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Fight With Dreamアーカイヴ

このページは過去に連載していた事実に基づく小説のバックナンバーです

首を痛めたミラノは治療も兼ねて1カ月間、日本へ戻ることにした。思えば、もう1年以上も離れたままだった。最初はあったホームシックも今は感じなくなったが、やはり久々に帰れるのは嬉しい。

 

といっても会社をやめた時点でアパートは引き払っており、今さら別れた真実のもとへいくわけにはいかない。実家の盛岡も、デビュー前だけに顔を合わせる気にはなれなかった。

 

神戸の道場が一番いいのだろうが、何かと東京にいる方が動きやすいと思い校長に相談したところ「楽太郎師匠のところにいけ。俺が連絡を入れておいてやる」と言われた。

 

楽太郎師匠とは、落語家の三遊亭楽太郎(現・六代目円楽)のこと。天龍源一郎と中学時代の同級生だった関係で全日本プロレス時代から応援し、関係者の間で知られるほどの熱心なファンだった。

 

ウルティモ・ドラゴンが天龍の団体に参画したことで知り合った以後は、闘龍門設立時から協力を惜しまず、生徒たちを自宅に住み込ませてまでして面倒を見ていたのだ。落語に疎いミラノでもテレビの人気番組『笑点』で軽妙なトークを展開する姿は見ていた。どれほどの人物なのかぐらいはわかる。

 

「校長…僕のようなデビューして間もないペーペーがそんな方のところにいったらご迷惑では…」

「いいんだよ! 俺と師匠の仲なんだから。それより、師匠のところで少しは勉強させてもらえ」

 

言われるがまま、ミラノは成田空港へ着くと楽太郎師匠のもとへ直行。「おー、よく来たな。校長から話は聞いているよ。確かに男前だなあ」と、有名人とは思えぬ気さくさで迎えてくれた。

 

とはいえ、やはりたたずまいからして違うとミラノは思った。気品、風格といったものがさりげない仕草や言葉遣いからも伝わってくる。イタリア人に見られるためにはどんな立ち振る舞いをすればいいかとずっと考えてきたから、そういうところへ敏感になるのだろう。

 

食と住を提供してもらうだけでもありがたいのに、師匠はミラノの「こういうプロレスラーになりたいんです」という話に耳を傾け、人前で表現することに関するアドバイスも聞かせてくれた。メキシコでは同世代ばかりであり、校長はほとんどいなかったらこういう話ができるのはとても新鮮だった。

 

楽太郎師匠のところから病院へ通い続けるうちに、首の痛みも消えた。このままずっとお世話になりたいと思ったが、12月のヤングドラゴン杯まで1カ月を切っている。

 

「師匠、お世話になりました。師匠の教えを胸にまたメキシコで頑張ります。ありがとうございました」

「おう、おまえさんが立派なプロレスラーになって日本に帰ってくるのを楽しみにしているよ。これで俺も、また闘龍門を観戦しにいく楽しみが増えたってもんだ、ハッハッハ」

 

飛行機の中で、ミラノは師匠に教わった物の見方や発想をすぐに試したいという気持ちでいっぱいだった。あれほど性に合わぬメキシコに、早く着かないかと思っている自分が笑えた。

 

「……ミラノさん、日本でなんかあったんですか?」

「えっ、何もないよ。なんで?」

「いや…なんとなく落ち着いたというか、自信みたいなものが感じられるんで」

「そう?」

 

道場に戻ると、同僚たちが口々にそう言ってきた。確かに、どうしても拭えずにいたおどおどする感覚は自分の中から消えていた。失恋、辛い練習、自分だけがやらされる特訓、ナウカルパンの街、思い通りにいかぬ入場シーンや試合…ネガティヴなことばかりを背負い、押し潰されそうになっていたのが、それこそ肩の荷を下ろしたかのごとく楽になったのだ。

 

楽太郎師匠のもとにいたことは、閉塞するミラノの精神をいい方向へと解放させた。しばらく練習を休んでいても、ヤングドラゴン杯に向けての不安はまったくなく、むしろイケるとの思いを確固たるものにできた

 

ミラノがメキシコを留守にしている間、自分たちで描いていく闘龍門のコンセプトがより具体的に定められていた。闘龍門2000プロジェクトは“T2P”の名称で呼ばれ、オリジナルのロゴマークもデザイン。基本スタイルは「ルチャリブレ・クラシカ」と名づけられた。

 

華やかな飛び技とは違ったルチャの魅力を体現するべく、ミラノらはホルヘ・リベラ先生にジャベを教わってきた。それをプロジェクト最大のカラーとして発揮するための舞台が、いよいよ訪れたのだ。

 

第4回ヤングドラゴン杯は12月8日にトラルネパントラ、翌9日にナウカルパンで2日間に分けて開催された。参加選手8名のトーナメント形式。ミラノと同期は軍人キャラの大柳二等兵のみ。1期下からは伊藤と辻本が入り、あとは斎藤了、森隆行、岩佐卓典、土井成樹改めセカンド土井と先輩陣がエントリーされた。

 

キャリア的には4期生の斎藤が一番上で、すでに本隊でも活躍しており当然優勝候補筆頭にあげられていた。前回、決勝戦まで進出したことから本人も心中に期すものがあった。

 

ミラノ1回戦の相手は伊藤。のちの大鷲透である。他の生徒たちがジャベを習わされる中、大相撲出身という個性を生かし校長から「おまえはとにかく食って太れ」と命じられた男だ。

 

つまり、パワーを武器としておりミラノとは対照的な持ち味となる。自分のカラーを発揮するには、どちらかというと同じスタイルの方がやりやすい。いきなりの難問だ。

 

初日の観衆は、わずか116人。エストレージャではなく、日本の若い無名選手が主役の興行となるとこれが現実だった。

 

しかしミラノは観客数などまったく気にすることなく、自分の中にあるプロレスを体現できる喜びで心を満たしながら、透明犬ミケーレとともにゲートを歩んでいった。過去3度の試合では感じられなかった、入場とともに場内の空気が変わる瞬間の快感が、肌を刺激した。

デビューしてからのミラノは、日々の練習の成果を3カ月に一度の自主興行で披露しつつ少しずつ地力をあげ、キャラクターを磨いていった。3度目は9月、そして4度目となる12月年内最後の大会では恒例の「ヤングドラゴン杯」が待っている。

 

ヤングドラゴン杯とは、ウルティモ・ドラゴンジム生の若手によるトーナメントで、過去にマグナムTOKYO、堀口元気、神田裕之が優勝を飾り今回が4度目の開催となる。文字通り、登竜門的な大会として日本のマスコミや闘龍門ファンにも認知されているものだ。

 

9月の自主興行にて7期生たちが続々とデビュー。彼らもトーナメントにエントリーされるだろう。まだまだスタートしたばかりのミラノが、さっそく追われる立場になっていた。

 

のちにイタリアンコネクションの盟友となる吉野正人、大相撲若松部屋からメキシコへやってきた変わりダネ・伊藤透、京都の高校でレスリングをやっていた辻本恭史。いずれも日本を発つ前に少しだけ神戸の道場でいっしょだっただけに、あまり先輩後輩という感覚はなく同じ夢を見る仲間だったが、優勝すれば確実に新プロジェクトの中心的ポジションを任される。

 

「おまえをエースにして新しいことをやっていく」と言われてはいたが、リングネームの件を思えば校長の言葉がどこまで本気なのか怪しいもの。ましてや、いくらその座を約束されていても、実力が伴わなければやっていけぬことぐらいミラノにもわかっている。

 

だから、気を抜くことなく練習を積んでいったのだが…9月の自主興行を終えた数日後、ドラゴンとともに技の研究をしている時にアクシデントは起きた。

 

「おまえ、コーナー2段目からシューティングスター・プレスできないか?」

「シューティングスター…ですか?」

「ほら、コーナー2段目からムーンサルト・プレスを出す選手はいるだろ。でもシューティングスターはいないじゃん。おまえの体形で出したらカッコよく映ると思うんだ」

「普通にコーナー最上段からやれば…」

「だから、それだったらほかにもいるだろ! おまえは何を出すにもオリジナルじゃなきゃ意味がないんだよ。やってみろ。俺が補助するから」

 

シューティングスター・プレスとは獣神サンダー・ライガーが開発し、ハヤブサがSUPER J-CUPにてぶっつけ本番で出したあの技。コーナー最上段からジャンプしたあと空中でバク宙し、着地するさいはうつ伏せの状態で寝ている相手をプレスする。

 

つまり胸を突き出すように反ったまま落下するからタイミングがズレたり、あるいはかわされたりしたら胸部が圧迫されるようになる危険性が高い。コーナー最上段からなら落下するまでに距離があってうまくプレスできるが、2段目となると短い分回り切らぬまま着地してしまうリスクがある。

 

難易度が高いからこそ、決まれば観客を沸かせることができる。ドラゴンの狙いはミラノにも理解できた。それにしても…。

 

「いきなりやれっていっても無理なことぐらいはわかっている。とにかく俺が回してやるから、まずは感覚をつかんでみろ」

 

そう言うと、ドラゴンは高跳び用のマットをキャンバスに敷きミラノのサイドへ立った。通常のシューティングスター・プレスでさえ練習でもやったことがなかったため、決めた時のイメージが浮かばない。

 

それでもミラノはおもむろにコーナー2段目のターンバックルへ足をかけ、それをまたぐように両足をセカンドロープに置き、リング内の方を向いた。この位置からバク宙するべく後ろへ反ったら、最上段のターンバックルへ後頭部をぶつけてしまう感覚となった。

 

何よりも、やはり落下距離が足りない。ミラノは正直に「校長、無理です!」と言ったが「俺が支えるからおまえはゆっくり確認するつもりで回ってみろ」と言われた。

 

「わかりました。じゃあ、せーの!で飛ぶんでお願いします」

 

本当にひとりで宙を舞うわけではないから大丈夫だろう。そう自分に言い聞かせ、フーッと深く息を吐いたあとにゆっくりと吸って「せーの!」と声をあげながらターンバックルを蹴った。

 

頭の中では、自分の背中を校長の手が支えている絵を想定した。ところが、その感覚がない。あれ?と思った次の瞬間、予期せぬ衝撃が全身を包み込んだ。

 

いったい自分の身に何が起こったのか? 数秒後にも、数時間経ったようにも感じられる中、ドラゴンの「照井! 照井!」という自分を呼ぶ声が次第に聞こえてきた。

 

我に返るや、首に鈍痛が走った。それもそのはず、コーナーからジャンプしたミラノは回り切らずに真っ逆さまとなって頭から高跳び用マットへと突き刺さったのだ。

 

ミラノが合図を出した瞬間、ドラゴンの気がまだ向いておらず、支える態勢になっていなかった。それでまるで補助がない状態で落下した。

 

「校長は『天井を怖がっていたな』とかいって人のせいですよ。あれが柔らかい高跳び用マットの上だったからよかったものの、リングだったら今頃は車イスですよね」

 

苦笑まじりに振り返るミラノの話を聞き、安藤はハヤブサの境遇を連想した。同じプロレスをやりながら、シチュエーションやタイミングの違いによって車イス生活を余儀なくされた者と、それを免れた者…その2人の連載を自分が書いていることに、重みを感じた。

1試合経験しているとはいえ、照井にとっては2戦目の方が実質的なデビュー戦といえた。なぜなら、対戦相手がメキシカンに決まったからだ。

 

神田との試合は先輩相手のエキシビションマッチのようなものだった。攻撃しながらも、試合として成立するよう引っ張ってくれたのは照井本人もよくわかっていた。

 

だが、相手が メキシコ人とあれば日本のグリーンボーイに対しいいところを引き出してやろうというつもりなどない。少しでも自分をアピールし、ノシ上がろうとする。照井の相手は、ソニックというリングネームのマスクマン。予備知識はゼロに等しい。

 

普通ならば不安になるところだが、照井は「神田さんと比べたら先輩じゃないだけやり易い」と解釈した。けったいなリングネームを名乗らずに済んだことで、物事をポジティヴに考えられるようになったのだ。

 

プレッシャーに押し潰されそうになった1カ月前とは打って変わり、照井は当日になっても平常心でいられた。他の選手たちが午前中から興行の準備のため、道場とアレナ・ナウカルパンの間を何往復もしているというのに、ひとり昼寝に興じるほどだった。

 

「おいコラ! 起きろよ」

 

そう怒鳴ったのは、誰あろうウルティモ校長。照井は「すいません、つい…」と答えつつ眠気まなこをさすった。

 

「おまえさあ、試合の日ぐらいもうちょっと緊張しろよ。そんなんで大丈夫なのかよ」

「神田さんとやることを思えば、今日の方が緊張しないんです」

 

ドラゴンが呆れる中、支度をした照井は道場の隣にある会場へ。ショーのスタートが近づいてきても、やはり緊張はしない。さすがに気持ちを入れ替えなければと思い立ち、出番30分ほど前から目を閉じて、精神統一を図った。そこへ校長が通りかかる。

 

「あ、校長。スペイン語で“俺はイタリア人だ”ってなんて言うんですか?」

「“YO SOY ITALIANO”だけど…それがどうした?」

「今日の試合では、勝ち負けよりもいかに自分がイタリア人かということをメキシコの人たちにアピールしようと思いまして」

「バカ野郎! 確かに俺はイタリア人らしくしろと言ったが、勝負の方が大事に決まっているだろ!! まったく何を考えてんだ、おまえは」

 

勝負が大事なのはわかっているが、客観的に見てこれが2試合目の自分が初めてルチャの動きをする相手とやって勝てるはずなどない。ならば、キャラクターを見せつけて沸かせた方がいい…そう思った。

 

そうして迎えたデビュー2戦目。スペイン語特有の巻き舌なイントネーションで「ミラノコレクション・エーティー!」とコールされた。今日から自分は照井章仁ではないのだ。

 

前回と比べたら、モデルウォークもできた方だった。序盤は基本的なタックルからグラウンドに移行し、腕の取り合いを見せた。この試合は、道場で身につけたジャベを使っていいとドラゴンから言われていた。

 

関節技だけでなく、ロープワークからの動きのある技もトライしてみた。終盤、勝機が訪れるとミラノはステップオーバー・トーホールド・ウィズ・フェラガモでソニックを固める。その時だ。

 

YO SOY ITALIANO!」

 

校長に教わった通りの言葉を叫ぶと、明らかに客席の空気が一変。ブーイングとともに、スペイン語でまくしたてた罵声が飛び交う。そのリアクションを見て、さらにミラノは続けた。

 

ARRIBA ITALIA!!

 

メキシコにおいて他の国をアピールなどしたら、例外なく怒りを買う。あとでスペイン語のわかる先輩に確認したところ、ミラノの「俺はイタリア人だ!」に対し返ってきた言葉は「それがどうした!」「どっからどう見たって日本人じゃねえか!!」という、ごもっともな突っ込みだった。

 

そこへさらに「イタリア万歳!」とやったら火に油を注ぐようなもの。並みの新人ならここで雰囲気に飲まれてしまうところだが、ミラノは違った。エキサイトする観客に対し「うるせー、バカ!」と怒鳴り返した。

 

イタリア人だと主張した直後の日本語だったのはともかく、ミラノは一瞬の機転で自分がルード(悪玉)になったことを把握し、悪態をついた。結果は敗れたものの、バックステージに戻るとドラゴンが目を丸くしながら待ち構えて言った。

 

「おまえ、度胸あるなあ。あれぐらい堂々と悪態をつくことができたら合格だ。だが、やっぱりもっとルチャの技術をつけないとな。それは忘れるな」

 

観客をエキサイトさせたことで自身も興奮し、一種のエクスタシーを味わったミラノだが、冷静に振り返るとルチャ独特の間合いにまるでついていけなかった。強引に自分のできることを並べているような粗さに気づいた時、快感は潮が引くかのように失せてしまった。

 

技に関しては道場で体得することができても、それを使うタイミングや出しやすい相手との間合い、かけるポジションなどは実戦でしか培えない。技術とキャラクターを同時進行で磨き、確立させる難しさ…ふとミラノは思った。

 

「学校でやっていたプロレスごっことは、こういうところが違うんだな。技を出すだけならマネでもできるけど、プロはそういうもんじゃないんだ」

 

照井章仁からミラノコレクションA.T.に生まれ変わったその試合は、実り多きものとなった。

ドラゴンが“犬”とされるものを渡して校長室に戻ったあとも、しばらくは全員言葉が出ずに顔を見合わせていた。照井は、針金だけで作ったそれの飼い主に任命されたことになる。

 

そのうち誰かが「いやー、照井さんはお笑いキャラまっしぐらですねー」と言い放つと、ようやくドッと笑いが起きた。リングネームといい、変てこなアイテムといいどう見ても当初校長に言われたエース路線とはほど遠いものだ。

 

口に出すといやらしいので言わなかったが、それでも照井は頭の中で「そんなことはない。俺はエース候補なんだから」と自分に言い聞かせた。半分は、現実を受け入れられずに無理やりそう思い込ませているようなものだった。

 

「おい照井、次の試合からそれを連れて入場しろよ!」

 

校長室から追い打ちのように響いた言葉が、またもや照井をエースの三文字から遠ざけた。こんな意味不明のものを持ちながら入場したら、それこそお笑いにしかならない。

 

翌日から、照井の特別練習にはその犬…ミケーレが加わった。ドラゴンに言われて、ごていねいに名前まであることを知った。

 

「日本でポピュラーな犬の名前っていったらタロウだろ? アメリカはマイケル、フランスではミッシェルなんだよ。それがスペイン語ではミケーレって発音するんだ」

 

照井は何度も何度もミケーレを連れながらリング上を歩かされた。そのたびにドラゴンの「ダメ!」の声が響く。

 

「おまえさ、犬を連れているっていうことは引っ張られないとおかしいだろ。ただ持って歩いたって、そんなの犬じゃねえよ。犬の散歩、したことないのか?」

 

これは何に関しても言えることなのだが、ウルティモ・ドラゴンは発想が飛びまくっているにもかかわらず言葉で説明するよりも先にやらせようとする。だから、理解するまで時間を要す。

 

いきなり針金を持ってこられて犬だミケーレだと言われても、それをどうしたらいいのかわからない。だが30分ほどリング上を歩かされるうちに、ようやく散歩しているように見えてきた。

 

なんでもこの透明犬は、ドラゴンが家族旅行でディズニーランドへいった時に見つけてきたらしい。現物は単に針金を巻いたものが紐のように伸び、その先が首輪のようになっているだけの造りだった。それを買ってくると、マスク職人のところへ持っていって「うまく赤と白と緑にしてくれ」と、わざわざイタリアカラーにアレンジを施した。

 

確かに、針金だと扱い方によっては勝手に動いているかのごとく見える。さっそくデビュー2戦目から使うことになった。

 

前回のように緊張さえしなければ、モデルらしく歩ける。透明犬を連れてやると、不思議とよりそれっぽく見えた。同僚たちも「本物のモデルみたいだよ!」と、どこまで本気だかわからないが絶賛した。

 

大会まで2週間を切った頃、照井は興行ポスターを街に貼ってくるよう命じられた。最初はまったく気にも留めていなかったのだが、よくよく見ると自分も載っている。

 

「あー、ポスターに載るんだ。嬉しいな」

 

自分の顔が印刷物にあるのは、それまで見る側だっただけに不思議な感覚がした。しばらく眺めていると、照井はハッとなった。

 

「ポスターに載っているということは、名前も載っているから…チンポリオ・フェラチーノって、どんなスペルなんだ?」

 

そんな思いで自分の写真の横に綴られたリングネームへ目をやると、まるで別の名前が入っていた。

 

MILANO COLLECTIONA.T.

 

初めて見るリングネームだった。もしかすると、ほかの誰かにつけられた名前で写真が間違っているのではと思ったが、イタリアキャラは自分しかいない。ポスター貼りを終えてジムに戻った照井は、校長室へ聞きにいった。

 

「校長、ミラノコレクションA.T.というのは…」

「ああ、次からはそのリングネームで出ろ」

「ええっ、チンポリオは…」

「バカヤロー、そんな名前で出られるわけがないだろ!」

 

照井は、イッキに脱力した。卑猥で恥ずかしく、あまりにも下ネタなリングネームはウルティモ・ドラゴン流のドッキリだったのだ。

 

「これって週プロの連載で書いて、企業のお偉いさんの前で言って、デビュー2戦目まで引っ張るようなネタか!?

 

親にも言えないようなリングネームを名乗らずに済んだことより、こんな子供っぽいいたずらを闘龍門で一番偉い人がやっている事実の方に、照井は力が抜けた。それらのすべてを威厳さえ感じさせる真顔でやるから、何もかもを本気にせざるを得ないのだ。

 

A.T.っていうのはアキヒト・テルイの略だけど、おまえはイタリア人なんだからアキヒト・テルイーノを名乗れよ」

 

通常、プロレスラーのリングネームはファーストネームとラストネームに分けられるものがほとんど。それに対しミラノコレクションA.T.はその切れ目がないから長い名前だなというのが第一印象で、どちらかというと照井的にはピンとはこなかった。

 

それでも名前を見ただけでどんなキャラクターか伝わるから、これでいいと思った。チンポリオをつけられることを考えたら、不満などは言えまい。こうして照井は、ウルティモ・ドラゴンのプロデュースでイタリア人に生まれ変わっていった。

照井のデビュー戦は、その日の第2試合として組まれた。同期の村上拓也が先輩の堀口元気に敗れてバックステージへ戻ってくる。「お疲れ」ぐらいの言葉を投げかけたかったのに、自分が緊張していてノドから声が出なかった。

 

「ボンジョルノ!」

 

自らセレクトした入場テーマ曲のイントロに入った声が聞こえると、スペイン語によるリングアナウンスがそれに続く。照井には、その言葉が「ほら、早く入場してこいよ!」と催促しているように思えた。

 

とにかく、校長の目が光っているのだから教わった通りモデルの歩き方をしなければ…自分では気をつけたつもりだったが肩は横に揺れ、足もまるでギコチがない。なんとかリングインしたあとに“すかした”ポーズを決めてそれっぽく見せたが、観客はまったくのノーリアクション。

 

それでヘコんでいられるようなシチュエーションでは当然ながら、ない。目の前には神田が臨戦態勢でこちらを凝視している。イタリア人だといって何かチャラいことをやると、それが怒りを買っているようにさえ思えてきた。

 

開始のゴングが鳴らされると、照井はドラゴンから言われた通りガムシャラにぶつかっていった。もちろんその何倍もやり返されたが、入場時にはウンともスンとも言わなかった客席が別の会場のように沸き始めた。

 

すぐさま劣勢に立たされた照井は、ひとつだけ使うことが許されていた大技としてその場跳びのムーンサルト・プレスを出したが、そこではドッと来ない。形勢を変えられぬまま追い込まれたところで、ほとんど苦し紛れにSTFをアレンジしたジャベを出すも、これもロープエスケープされてしまう。

 

なぜ新日本プロレス・蝶野正洋の代名詞的な技であるSTFを使ったかというと、通常は“ステップオーバー・トーホールド・ウィズ・フェースロック”のところをイタリアキャラに合わせて“ステップオーバー・トーホールド・ウィズ・フェラガモ”と言い張るためだった。あくまでも別モノだから、フェースロックをフルネルソンに変えてみたわけだ。

 

にもかかわらず、ここでも観客の反応は鈍かった。結局、場内をエキサイトさせたのはそうした技らしい技ではなく、エルボーや張り手、キックといったゴツゴツした攻撃。だが、それで勝負したらキャリアがある分パワーで上回る神田が有利となる。

 

ミラノコレクションA.T.のデビュー戦は、5分51秒で終わった。体固めによる敗北だった。

 

試合を終えると、バックステージで日本からやってきた記者が待ち構えていた。まさかデビュー戦でマスコミの取材を受けるなどとは想定していなかったから素で慌てそうになったが、ここはイタリアの伊達男に徹しなければと自分に言い聞かせた。

 

「ミラノ出身の照井章仁です。今までいろんな回り道をしてきましたけれど、ローマは一日にしてならずですから」

 

試合をしている時は無我夢中だったが、デビュー戦を終えたところで感情がこみあげ、大学を中退し東京へ出てきたこと、FMWに入門しながら挫折したこと、PRIDEに出ようと高田道場や慧舟會に通ったこと、そして…真実と別れたことなどが脳裏を駆けめぐり“回り道”という言い回しになった。けれども、すぐにイタリア人らしいセリフを言わなければと思い“ローマは一日にしてならず”を引用したのだった。

 

マスコミの人も「デビュー戦からキャラクターづけされているなんてすごいね。動きもよかったし。新人っていうと色がないから記事にしづらいんだけど、キミは書きやすいよ」と、嬉しそうに言った。照井自身はまるでなっちゃいないと思ったが、他の3人のデビュー戦と比べたらそういう意味でのカラーは確かに出ていた。

 

コメントを終えるとすぐにジャージーへ着替えてセコンドにつき、森隆行と土井成樹の試合をリング下から見た。やはり、観客の反応がいいのは技よりも張り手やエルボーのような気迫の伝わる攻撃だった。

 

つまりこの日がデビュー戦の新人と聞き、技のうまさよりも元気よくぶつかっていく若々しさを求めていたのだ。校長が「ジャベはいいから殴る蹴るでいけ」と指示を出したのはそういうことだったのかと、照井は試合を見て理解できた。大会が終わると、4人はドラゴンに呼ばれた。

 

「これから日本のマスコミさん用に集合写真を撮るからな! こいつらを中心に“闘龍門2000”をやっていきますので、よろしくお願いします」

 

ジャベを中心とし、照井をエースにやっていくといっていたプランは、そのようにネーミングされていた。2000年版の新たなる闘龍門という意味なのだろう。これがのちに、闘龍門2000プロジェクト…T2Pと呼ばれる本隊とは一線を画したグループのスタートである。

 

とりあえず、照井はプロレスラーとしての第一歩を踏み出した。といってもその後は同じような毎日が続いた。次回アレナ・ナウカルパン大会が3週間後に控え、そこがデビュー第2戦の場となる。

 

ある日、リビングでみんなと食事をしていると校長室の扉がガチャリと開く音が響いた。ジム生たちにとって、それが何よりも緊張する瞬間だった。

 

食事をしていたみんなの手が止まる中、ドラゴンは右手に針金をねじって巻いたような物を持って現れた。そして全員がポカーンとするのもお構いなしに、犬を散歩させる時につなぐ紐のようにそれを持ち、スーッと歩いてみせてから言った。

 

「照井、見えるか?」

「……見えません」

「これ、犬なんだけど、今日からおまえが飼え」

「……」

校長の日記を目にした翌日からは、やはり練習に気が入らなかった。とても口にできぬようなリングネームになるとわかっていて、苦しいことを続けるなどバカバカしい。サボるとドヤされるから、それなりに振る舞ってはいたが。

 

ノドのあたりまで「校長、あんなリングネームはイヤです。勘弁してください!」と出かかったが「何ぃ? おまえ、俺のアイデアが気にらないっていうのか」と言われるかと思ったら口にできなかった。そんな中、デビュー戦の日は刻々と近づいてくる。

 

残り10日を切ったあたりから、照井はドラゴンのあとにくっついてメキシコシティーにある日本の企業をまわった。要は「今度、自主興行があるのでチケットを買ってください」という営業だ。

 

迎えるのはどこも重役クラス。校長の人脈のすごさをまざまざと見せつけられたわけだが、いく先々でこう紹介された。

 

「社長、こいつが今度の興行でデビューするんです。リングネームは、チンポリオ・フェラチーノっていうんですよ」

 

ドラゴンが真顔で言うと、おカタいスーツを着た企業のお偉方がブーッと吹き出す。照井は逃げ出したくなったが、チケットを買ってもらうためにはそれでも「チンポリオ・フェラチーノです。よろしくお願いします!」と頭を下げなければならない。

 

こんなちゃんとした人にまで言っているのだから、これはもう本決まりなんだな。照井は諦めの境地に達していた。ある会社の社長さんなど「キミ、いい名前をつけてもらったな。ナメられないように頑張りなさい」と、ネタなのか天然なのか判別つけ難いようなうまいことを言っていた。

 

営業まわりを終えてジムへ帰ってくると、照井は仲間たちに「今日もあのリングネームを言われたよ。もう、逃げられないみたい」とこぼす。周りは「照井さん、これはもうコミカル路線で決定ですね」と言いながら、他人事だと思って喜んだ。

 

デビュー戦前日には、自分で入場テーマ曲を決めて校長に提出しなければならなかった。照井は、高校時代からファンだった観月ありさの『TOO SHY SHY BOY!』を使いたかった。モデルの歩き方で入場するのだから、抜群のプロポーションを誇るタレントの曲で入ってくればそれっぽく見えるはず。

 

そう思いつつも、まだ心のどこかに「マグナムさんのような入場をしたい」という引っかかりが残っていた。そこで、そのテーマ曲である『TOKYO GO!』が収録されたCDのほかの曲を聴いてみると『EUROPA』というナンバーがあった。

 

「うーん、どっちがいいかな…やっぱり自分の好きな方を優先するべきだよな。よし、やっぱり観月ありさにしよう」

 

自分の中では答えが出たが、念のためと仲間たちに振ってみた。すると満場一致で「観月ありさはやめろ!」と大反対された。一気に自分のセンスに対する自信が失せた照井は、言われるがままEUROPAに決めて、校長室へ持っていった。

 

「本当にこの曲でいいんだな」

「はい。それでお願いします」

「わかった。それと照井、デビュー戦は本名で試合をやれ。リングネームになるのは2戦目からだ」

「は、はい? 照井章仁で…ですか?」

「バカヤロウ、デビュー戦からリングネームだなんて100年早い。それとな、技らしい技は出さなくていいから、とにかく気迫でエルボーとキックを出していけ」

「今まで練習してきたジャベは…」

100年早い! ただし、ひとつだけ大技を出していい。何を出すかは自分で考えろ。あとは入場も気をつけろよ。おまえはデビュー戦の日から、身も心もイタリア人になるんだからな」

 

もう、何を求められているのかさっぱりわからくなってしまったが、とにかく言われたことは守らなければならない。ノートへ描いてまで身につけたジャベだったのに、それを出さずして試合になるのだろうか…いっこうにモチベーションが上がらぬまま、照井はなかなか寝つけず朝までベッドの中で悶々としていた――。

 

2000年5月13日。今日もナウカルパンの日差しは強く、独特な街の匂いが鼻につく。晴れのデビュー戦だというのにめでたいという気持ちなど一切なく、これまでの自主興行と同じく雑用に追われ、会場の中をいったり来たりした。

 

照井とともにこの日、デビュー戦を迎えるのは1期先輩の土井成樹と森隆行、そして同期の村上拓也の4人。いずれも忙しそうな中に緊張の色を隠しきれずにいた。

 

いつもは人あたりのいい先輩である神田裕之も、この日は目を合わせようとしない。それもそのはず、照井のデビュー戦の相手を務めることになっていたからだ。その様子を遠巻きに見ていると、やはり恐怖心が芽生えてくる。

 

「校長は気迫でぶつかっていけって言っていたけど…神田さんに通用するわけがないよ」

 
すでに闘龍門ジャパン本隊で、主力の一角を担っている神田。向こうがそれほど入念にやっていないジャベを出せばなんとか渡り合えるはず。なのに…何度も時間が止まってほしいと願ったが、運命の時は駆け足で照井のもとへと近づいてきた。

「歩け」

「……えっ?」

「歩けって言ってんだろ。リング下を歩いてみろ」

 

ひとり残された照井に飛んだドラゴンの指示は、あまりに唐突なものだった。普段、意識することなくやっている歩くという行為。それを改めてやれと言われると途端にギコチなくなる。

 

「バカか! 普通に歩いてどうすんだよ。おまえはイタリアのモデルなんだから、もっとモデルらしく歩け」

 

自分がイタリアのモデルという話は今、初めて聞いた。例によって、校長の頭の中でできあがっているアイデアは、すでに既成事実という前提で一方的に話が進んでいく。

 

「ダーメだ! モデルっていうのはな、頭を動かさないで前に進むんだ。やってみろ」

 

赤コーナー下からニュートラルコーナー下まで、何度となく往復するうちにドラゴンがひとつずつコツを授ける。「脚も揺らすな!」「肩も揺らすな!」…簡単そうで、体を動かさずに歩くのは難しい。

 

「ダメッ! まあ、今日はここまでだ。いいか、今日俺が言ったことは次回までできるようになっておけ。そうじゃなければ先に進めないからな。デビュー戦も遅らせるぞ」

 

プロレスの専門学校であるウルティモ・ドラゴンジムへ来たのに習うのはモデルの歩き方なんて、いったいどうなっているのか。ドラゴンが校長室へ戻ったあと、照井もリビングへと上がっていった。みな、興味深そうな表情を浮かべ待ち構えていた。

 

「なんか、何度も校長のダメッ!っていう声が響いていたんだけど、そんなに難しい技を教わってんの?」

「いや…技なんて教わってないよ。そんな練習じゃなかった」

「技の練習じゃないって…じゃあ、何やってたのよ?」

「……モデルの歩き方」

 

2秒ほどの間をはさみ、ドッカーン!と来た。みんな腹を抱えて笑っている。

 

「照井さん、やっぱりエースっていうのは浅井さんの冗談で、コミカル路線をやらされるんじゃないんですかあ?」

「モデルの歩き方ができないだけであんなに厳しくダメ出しされるっていうのも哀しいですねー、ウヒヒヒヒ」

 

これは笑われても致し方ないなと照井も思った。ほかの練習生で、そんなことをやらされるのは自分しかいなかった。数日後、また夜の練習のあと、ひとり残された。

 

「よし、まあ完ぺきではないけど、けっこうできるようになったな」

「あの…校長、これはいったいなんのためにやっているんでしょうか? モデルの歩き方がジャベに生かせるとは思えないんですが」

「バカ、これは技のためにやってんじゃないよ。言っただろ、おまえはイタリアのモデルだって。イタリアのモデルとして、この歩き方で入場してくるんだ。マグナムのダンスが動だとしたら、おまえは静だな」

 

ダンスのように派手で華やかには動かずとも、同じ入場シーンで見せられる。それがドラゴンの中にある照井のキャラクターだった。

 

マグナムにあこがれて入ってきただけに、照井はどちらかというと動の入場にあこがれた。ましてやプロレスラーとしてのスタイルは、ジャベが主体であれば地味なものとなる。ならば、それ以外では派手にいきたい。

 

校長に説明された時は「やっぱりマグナムさんのように…」と拒絶したくなったが、よくよく考えれば静と動の違いこそあれ、同じカテゴライズとして据えられたことになる。真逆のようで、じつは一番近くに自分がいるのだと。

 

来る日も来る日も、照井はモデル歩きを続けた。スーパーマーケットへ買い出しにいくさいもやってみたら、普段は他人に興味がなさそうなナウカルパンの民衆たちが不思議そうな顔を向けた。

 

視線を浴びる中でやるのと、ひとり練習場で繰り返すのとでは、同じ行為でも感覚が違った。これは、プロレスにも当てはまるはずだと照井は思った。

 

こうしてプロレスラーとしてのスキルとともに、自分のキャラクターづけを確立する作業も同時進行で続けていたある日のこと。リビングに置かれたプロレス専門誌を見る照井の目が、あるページで止まった。

 

その雑誌ではウルティモ校長が連載ページを持っている。日本とメキシコ、そしてアメリカとプロレス3大主要国を飛び回る立場を生かした旅日記が好評を博していた。

 

メキシコのことに関してはジム内の出来事が当然出てくる。自分が書かれていまいか、あるいは知らない事件が起こっていたりはしないかと、口にこそ出さぬもののみんなそのページを気にしていた。

 

照井も名前こそ出されてはいないものの、これは自分だろうなという記述が何度かあった。だが、今回に関してはさすがに「そんな!?」と、思わず声をあげたくなった。

 

「今、ジムには練習生のTというやつがいる。この男は、俺の顔を見るといきなりイタリアのブランドについて説明を始めるのだ」

 

自分でやらせておいてよく言うなあ…と思ったが、そこはデビューしてからのキャラクターに結びつけるためにそう書いているのだと理解できた。問題はその先だ。

 

「彼はアルマーニが好きだというので、それにちなんだリングネームにしようと思う。まず、エンポリオ・アルマーニの“エ”を“チ”に替える。さらに、イタリアの車といったらフェラーリ…ということで、アルマーニをフェラチーノにする。うん、イタリアっぽくていい名前だ!」

 

信じられなかった。いや、信じたくなかった。マグナムTOKYOのカッコよさにあこがれ、マグナムようになりたいと思って入門し、メキシコの劣悪な環境に心が折れかけながら頑張ってきたのに、プロレスラーとしてデビューしたら自分のリングネームが“チンポリオ・フェラチーノ”になるなんて――しかし、身内のジョークではなく専門誌で活字になって世に出されているのだから、これは事実なのだろう。

 

「こ…こんなリングネーム、親に言えないじゃないか…」

 

絶望感に打ちひしがれた照井は、とにかくそれをネタにして仲間たちにからかわれぬようにとその号をソファの裏へ隠したが、まったく気分は晴れない。とても声を出しては言えぬようなそのリングネームが、いつまでも頭の中でエコーとなって響き続けた。

逃げようにも逃げ道がない環境で、プロレスラーになるための厳しい練習は毎日続けられた。ウルティモ・ドラゴンジムには専属コーチとしてベテラン・ルチャドールのホルヘ・リベラがおり、週に4日メキシコ流の関節技・ジャベを習う。

 

ジャベはルチャリブレの黎明期から伝わる技術で、一度に複数の個所を決めるところなどが総合格闘技のサブミッションとは一線を画す。メキシコのプロレスというと派手な空中戦の印象が強いが、アメリカや日本も大技のほかにグラウンドレスリングがあるように、基礎として使いこなせなければならない。

 

毎朝9時からスタートし3時間、みっちりとホルヘからジャベを教わる。ドラゴン校長には「おまえらで明確なコンセプトとしてジャベを前面に打ち出したことをやっていくから、先生から盗めるものはなんでも盗め」と言われていた。

 

照井自身も、メキシコにいったら飛び技の練習になるとばかり思っていたので、来る日も来る日も地味な関節技に没頭することになるとは意外だった。複合関節技だから、ジャベはどれも決めるのが難しい。ホルヘは次々と「こうするんだ」と技を披露するのだが、その数が多すぎてなかなか覚えられない。

 

そこで照井は入り方や決まった時の体勢をノートに描き、夜になるとそれを見ながら試してみた。

 

「こうやって腕を取ってこっちに回して……えーっと…それから自分は右に移動して…」

「照井さん、ホルヘ先生は左にいきませんでした?」

 

同期の練習生や、岩佐らとともにそんな感じでひとつひとつを確認しながら、頭と体に叩き込んでいく。そして翌朝の合同練習は、そのおさらいから始めるのだ。

 

といっても最初からすべての技は覚えられない。周りが首をかしげながらオズオズとやる中で、照井は飲み込みが速かった。のちにホルヘ先生が「テルイが一番いい」と言っていたと聞き、これでいいんだと自信が持てた。

 

1カ月ほどが経つと、夜の練習は校長が見るようになった。まずは胸板へのチョップ100発と、ストンピングをひたすら受けることから始まった。

 

プロレスは技を受けなければ肉体に耐久力がつかない。何か1発食らってそのまま参ってしまうなど論外なのだ。最初は死ぬほど痛く、50発を超える頃には神経が麻痺して感覚がなくなる。代わりにどこが乳首なのかわからぬほどに変色するのだが、それでも打ち込まれるのは終わらない。

 

内出血した上をさらに叩かれる。練習後、シャワーをチョロリと浴びせただけで激痛が走った。

 

これが日本だったら、照井は間違いなく逃げ出していた。ホームシックに加え、この厳しさ。「おまえをエースにしてやっていくから」という校長の甘い言葉など、どうでもよくなった。

 

何日か経つと、内出血したものが重力で下がり胸がきれいになった。その状態でチョップを受けたりストンピングを入れられたりしても、ある程度の痛みは耐えられた。人間の体はすごいと、照井は思った。

 

ホルヘ教室で技術を、校長の特訓によってプロレスラーの肉体を照井は少しずつ身につけていく。その頃になると、他の練習生たちもある程度ジャベを使えるようになっていた。

 

みんながいっしょに習っているのだから、同じ技を使うようになってしまう。スパーリングで誰がどの技を出したかが気になるようになった。

 

「ああ、あの技はすでに使われてしまったから使わない方がいいな。かといって、そんなことを言っていたら何も使えなくなってしまうし…」

 

そこで照井はホルヘ先生から習ったジャベをアレンジし、自分なりの入り方や決まった形を研究するようになる。ここでも岩佐が協力してくれた。

 

ジャベのひとつとしてエル・ヌド(結び目固め)という技がある。相手の両手両足を絡ませ身動きを封じてしまうのだ。照井はそれをサードロープにかけてやったらどうかと考えた。

 

技としては同じでもロープが絡まっている分、より複雑で外れにくく映る。そうやって開発した技にはデビュー後、じっさい試合の中で使うようになってからオリジナルの名前をつけた。

 

身動きが取れなくなった相手がうつ伏せになる上に乗って、征服したかのようにポーズを決めるのが「パラダイスロック」で、ロープを使ったヴァージョンは「ロープパラダイス」。なぜPARADISEにこだわったかというと…。

 

「上野でテレクラか何かのティッシュをもらった時に、プラダかと思ったら小さく“ise”とあってパチモンじゃん!と思ったのを強烈に憶えていて、それを校長に言ったらヒャッヒャッヒャッと笑いながら『いいじゃん、それ!』となって。それでタイツの前に入れた三角形のロゴにも“PARADISE”と入れるようにしたんです」

 

もちろん、オリジナル技も忘れぬようノートに記したため通称・ミラノノートが2冊分できあがった。“関節技の鬼”の異名で知られる藤原喜明も、若き日にカール・ゴッチからサブミッションを習ったさい、イラストを描いて身につけたという逸話が残っている。

 

2000年5月におこなう闘龍門自主興行でデビューすることも決まったある夜、スパーリングが終わりヘトヘトになっているところで校長から「照井は残れ」と命じられた。他の練習生たちは、安堵の表情を浮かべつつ「ああ、やっぱりあいつは特別扱いなんだな」という視線を残し、上のリビングへ続く階段を登っていった。照井を待ち受けていた個人特訓とは…。

茂野もやめ、とうとう同期がいなくなった照井はメキシコへ出発するまでの2週間をひとりで踏ん張った。練習だけでなく、すべての雑用が自分に回ってくる。入門以来、もっともキツい時期だったが、メキシコにいくという目標のみで己を支えていた。

 

闘龍門ジャパン後楽園ホール大会のリング上から校長とともに観客へ挨拶した数日後、いよいよ日本を離れる。一応、成田空港から母には連絡を入れたものの、例によって「勝手にしんさい」という感じ。この分ではたとえデビューできても喜んでもらえないだろうなと思った。

 

ひとりぼっちでいくのと比べたら、校長といっしょだったから旅中の不安はない。生まれて初めての国際線は果てしなく長く感じたが、気持ちが高ぶっているのかほとんど寝られなかった。

 

何時間乗ったのかわからない。飛行機はメキシコシティー国際空港に降り立った。タラップを降り、イミグレーションを通過し外へ出た瞬間、強烈な排気ガスの匂いが鼻を突いた。

 

「うわ、なんだこれ!? 外国ってみんなこうなのか?」

 

東京へ出てきた時でさえ、こんなにヒドくはなかった。乗り込んだタクシーから街を眺めると全体的に空気が淀んでいるような感覚。もっとメキシコは明るくて色彩豊かなイメージがあったため、照井の頭の中へいくつものクエスチョンマークが浮かぶ。

 

メキシコシティーを通過し、ウルティモ・ドラゴンジムへ近づくにつれて建物はどんどんオンボロになり、タクシーが赤信号で停まるたびに車道まで5、6歳ぐらいの子供たちが寄ってきて車窓を叩きスペイン語で何か言いながら手を差し出す。言葉の意味はわからずとも、それが「お金をください」と訴えているのはわかった。

 

校長は顔色ひとつ変えず隣に座っている。照井の気持ちを読み取ったか「あれな、親がやらせてんだよ。この国の貧しい層はあんな小さい頃からああいうことをやらされる。でも同情してあげてもあの子たちのものにはならない。全部親に巻き上げられるんだ」と説明した。着いていきなりのメキシコにおける生々しい現実…。

 

ジムへ着くと、周りは廃墟のような建物しかない。夢の場所だったメキシコは、来てみれば「こんなところに住まなきゃいけないのか…」とヘコむような街だった。

 

照井が合流した時のジムには先にいった同期3人以外に2期生全員と3期生の清水基嗣、4期生の斎藤了、5期生の森隆行、土井成樹、岩佐卓典らがいた。「本日よりお世話になります照井章仁です。よろしくお願いします!」と挨拶すると、いっせいに「エース候補、来たか」という視線を向けられた気がした。校長から「今度こういうやつが来るぞ」と聞いているに違いなかった。

 

照井は岩佐との同部屋になった。先輩にもかかわらず、こちらの方が年上ということから敬語で話してくる。そこには、エース候補として見られているというのもあったのだろう。

 

部屋へ入ってから何気なく鼻をかむと、真っ黒なものが出てきた。翌日には朝、歯を磨いたさいに水を口に含んだだけでさっそく下痢になった。数日後、水道水でコンタクトレンズを洗ったら目が真っ赤になり、急性アレルギー性結膜炎で夜中校長に病院へ連れていってもらった。

 

照井は潔癖症だったため、これらのひとつひとつに対しショックを覚え、ホームシックにかかってしまう。「僕もそうでしたからすぐに慣れますよ」と岩佐は言っていたが、慣れる以前に部屋へ引き篭もり、一歩も外へ出なくなった。

 

練習と食事、雑用以外はずっとベッドから出てこない照井を心配して岩佐が気遣ってくれたが、何もする気になれなかった。こういう時は食べることぐらいしか楽しみがなくなるわけだが、パサパサな米がまるで口に合わない。

 

ジムのちゃんこは醤油ベースの出汁に大根とイカの切り身だけが入っていて、あとは各自が肉などの材料を買ってきて中に入れて食べるというしきたりだった。でも、それだとお金がない人間はさみしい食事となる。

 

照井もほとんど貯金は残っていなかったし、何よりも外へ買い出しにいけない。よって大根とイカだけの食事が続く。神戸の道場でウエートをやって体を大きくしてきたのに、あっという間に体重が13kgも落ちた。

 

本当に何もいいことがなかったから、日本へ帰りたいとしか思えなかった。神戸で知り合った女性ファンの人たちから送ってもらったCDを聞いて、なんとか心の支えとした。このへんは、ハヤブサがメキシコ修行へ来た時と同じである。

 

唯一よかったのは、上下関係のストレスがまるでなかったこと。スタートの時点で3期生の清水から「ここはジャパンと違うから和気あいあいといきましょうよ」と言われた。普段の会話の中でも先輩たちが敬語を使ってくるので「やめてくださいよ」と遠慮するのだが「だって照井さんはエースですから」と皮肉半分に返された。

 

3週間ほどして、校長から買い出しを命じられたため初めてナウカルパンの街へ出た。やはり排気ガスの匂いがたまらなかったが人であふれ返り、活気に満ちていた。少しだけ、自分のイメージするメキシコの情景に近づいた。

 

鼻の中が黒くなるのさえ我慢すれば、なんとか外に出られそうだ。でも、夜になると昼にいた人たちはどこへ消えてしまったのだろうと思うぐらいゴーストタウン化する。

 

野良犬の遠吠えがひっきりなしに聞こえ、中には「ギャンギャン!」という不穏な鳴き声も響いてくる。先輩に聞くと「ああ、あれは街の人が犬を獲ってんだよ。食うために」と教えてくれた。ナウカルパンは、2つのまるで別の顔を持つ街だった。

メキシコのウルティモ・ドラゴンジムへいくよう通達されたのは4人。その中に照井は入っていなかった。これには本人ならずとも、仲間たちも真っ先にリーダー格が“出世”するとばかり思っていただけに、何を基準に選ばれたのかと困惑した。

 

メキシコいきをお預けされた照井は、もうひとりの“チビ担当”茂野とともに後日、校長に呼ばれた。そこで「おまえ、なんで自分はメキシコにいかせてもらえないのかと思っただろ?」と聞かれたため、正直に「はい」と答えた。

 

「じつはな、おまえら2人にはメキシコへいく前にまだやることがある。特別メニューを用意した」

 

それが、残された理由だった。合同練習は今まで通りきちんとやり、そのあと大阪にある体操教室へいって空中姿勢を勉強しろという。そういえば面接のさい校長から、入寮するまでにやっておくよう言われたが、通わなかった。

 

あの時に言葉は冗談ではなかったのだと、照井は驚いた。いくらルチャが空中殺法を使うスタイルだからといって、あまりにベタすぎて真に受けなかったのだ。

 

三ノ宮から梅田だったら近いが、教室は大阪の中心地から離れたところにあり片道3時間ぐらいかかった。トランポリン世界大会の4位に入った実績を持つ先生が、体操の仕方や空中へ飛んでいる時の姿勢を事細かに教える。これが思いのほか厳しく、キツかった。

 

ただでさえ合同練習は2人に減ったため先輩たちとマンツーマンでやらされる。CIMAやキッド、SAITOのアドバイスを受けながら、ドロップキックなどの基本的な技を何十、何百と反復するとそれだけで体が動かなくなるのだが、そこからさらに大阪へ向かわなければならなかった。

 

練習生の数が一気に減れば、合宿所の雑用もひとりの負担が増える。照井と茂野は二言目には「あーあ、メキシコにいったやつらがうらやましいよ」とこぼすようになった。

 

来る日も来る日も合同練習と特別メニュー、そして雑用による三点セットの毎日が続く中、やはり先にいった4人がどうなったのかが気になる。自分と茂野が合流した時には、とんでもなく差をつけられているのではという焦り…そんなある日のことだった。

 

2人しか練習生がいないため、照井と茂野は巡業にもついていた。朝、宿舎を出発するという時にSAITOから「照井、安田がジムからいなくなったそうだぞ」と聞かされる。

 

安田とは“デブ担当”で、体は練習生の中でもっとも大きかった。体力的に音をあげるような男ではないから、相当メキシコでの練習は厳しいのかその時は思った。

 

ウルティモ・ドラゴンジムは、1階が練習場となっている。安田はいつものようにスパッツを履き、ウエート用のベルトを持って降りていったが、それっきり姿を消したという。パスポートとお金以外の私物は置きっ放しだった。

 

道場から逃げ出すといっても、そこは異国の地。心配になった仲間たちは顔写真を印刷した貼り紙を、ジムのある街・ナウカルパンやメキシコシティーのスーパーに貼らせてもらったのだが、捜索空しく消息がつかめず。ようやく本人から電話がかかってきたのは4週間も経ってのことだった。

 

「今、ロサンゼルスにいるんです。ご迷惑をおかけしてしまい申し訳ございません。必ず帰ってお詫びします!」

 

なぜロスにいるのか言っていることがよくわからなかったが、ナウカルパンの立ちんぼの女性に惚れてしまい、行動をともにするうちにたどり着いたことだけは伝わった。だが、デブ担当は二度とジムに現れなかった。

 

校長がいっていた4タイプのうち、デブ担当が消えた。照井は「あの時のプランはこれで立ち消えになってしまうのだろうか」と思ったが、今はそれよりも自分がメキシコへいくのが先決。他人にかまってなどいられない。

 

この話には後日談があり、照井がミラノとしてデビューしたあと2002年3月にアメリカからWWEが上陸し、日本公演を横浜アリーナで開催した。その様子がテレビで流されているのを神戸の道場で何気なく見ていると、誰かが「うぉっ! 今の安田じゃねえのか!?」と声をあげた。

 

「熱心な日本のWWEファンがこんなにも集まっています!」と開場前の伸びた列を映し紹介されていたのだが、その中にデブ担当がいたのだ。

 

「あいつ、まだプロレスが好きだったんだ」

「バカ! そこじゃねえだろ。あいつ、いつの間に日本へ帰ってきたんだ!?

 

その後、メキシコ女とどうなったのかは定かでないが、今も日本のどこかにいるのだろう。安田がロスからジムへ電話をかけてきたその頃、日本ではようやく照井と茂野もメキシコへいくことが決まる。

 

それを知らされた時に照井はようやく先発隊に合流できる喜びより、体操教室へ通わなくてもよくなる方が遥かに嬉しかった。この頃には7期生が入寮し、いっしょに練習するようになっていた。のちにイタリアンコネクションを結成する吉野正人、“brotherYASSHI、ベーカリー八木、大鷲透らがこの代である。

 

日本を発つ日まであと1週間と迫った日のこと。照井はSAITOとともに外でランニングをしていた。

 

それを終え、道場に戻ってきたところでちょうど入り口の扉がバタンと開き、いっしょにメキシコへ渡る茂野が泣きながら荷物を抱えて出てきた。照井が「どうしたの?」と聞くと「やっぱりやめる!」と言い残し、歩を止めることなくスレ違った。

 

その瞬間が、まるで映画のスローモーションのようなシーンとして、ミラノの中へ強烈に焼きついた。目が合った一瞬、茂野が先に視線を落とす。その情景に自分も目頭が熱くなり、ボロボロと涙を落としたのだ。

 

ここまでいっしょにやってきて、あともう少しで夢だったメキシコへいけるというのに、なぜ…突然訪れた仲間との別れに対する哀しさと、とうとう同期の中ではひとりぼっちとなってしまった不安から出た涙だったのだろうか。茂野は、まったく振り返ることなくそのままいってしまった。

 

道場の中に入っても涙は止まらない。エンエンと声をあげている照井を見て、すべてを把握したのだろう。無言で近づいたCIMAがポンと肩を叩いた。いくつもの別れを味わいながら、男たちはプロレスラーへの道をたぐり寄せるのが、この世界の宿命だった。