中国人は竹島を、韓国人は尖閣をどう見る? 意外と多い「日本支持」
収まる気配のない尖閣諸島、竹島をめぐる騒動。視点を変え、中国人は竹島を、韓国人は尖閣をどう見ているのか、それぞれのインターネットの書き込みから探ってみた。日本敵視で中韓は歩調を合わせていると思われがちだが、中国で「竹島は日本の領土」、韓国で「尖閣は日本のもの」という声が意外と目につく。そこからは、中韓の微妙な関係と互いに抱く本音も浮かんでくる。抜粋
産経ニュース
これは面白い記事であった。ネットの世界というのはまさにネットの世界、表に見える部分では分からないことがある。狂った中韓というイメージだけしか無い一般的な報道ということにもなるのだろう。
ただ、ネットの動きがどこまで影響を与えることが出来るだろうかという点がある。おそらくは匿名性も高いことで書かれているのであろうが、表だって日本支持を言えないのだから、見える部分では悪口を言っている人たちと言う可能性もあると考える。
日本では中韓のように、相手国を徹底して批判しておかなければ立場が無いという異常な状態にはない。これは中韓の異常な政治と教育の結果である。逆に日本では「中韓を愛しています」と露骨な態度をしている連中が大手を振って歩いているくらいである。状況は大きく違う。
良い意味で「冷静に」という言葉を使えば、中韓にもちゃんと分かっている連中はいるというくらいは考えて良い。だが日本人の多くが使う「冷静に」は単なる事なかれ主義か、中韓を愛していますという意味になってしまうことも多く、そこは明確に違うのだと、物事をちゃんと使い分けて考える必要はあろう。
だが、そこに日本の問題もある。「冷静に」や「バランス」で大幅にぶれるべきではないのだが、ところがこれも極端になるケースが多い。
物事のパーフェクトはほぼ、あり得ない。人間がやる以上、あり得ない。だから少しの問題で全てダメ、であるとか、部分でもって全体を見る傾向があるのはある種、原理主義となっていまう。
ベストの選択など何がベストか分からない。物事は総合的に考えてベターの発想が必要である。政治も清濁併せ持つと使われることがあるが、まったくの清き人間など存在しないはずである。
あなたがたの言うことは正しい。確かにその女は罪を犯した。だが、あなたがたの中に罪を犯したことが無い人間がいるのだろうか。この女に石を打てるのは罪を犯したことの無い人間だけであるとは、有名なマグダナのマリアに石を投げつける人たちへのイエス・キリストの言葉であるが、政治の世界にも使える要素があるように思える。
中韓の中にもまともな考えを持っている人がいるという当たり前と言えば当たり前のことが、忘れられてはいけない。同時に、ネットで日本にとっては正しいことでも、中韓では売国奴扱いされているのかも知れない。
日本人は同列にならないよう、つまり単に売国奴としてのレッテルで切り捨てないよう、きっちりとした検証、態度、筋道を大事にし、感情論に走らない姿が必要だと考える。ところが、普段は割と冷静で論理思考なはずの人が、ある分野や内容になると異常に感情的になることをネットで何度も見てきたが、それでは日本人の良さを忘れていると思えてならない。
震災対応でも日本人の態度、献身、冷静さが賞賛されたのは事実。与えられたことへのお返しと他国の惨事への救援にいち早く出向いたことも、人々の心に残り、やがては日本人とは何かを知ってもらえう一つのあり方ではあろう。
どこの国にもまともな人たちはいる。国の成り立ち、政治、教育その他で表に出せないだけという人が。何でもありの自由な日本では分からないことがある。だからこそそれも踏また上で、毅然とするところ、堂々と論陣を張るところ、通すべきは通すという態度が必要だと考える。
最後に石原都知事が、国の出方によっては尖閣購入の件を国に任せてもよいという趣旨の発言をしている。当ブログには石原都知事を信用するなと言う人も来てくれているが、良い方に向くために何をするかでこの動きをどう見るか。当ブログでも過去に石原都知事の動きを評価したこと、批判したことの両方である。最近話題の橋下市長についても知事時代から、評価と批判の両方を行っている。
尖閣では筋道論で国が対応して当たり前であるが、なぜに多くの国民が石原都知事の動きに賛同したのか。その肝心の国が長年やらなかったからだ。
もしかすると石原都知事は国がやらなかったから自分が動いたが、結果として国が漁民の安全を含めて対応するのであれば国がやるのが筋であるという本来の筋道論に戻したとするのなら、それはそれで間違いでもあるまい。ただ、感情論としては納得出来まい。石原都知事の動きに賛同して寄付をしたのだから。
それでも大局として、寄付をした人たちの感情論ではなく国防である。
かくも政治は何が善で何が悪かでさえ、状況や立場で変わって行ってしまうものである。感情論や原理主義的に物事を見ていては、結果として小さな動きしか出来なくなる可能性もあるのが、政治であろう。