波多野精一は、1917年に西田幾多郎によって京都帝国大学文学部哲学科宗教学講座教授として招かれた。朝永三十郎は1907年に京都帝国大学文学部哲学科の助教授、1913年に文学部哲学科の今日主として哲学史を担当することになる。
波多野精一は、早稲田大学でキリスト教を教えるとともに、哲学史も教えていた。波多野精一の哲学史に対する学識の深さは世間でも知られていて、波多野精一は若き日に『西洋哲学史要』を表していた。
ある旧制高等学校から校長就任の誘いを受けていた朝永三十郎は、そのような哲学史家として有名な波多野精一を差し置いて、自分が京都帝国大学文学部哲学科で哲学史を担当していて本当によいのかと思い悩んだ朝永三十郎は、西田幾多郎にその悩みを打ち明け、教授辞任を申し出たという。
すると西田幾多郎は、朝永三十郎に、
「きみがもつ西洋哲学史の学識が波多野精一くんに劣るとは考えていない。また学生からも同僚からも社会からも、きみが哲学史の授業を行えことへの不満の声は、大学にもわたしには上がってきていない。波多野精一君は哲学史家としても優秀な人であることは言うまでもないが、きみにはきみの哲学史に対する特色のある研究があるとわたしは見ている。京都帝国大学文学部にとってきみを失うことは大きな損失となる。だからここは大学に残って西洋哲学史の口座を担当してほしい。きみはこれまで通り、哲学史を担当してもらいたい」
というような内容の書簡を送ったという。
わたしは、このような西田幾多郎と朝永三十郎のやりとりを、上田久著『祖父・西田幾多郎 正・続』(南窓社)で知ったのであるが、《京都学派の哲学》の創成期時代の京都帝国大学文学部哲学科の前身である文科大学時代の哲学科の様子が分かるように思える。
西田幾多郎は桑木厳翼の留学中の〝留守番役〟として京都帝国大学の哲学科に招かれた。しかし留学帰国後桑木厳翼は東京帝国大学の哲学科の主任教授におさまってしまう。その後の京都帝国大学の哲学科を創設する任を西田幾多郎が担うこととなった。この西田幾多郎と朝永三十郎への〝書簡〟は、京都帝国大学の哲学科創設に西田幾多郎がいかに奮闘していたのかということをよく表しているように思えるのである。