有名人になりたいとかすごい人になりたいという欲求は誰しもが一度は抱くはずだ。僕もそうだ。大学生になった今でもそう思う。ところがどっこい、現実は甘くない。僕には何の才能もない。小説を書く才能も、映像を作る才能も、人と上手く付き合う才能もない。体型もやせ型で肉体労働をできるほどの体力もない、頭も悪い。平凡という言葉すら僕には似合わない。でも、有名人になりたという欲求だけは胸の裡から消えない。

 

 

どうしたものか。高校のときは自分に才能がないとは思っていなかった。でも、大学に入ると自分が小さな存在であることに気づかされる。頭の良いやつ、友達の多い奴、映像や小説を作るセンスがあるやつ。周りをみると、うんざりしてしまうほどすごい奴がたくさんいる。人から「お前は馬鹿」とか言われることもあるし、隣りに座っている生徒は褒められているのに僕は褒められないということもある。正直、現実を見始めたらキリがないし、辛い。逃げたくなる。

 

いつの日か将来に絶望し、希望や努力をすることすら忘れてしまうのではないかと考えて怖くなる。「まぁ、普通の人生でいいか」と結論付け、これまでやってきた努力が一気に無駄になってしまう瞬間が怖い。

 

 

僕は何者なんだろう。答えは何者でもない。でも、よく考えるとまだ人生ははじまったばかり。少なくともあと60年は生きることができる。若くして才能がある人をみると、とてつもない焦燥感に駆られる。運転をしているときに、信号が変わったのに気づかなくて、後ろの車からクラクションを鳴らされたときのような気分になる。でも、最近になって僕は考えるようになった。若くなくても、活躍している人はたくさんいる。どんな人だって、必ず挫折はしている。

高校のとき、同じ学校に数学ができるやつがいた。京都大学に現役で受かってしまうくらいに頭の良い奴。当時の僕にはそいつが神様のように見えた。まるで、自分とは違う生き物をであるかのようにみえた。でも、よくよく話を聞いてみると、そいつは小学校のときから数学をやっていた。ゲームをしたり友達と遊ぶこともあまりない。休日も部屋に籠って数学をやるようなやつだった。結局のところ、そいつと僕の差は脳ミソの作りだとか頭の良さとかではなかった。単純な場数の違いでしかなかった。

 

 何が言いたいのか、さっさと言おう。才能は努力の数をあらわしたものでしかない。大学にいるすごい奴らも、話を聞くと僕より本を読んでいたり、映画を観ていたり、日々、いろんなことを考えていたりする。つまり、僕自身も努力をしていればいつかはすごい奴らの仲間になれるということだと思う。もちろん、言うは易し行うは難しであるし、そもそも、成功していないのなら自分のやっている日々の積み重ねを努力ということはできない。もっというと頑張るのは当たり前、努力して眠れない日々を送るのも当たり前、そうでないと話にならない。だけど、どんなにすごいやつも生まれたときはちっぽけな子供だったんだと思うと、ちょっと元気が出る。そんなわずかな希望にすがりながら今日もがんばる。