんど関係が無いことが分かります。その時々で、なんとなく災害が多いから変えよう、そういうものでした。

 

そもそも元号の考え方そのものが古代中国じゃないですか。そして元号を使っているって、今では世界の中でも日本だけじゃなかったですかね。何でも古いものを使っていればいいとはまったく思いません。大事なところこそ合理的に考える必要があります。

 

しかし政治は夫婦同姓のままにせよと、いつまでカビの生えた発想から抜け出せないのでしょうか。元号と同じで、法律で夫婦同姓をいっているのって、もはや世界で日本だけじゃないですかね?どうしていつも大事なところで判断を間違えているのか。

 

自由とは、選択の自由があるわけです。日本が自由主義国家なら、なぜ選べない夫婦同姓なのですかね。夫婦になる人たちがどうしたいかの選択の自由があることこそ、自由主義じゃないですか。普段はアメリカ型の物いいをすることが多い政治家も、大事なことになると意味不明の古い考えで逃げ切ろうとするって、意味が分かりません。アメリカは残酷なまでに合理的な判断をしますが、そういう大きな意味があることは知らんふり。それが日本の歴史だ、伝統だ、文化だという意味不明の言い方で逃げるのです。

 

政治家って、夫婦別姓にしたら将来子供が困るだとかまで口出しする存在ではないですよ。それは各家庭で判断すればいいし、現実に世界が選択的別姓で標準。保守を名乗る政治家がいかに不気味かということです。

 

当方は前々から個人的に、以下の三つは止めるべきと思っています。

1,元号

2,夫婦同姓

3,戸籍

 

いずれにしましても、どうしてこういうことは誰のためかで考えないのか?です。皇紀2682年とし、西暦や仏暦と同じでただ増えるだけなら混乱は無いのです。

 

政界と経済界もどうしてこういう動きをしないのかですが、もう彼らは国民のためではないから仕方がないのでしょうかね。

 

前回の記事では外国人労働者からの搾取について触れました。外国人労働者から搾取する中小企業があり、表向きの法律はともかく苦しむ外国人がいるというのは国家の問題です。国際問題と政治は認識しなければいけないはずなんですがね。そうでなければ中国の人権問題を言えませんから。

 

商道徳という言葉も死語ですかね。外国人労働者から搾取するのも商道徳が死語だからできるのでしょうね。個人の誇り、企業としての誇りは無いのでは。中小企業に限らず、大企業ほど利益至上主義とも思います。どこも非正規社員だらけにするでしょうし、値段はそのままで品物の量を減らす、質を落とす、耐久性を落とすなんてことをやり、どんどんと金を使え、消費させることこそ正しいとなってしまったのが多くの企業じゃないのですかね。

 

ある程度の年齢の人たちなら、実感として分かっていることが。それは昔の品物は壊れにくかったということ。昭和の物品って、耐久性が高かったじゃないですか。エネルギー効率は当然悪かったのは仕方がありません。しかし何でも長く使えた。テレビなんかほんと漫画みたいに、叩けば映ったのは子供ながら覚えています。今の品物はすぐ壊れるし、部品も〇年で供給停止で、部品の一部が壊れてもその物を取り換えるのが安い。つまり大事に使うより買い換えろですよね。だから技術者も不要になってくる。メインテナンスより開発。

 

これをとっても、消費者のためにという発想ではなく、儲けが優先されていることは明白ですよ。世の中の大矛盾は、物を大事に使うほど不利になるということです。

 

アジアを旅していると、もはや骨董品といえるような古い日本の車が今でも走っています。つまり本当は、まだまだ使えるのですよ。「40万キロ走行しているけど、さすが日本製だね」なんて、アジアの田舎で聞くことがあるのです。昔の日本は確かに、いい仕事をしていたのです。ところが今ではさっさと交換しろ、物を大切に長く使うのではなく、売り上げに繋がる大量消費こそ経済だになってしまっています。

 

それと、

 

物事なんでも、騙す方が悪いじゃないですか。しかし、騙された方がバカだなんて風潮になってやしませんか?あるいはどうしようもない状態に追い込んで、選択の余地をなくする。買わないと困るのはあんただろ?別に嫌ならいいよ、そういう国になってしまったと思っています。マスコミもおごっているところは、嫌なら見なきゃいいなんて、考えてるところが多いように思えます。

 

嘘はついてない、巧妙に表現を変えて誤解されるようにしている商売のやり方そのものが、もはや商道徳は崩壊している証拠です。そんな国に未来はあってはいけないのかも知れませんがね。

 

経済的に異様なのがこの国だと思っています。正直者が馬鹿を見る国になっているとしか思えません。屁理屈を並べてでも、儲ければいい、そんな会社だらけの国に未来があってはいけないと思います。

 

前回特攻隊についても触れていますが、彼らは将来こんな国になるために、戦地に向かったのか、です。歴史を見つめるとは、当時の人々の生き方を見つめ、今に生かすことであるはずです。単に批判したり貶めたり、或いは美化することではなく、今に生かし、未来を作る。

 

便利な日常生活をしていると忘れがちな人の重み。それを思い出すべく、そして自戒の意味を込めて、当方は戦地や歴史的な場所に行くのです。

 

生きる死ぬという時間を過ごした人のことを思えば、目先の小さな価値観や金銭の多寡で自分を下げていないか、何が大切かを見失っていないか、ということのためにも現地に行きます。

 

読書でも構いませんが、時に思い出さないと、やがて便利さに埋没し、その時間が長いほど、しょうもない時間を過ごしていることになってしまう。下手をすれば金稼ぎのために生きたなんて、恐らく一番存在理由を問いたくなる人生ではと感じます。

 

人は失ってから、その大事さに気が付くもの。でも、ある程度の年齢になったらそれではいけないと思うんです。それを「大人」と呼ぶのでは。


物品でも健康でも、「今が良ければ」で先を考えないとやがて困る。しかしながらそれとは別にもはや妄想にまで近い極端な不安感、将来の不安だらけだから、世界でも異様なだけ「医療、生命保険」に加入する。その前に健康のために、食生活をどうするかだと思うんですが。多くの日本人って、価値観がおかしくなっているように見えてなりません。

 

個人の生き方としてはお金で締めくくります。

 

生活のために金を稼ぐというのと、自分の人生で確かな生き方を継続するために金を稼ぐというのでは、価値がまるで違います。

 

しかし、あーしたい、こーしたいと願望は並べるけど「行動はしない」という、結局生活のために金を稼ぐ人生になってやしませんかと問いたいですね。