
『わたしを離さないで』
監督 マーク・ロマネク
制作 2010/イギリス・アメリカ合作
この映画は何度となく観ているんですが、まず先にカズオ・イシグロの原作を読んでいます。
本を読み慣れていない私は、(あくまでも私の主観ですが)当初テンポ悪さに根をあげそうでした。
耐えられなくて読み終わる前に読書家の友人に「これって面白いの?」とかなんとかって聞いた覚えがあります。
もう記憶もあやふやなのですが、多分それでなんとか読了してみて面白いと感じたのでしょうね。
映画も作られていると知って、読んだだけではわからなかったところを補完できるかもと思って鑑賞しました。
結果としておはなしの展開のテンポが悪いと言いましたが、敢えてそうしていたのだろうと観終わってから感じました。
というのも、とにかく奇妙、というかかなり不気味な設定の世界観を、過剰な表現を排除して淡々と描くことでより背筋が凍らせられたからです。
ヘールシャムという学校にいる100人程度の子供たちは、将来的には臓器提供者となるべく育てられています。
それを担任から知らされれた四年生の生徒たちは皆黙り込んでしまうんですが、一人として泣きわめく子がいないんですよね。
ここの子供たちは総じて大人しい子たちです。
そういう風に描かれています。
反抗期というものが向こうから避けて通っているのかのようです。
やがて学校を卒業すると臓器の提供が始まるまでコテージと呼ばれる場所で集団生活をさせられますが、皆自分が置かれた運命を受け入れています。
「自由と人権を取り戻すための彼らの冒険譚」、みたいなものではないんですよね。
その辺りが、まったくもって不可解なわけです。
観ていてどうも目眩がする、頭の中がくらくらすると思わされるのは単に設定が風変わりなだけではなくて、作品の中の人々が黙ってそういうものなんだと甘受しているところにもあると思いました。
本当にカズオ・イシグロの書く小説は一筋縄ではいきません。
それでここからが残酷なんですが、やっぱりでも彼らも本音としては運命に抗いたい気持ちはあるんです。
「これををすれば命を全うできなくても、提供の時期を遅らせることはできるらしい」
彼らの間にはそういう噂がいくつも出回っているけれども、すべてデマだと主人公は言います。
その一つが恋人同士が「心から愛し合っていることを証明すること」というものでした。
主人公は幼馴染と恋人同士になったことで、友人から背中を押され、マダム(学校のスポンサーらしい人物)に会いにいきます。
二人が「愛し合っていることを証明しに来ました」というと、マダムは「証明できる愛ね⋯」と言いますが、「証明できる愛に価値などあるはずがない」と言いたそうです。
そこには既に閉鎖になったヘールシャムの校長もいました。
恋人には子供の頃から絵の才能があり、作品の一部を持っていってマダムと元校長先生にも見せます。
ヘールシャムにいた頃にマダムが年に何度かギャラリーに展示したいからという理由で彼らの作品を見に来ていたからです。
それも臓器提供を遅らせるのに役に立つと、二人はそう思っていたのです。
しかしでも⋯。
その目的はヘールシャムの子供たちの中に「魂が在るか」を確認するためでした。
子供たちの芸術行為を、彼らにも「魂が在るかどうか」を判定するためのとし材料としていたのです。
その時そう告げられた二人の言葉にならない表情こそ、「魂の存在を証明」していると私は思いました。
そして二人は臓器提供を遅らせる方法はないのだと悟ります。
ラストでいよいよ臓器提供が自分の番になった主人公キャシーは暮れていく太陽の光に照らされながら、命の価値について問います。
「提供する側」と「提供される側」の命に違いはあるのだろうかと。
このシーンで胸が揺さぶられるのは「価値の有無云々ではなくて、価値を問う姿が人間であることの証」に思えるからからだと思います。
『クララとお日さま』でも同じことを書きましたが、読んでる者観てる者に対して落とし所を与えない残酷さがカズオ・イシグロの作品にはあると思います。
それは自分で考えることを促しているのとも違う…、私はそう感じます。
カズオ・イシグロは答えを提示していますが、その描き方は読者を救済するものではありません。
答えを知ったあともなお、その答えと共に生きるしかないという静かな残酷さがあります。
そしてその残酷さに私は取り憑かれているのだと思います。
上手く言えませんが、生きていくって根深い行為なんですね…。
置かれた環境や状況が特殊でない限りこんなことを考えて生きている人は少ないでしょう。
でも日頃そういう問いかけには無縁でも、このような作品に触れることで深く思索する機会になります。
そして人生が、命が、自分に与えている課題を知り、それを抱えて生きる強さを養うことこそが生きる目的なのだと教えてくれているように感じます。
私たちが思ってるほどには、生きる意味はそんなに多くはないし、多様なものでもないように思えます。
それはもっとシンプルなものではなかろうか。
基本的に生命は理不尽なところに置かれていて、それに対して突き返す答えはさほど複雑ではないのだろうと、そんなことを思いながら書いてみました。