こんにちは!


いつもブログを読んでくださり、ありがとうございます。

 

以前からお付き合いのある方はご存じかと思いますが、私は時々詩を書いていました。


そして、別のブログサービスで詩を公開していましたが、事情により更新を停止していました。

 

このたびそのブログのタイトルを改め、『ことばの編み目』として再開することにしました。

 

もしお時間がありましたら、ご興味がありましたら、またお付き合いいただければ嬉しく思います。

 

更新は、日曜日の朝8:00頃に、不定期で掲載する予定です。

 

一篇でも、心に残ることばをお届けできたら幸いです。

 

どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 

 

 

 
『幽霊』
著者 イーディス・ウォートン
翻訳 薗田美和子・山田晴子
出版 作品者

 

イーディス・ウォートン(1862–1937)

アメリカを代表する小説家・短編作家である。 ニューヨークの上流社会に生まれ、その華やかさと閉塞感を鋭い観察眼で描いた。 『無垢の時代』によって女性として初めてピューリッツァー賞を受賞している。 また、怪談や幻想小説の名手としても知られ、不穏で美しい短編を数多く残した。 アメリカ文学を代表する作家の一人であり、現在も世界中で読み継がれている。

 

イーディス・ウォートンの怪談集を読むのはこれで3冊目になります。

ウォートンはヨーロッパなどへしばしば旅行に行ったため、舞台になっている土地はアメリカ以外にヨーロッパである場合もあります。

 

今回の『幽霊』に収められた作品について一言で言うなら「夫のいない妻たち」。 

いつも大きな屋敷に妻は置き去りにされ、夫は海外を豪遊している、或いは夫は妻の求める愛に応えていない、或いは夫は既に他界している。

そんな寒々しい夫婦関係の中で、妻の周辺で不穏なことが起きます。

 

ウォートンの書く怪談集の特徴は、繊細で細やかな情景や心理描写です。

 舞台は裕福なお金持ちのお屋敷であることが多く、壁にかけられている絵や置かれている家具の重厚さを描くことで、物語に独特の陰影と奥行きを与えています。

 そうした静かで美しい空間の中に、少しずつ得体の知れない不安が滲み出してくるのです。

じわじわと沸き起こる恐怖の兆しを丁寧に描き、最後の一行で静かな戦慄を残します。

派手なホラーというよりも、読後感にじわじわと怖さが効いてくるタイプです。

 

ウォートン自身は「幽霊の話が入っている書物が一冊でもあるとその部屋では眠れない」というほどの怖がりだったようです。

(それなのに怪談集の一流の書き手であることに驚きました)

同時に「幽霊を感じる人」(ゴースト・フィーラー)でもあり、三十年以上もこのジャンルに興味を持ち続け、執筆を続けたとのことでした。

 

読書歴の浅い私には幽霊話やゴシックホラーの小説と聞いて、文字で読む怖い話なんてホラー映画ほどのパンチはないだろうと思いました。

でも、それは浅はかな考えでした。

怖さというか、不気味さが文字ではあまりに静かに忍び寄ってくるのです。

そして腕の良い書き手は、恐怖を声高に叫んだりはしません。

似たような怪談集でトマス・ハーディの『呪われた腕』(新潮社)を読んだことがありますが、あちらも恐怖の正体を明かしはせず、読者の想像力に委ねることで不気味な余韻を残していました。

 

こういう作品を読むと「幽霊を信じないと損をする」、そんな風に感じます。

信じていなければ面白さというのは半減しますからね。

そう、面白です。

怪談集や奇譚集と呼ばれるものをいくらでも読めちゃうなと思いました。

ミステリー小説のように「原因」を追い求めて「解決」する作品も好きですが、恐怖のグラデーションに身を預け、読んでいる最中は存在を感じていた作者に突然置き去りにされるラストにが病みつきになります。

 

それにしてもウォートンの書く文章は様々な描写が素晴らしいです。

大仰におはなしが展開するわけではないのですが、「見せられている情景」「聞かされる心理」が間を産めていて、読み応えがあり、読者を退屈させません。

一体これをどういうオチで締めるのか、それが気になってページを次から次へと捲ります。

 

怪談集や奇譚集が長く読み継がれてきた理由が、ようやく少しわかった気がします。 どうやら私は、すっかりこちら側の読者になってしまったようです。

 

『白河夜船』

著者 吉本ばなな

出版 新潮社

 

今、吉本ばななさんがご家族について書いた有料記事のことで話題になっていますね。

ばななさんは私も若い頃に色々と買って読んだな、と思い出しました。

でも、読んだ本は引っ越しの時などに処分してしまって一冊も持っていませんでした。

ですが2年ほど前に古本屋さんで『白河夜船』が売られていて、100円だったので思わず買って積んでありました。

この小説、ばななさんの作品の中で(すべてを読んだわけではないですが)一番好きだったからです。

いつか再読しようと思いつつ読まずにいましたが、この機会に読んでみようと手に取りました。

 

読んで感じたのは、昔読んだ時には私はあまりばななさんの作品を理解していなかったんだな、ということです。

文章は平易で、登場人物たちの人間関係もさほど複雑なものではないのでスラスラ読めます。

そして、私はただスラスラ読んでいただけでした。

 

生きている間に「喪失」と「再生」を経験する人はこの世に何人いるのでしょうか。

或いはそれを自覚する人は、何人いるのでしょうか。

私自身の経験では、少なくとも若い頃には「喪失」というものを実感したことはないです。

生まれてきた時に人として大切なものが備わっていないことに気付いたのは、もう若くはない時でした。

そして未だ「再生」はしていなと思います。

(でも基本的には、自分は幸せの中にいると思います)

 

ばななさんの作品は、登場人物たちが既に何かを失っているところから始まります。

これは今回再読して気がついたことです。

彼彼女らはその喪失感を自覚はできていませんが、言葉にできない悲しみの波の中を漂っています。

それがどこに原因があるのか、それは詳らかにはされていませんが、ばななさんご自身は育った家庭環境にあったのでしょうね。

だからこそたくさんの物語が彼女の中から生まれたんだと思います。

 

私が「白河夜船」がすごく好きなのは、しおりという登場人物のとても特殊な仕事と、そのせいで自分で自分の命を抹殺してしまったというエピソードに心惹かれるからだと思います。

 

そのしおりというまだ若い女性は定職にも就かずにいた時に、ある仕事に誘われます。

それは夜お客さんが寝る時に「添い寝」するだけのものでした。

肉体関係は無し、ただ横で寝ているだけです。

ただし眠ってはダメ。

お客さんが目が覚めた時に、そこにちゃんと誰かがいるんだと安心させるのもこの仕事の大切な役目です。

 

でも、それはとっても危険な仕事でもありました。

主人公の寺子は、

「しおりはあちら側から戻ってこれなくなった」

そういう趣旨のことを言います。

 

若い頃に読んで、添い寝という仕事、目覚めた時にでも安心させること、そしてその仕事のせいで何かに飲み込まれてしまったこと、そのエピソードに雷に打たれたような気持ちになりました。

なんとなくぼんやりと、私もプロの添い寝家に添い寝してもらいたい、目が覚めた時に「ここにいるよ」と言ってもらいたいと思いました。

(ちなみに今は思わないです)

 

ところで添い寝してもらっているお客さんは⋯、どんな変化があるのでしょうか。

彼彼女らは「再生」するのでしょうか。

その後自力で生きていけるようになるのでしょうか。

安眠の中で、何を得るのでしょうか。

 

『白河夜船』以外にこの本には『夜と夜の旅人』『ある体験』が収録されいます。

どちらも登場人物たちがいつの間にか自分に取り憑いていた喪失感の中で、静かに再生していくおはなしです。

さわやかな読後感が残ります。

いつの間にか彼彼女らを見守りながら読んでいて、バッドエンドではないことに心底ホッさせられます。

ばななさんが何を書きたかったのか、ようやく分かった気がします。

(全くの見当違いである可能性もありますが⋯)

 

そういう物語が私の内側を照らすことで、「では私の物語はなんだろう?」と思い浮かべます。

多分それはばななさんの書くものとは違うのだろうということだけはわかります。

でも、違うけれども、ばななさんの物語は私と「伴走」してくれているように感じます。

 

思わぬ形で再度するキッカケになりましたが、読んでみて良かったなと思いました。

 

余談ですが、ばななさんを読んでいた頃は私はどちらかというと鷺沢萠さんに夢中だったのを思い出しました。

そちらもまたいつか読んでみようかなと思います。

そろそろ記憶が薄れてきたので、「若い頃に自分が感じていたもの」を思い出すのも良いかもしれないと思います。

懐かしさよりも、恥ずかしさの方が先の立ちそうですが⋯。

なにせとにかく人に勧めまくったりいていたものですから(笑)

 

最近若手哲学者達による対話の本、『ネガティブ・ケバビリティで生きる』という本を読んだ。

ネガティブ・ケバビリティというのは詩人のション・キーツが提唱した概念で、「答えが出ない状態や、曖昧さ、不確実さを、すぐに答えを求めずに耐えられる能力」という意味らしい。

本のテーマとしても「答えを急がず立ち止まる力」「わからなさを抱えながら生きる方法」とある。

 

答えを求めない心持ちになってきたのは、いつぐらいからだろう。

昔は四角四面にきっちりとしていたいタイプだったし、縦のものは縦でなければならくして、横以外の横というものに譲ることもできなかった。

なんでもわかるようにできているような気がしていた。

 

生きていくなかで色んな局面を乗り越えてきて(単に時間が経っていただけで、何も問題は解決していないが)、「まぁ、いいや」と思えるようになったと思う。

 

それから自分が心の中のモヤモヤを克服するのに物凄く時間がかかる人間なんだと知った。

必然的にモヤモヤが晴れる時まで、そのモヤモヤを長く「抱える」ことになる。

頭がどうにかなってしまいそうな程のたうち回り(あくまでも心のなかでのことだが)、何年かかけて違和感の正体がわかると、そして階段を一段上れると、人生の勝利者になったような気持ちがする。

達成感というのか、満足感というのか⋯、自分を克服した時は案外と自分を幸せな気持ちにしてくれるものだ。

 

そういう体験をいくつかすると、新たな違和感や不安なことに飲み込まれそうになっても、「今は耐える時」と思って歯を食いしばってジィっと耐えられるようになった。

そして強く思う。

「次に大きな津波が来た時、勝つのは自分だ」と。

 

こうやって書くと、案外と私はファイターなんだな⋯。

でも、基本的に私は軟弱者なんだが(笑)

 

おっとネガティブ・ケバビリティの話に戻すと、ナラティブの力を借りることは大事だと思う。

例えば物語の中に自分を見い出し、物語の中に人生を見い出し、物語の中で「答えはない」ことを知る。

或いは、「答えは自分だけのもの」だとわかる。

そういうことを頼りにして、近頃は文学を味わっているような気がする。

具体的にどの小説でどの辺にそれを感じたのか?と聞かれるとちょっと答えに窮するけれども⋯。

 

わからないことは美しくもあると思う。

それを突きとめるのは野暮であるようにも思う。

手のひらの中に掴んだと思っても、開いた途端にそれは風に吹かれてどこかに舞って行ってしまう。

 

もしも願い叶うのであれば、最後の時は「これで良かったんだ」と思えたらいいのになと思うけれども、そういう余裕がある死に方を誰も保障されてはいないからなぁ。

これっばかりは仕方ない。

まぁ、いいや。

 

 

『わたしを離さないで』

監督 マーク・ロマネク

制作 2010/イギリス・アメリカ合作

 

この映画は何度となく観ているんですが、まず先にカズオ・イシグロの原作を読んでいます。

本を読み慣れていない私は、(あくまでも私の主観ですが)当初テンポ悪さに根をあげそうでした。

耐えられなくて読み終わる前に読書家の友人に「これって面白いの?」とかなんとかって聞いた覚えがあります。

もう記憶もあやふやなのですが、多分それでなんとか読了してみて面白いと感じたのでしょうね。

映画も作られていると知って、読んだだけではわからなかったところを補完できるかもと思って鑑賞しました。

 

結果としておはなしの展開のテンポが悪いと言いましたが、敢えてそうしていたのだろうと観終わってから感じました。

というのも、とにかく奇妙、というかかなり不気味な設定の世界観を、過剰な表現を排除して淡々と描くことでより背筋が凍らせられたからです。

 

ヘールシャムという学校にいる100人程度の子供たちは、将来的には臓器提供者となるべく育てられています。

それを担任から知らされれた四年生の生徒たちは皆黙り込んでしまうんですが、一人として泣きわめく子がいないんですよね。

ここの子供たちは総じて大人しい子たちです。

そういう風に描かれています。

反抗期というものが向こうから避けて通っているのかのようです。

 

やがて学校を卒業すると臓器の提供が始まるまでコテージと呼ばれる場所で集団生活をさせられますが、皆自分が置かれた運命を受け入れています。

「自由と人権を取り戻すための彼らの冒険譚」、みたいなものではないんですよね。

その辺りが、まったくもって不可解なわけです。

観ていてどうも目眩がする、頭の中がくらくらすると思わされるのは単に設定が風変わりなだけではなくて、作品の中の人々が黙ってそういうものなんだと甘受しているところにもあると思いました。

本当にカズオ・イシグロの書く小説は一筋縄ではいきません。

 

それでここからが残酷なんですが、やっぱりでも彼らも本音としては運命に抗いたい気持ちはあるんです。

「これををすれば命を全うできなくても、提供の時期を遅らせることはできるらしい」

彼らの間にはそういう噂がいくつも出回っているけれども、すべてデマだと主人公は言います。

その一つが恋人同士が「心から愛し合っていることを証明すること」というものでした。

主人公は幼馴染と恋人同士になったことで、友人から背中を押され、マダム(学校のスポンサーらしい人物)に会いにいきます。

 

二人が「愛し合っていることを証明しに来ました」というと、マダムは「証明できる愛ね⋯」と言いますが、「証明できる愛に価値などあるはずがない」と言いたそうです。

そこには既に閉鎖になったヘールシャムの校長もいました。

恋人には子供の頃から絵の才能があり、作品の一部を持っていってマダムと元校長先生にも見せます。

ヘールシャムにいた頃にマダムが年に何度かギャラリーに展示したいからという理由で彼らの作品を見に来ていたからです。

それも臓器提供を遅らせるのに役に立つと、二人はそう思っていたのです。

 

しかしでも⋯。

その目的はヘールシャムの子供たちの中に「魂が在るか」を確認するためでした。

子供たちの芸術行為を、彼らにも「魂が在るかどうか」を判定するためのとし材料としていたのです。

その時そう告げられた二人の言葉にならない表情こそ、「魂の存在を証明」していると私は思いました。

そして二人は臓器提供を遅らせる方法はないのだと悟ります。


ラストでいよいよ臓器提供が自分の番になった主人公キャシーは暮れていく太陽の光に照らされながら、命の価値について問います。

「提供する側」と「提供される側」の命に違いはあるのだろうかと。


このシーンで胸が揺さぶられるのは「価値の有無云々ではなくて、価値を問う姿が人間であることの証」に思えるからからだと思います。



『クララとお日さま』でも同じことを書きましたが、読んでる者観てる者に対して落とし所を与えない残酷さがカズオ・イシグロの作品にはあると思います。

それは自分で考えることを促しているのとも違う…、私はそう感じます。

カズオ・イシグロは答えを提示していますが、その描き方は読者を救済するものではありません。

答えを知ったあともなお、その答えと共に生きるしかないという静かな残酷さがあります。

そしてその残酷さに私は取り憑かれているのだと思います。



上手く言えませんが、生きていくって根深い行為なんですね…。

置かれた環境や状況が特殊でない限りこんなことを考えて生きている人は少ないでしょう。

でも日頃そういう問いかけには無縁でも、このような作品に触れることで深く思索する機会になります。

そして人生が、命が、自分に与えている課題を知り、それを抱えて生きる強さを養うことこそが生きる目的なのだと教えてくれているように感じます。

私たちが思ってるほどには、生きる意味はそんなに多くはないし、多様なものでもないように思えます。

それはもっとシンプルなものではなかろうか。

基本的に生命は理不尽なところに置かれていて、それに対して突き返す答えはさほど複雑ではないのだろうと、そんなことを思いながら書いてみました。