新聞記事にあった見出しだ。

日本の法整備の状況などを200頁を超える資料にして

カナダに提出。公聴会などを経て難民認定を受けたという。

 

これが日本という国の一面なんだと思う。同性婚に対する

法整備がなされず、というよりむしろ、それは認められないと国会で暗に意思表示している。

そして、国会でそういう言動をとる議員を

国民が一番支持している国。

 

多分、少数の違った人を、自分事として考えるより

経済的に豊かであることを前面に出す人を

無条件に支持する国。

 

もともと異質な人の許容に抵抗がある国。

いい悪いは別にして、そういう国なんだろうと思う。

でも、もはやこの国は、家族が壊れつつある。

家族のスタートである、結婚から崩れ、

晩婚化すると、子供ができにくく、

子供ができても、育てにくい世の中。

さらには、家族全員が働きに出て、家にはそんなにいない国

 

家族のつながりが強い田舎は、若い人の離脱が目立ち

限界、あるいは消滅集落ばかりだ。

そういう地方自治体は、地域再生に頑張っていても

国が本気で地方を立て直そうとは思わず、

地方のことは地方で、という姿勢。

日本は中小企業の方が割合が多いはずなのに、

経済対策は大企業と相談して決める。

 

これって、壮大な村社会だ。

一部有力者が、集まってすべてを決め、

唯々諾々として、その他の家族が従う。

文句を言えばはじかれ、個別の努力で何とかして、

誰の助力も得られない国。

 

物質的には世界でも有数の数値上の豊かな国。

でも、子供の貧困率や、自殺率が高かったりと

それほど、幸せが実感されにくい国。

 

世界から称賛される国だが、果たして。

故安倍首相のころからテレビの報道内容が変わったと思う。

それまでは、反省点をあげる知識人的番組が多かったが、

いつのころからか、日本は素晴らしいっていう

日本絶賛番組が増えた。

若者の自己肯定感が低いとかいう、統計など出しながら。

 

教育面でも、批判的な見方は消え、よい側面だけを

教えようとして、現状の国を、批判的に見ないようにした。

 

批判的思考は、リテラシーと関係する。

よりよい未来を実現するには、若い人の健全な批判精神が

不可欠だ。

 

批判精神は時として、政権批判につながるから、

現政権を維持しようと思ったら、

批判精神を持たない嬰児を育てるか

大人の批判精神と誠実に向き合いながら、

多種多様の要望と、ちゃんと話し合って、できることを

国として行い、発表し、理解を求めるか、である。

 

当然、国民の理解が得られなければ、政権は交代しなければならないが、それは与党も野党もちゃんと目指すべき国の在り方がぶれず、国民も、政治的批判精神と、事実の正しい公表と、ぶれない生き方を一人一人が持っていることが必須だ。

 

この国は、与党も野党も、あまり変わらない。

細かな失態を、攻撃しあい、相手の党に勝つことだけが目標で、国民のためという視点が弱い。

 

目の前の敵と戦うのは当然だが、自党のために戦うのと、

国民のために戦うのは違う。

また、国民のために戦っても、国民の理解力や思考力や、

批判精神がなければ、撒き餌にすぐつられる浅はかな国民では、ちゃんとした政党は立ち行かない。

 

子供だましという言葉はあるが、国民が子供のままでいてくれた方が、何かと都合がよい。

 

テレビもスポンサーが流す宣伝放送になっているので、

どうしても大きなものの意見を代弁する。

 

さて、同性婚カップルの難民認定を他国にしてもらう国日本の家族政策は、本質的にどのようなものか。

 

そして、その家族政策が何をもたらしたかは、検証の価値がある。

下手なその場しのぎの経済対策などよりよほど重要と考えるが、そのような分野の専門家の意見を、テレビや新聞で見ることは少ない。

 

日本は夫婦別姓に距離を置く国会議員が多数派を占めている。つまり、伝統的な家族を維持しようという国だ。

男女の結婚でもそのような伝統を維持するだから、

増して同性婚は国が法的に認めるような整備をするはずがない。決定権を握っているのは国会議員である。

 

つまり、世の中は激しく変わり、家族の在り方も変わり

子供をめぐる状況も変わっている中で、家族だけは従来のままというのが、国の方針だ。

 

大多数の人はそれで困らないが、これだけ世の中が流動的になると、いろいろな家族関係や親子関係が発生する。

その時に、いろいろな事情でそうなった家族の在り方について、国民の当たり前の在り方を制限して、受けられる補助や保護を外して、そのような人の生き方を排除するのは、

おそらく憲法違反だ。

 

国民の在り方の違いを、政策で制限する権利が

果たして国会議員にあるのか。

 

憲法というのは、一人一人では本当に無力な国民を

権力を持った国の横暴から守るという側面があるのではないか。

 

最近は司法も、少し復活してきたが

トランプがアメリカでやったように、

人事権を握って、担当裁判官の人生を人質に取って

政策に批判的な人を、守らないという事態が横行した。

各省庁も人事権を握られたので、その道のプロが

真剣に考えた政策は、国会議員と一部有力な経済人の

誘導的な政策にかなわない。

 

そして決定にかかわるすべての情報は、秘匿されるので、

誰の責任でこういう状況になったかわからないようにされている。

 

これでは、独裁国家と何ら変わらない。

まだ、暗殺とか拘束のような秘密警察的面がないだけましか。

 

国民に食わせるために国家は必要だが、

餌をやるのは卵を産む鶏だけ。

文句を言うなら、檻の外に行って野良猫にでも食われればいい。いう事聞かない子供は、お仕置き部屋に閉じ込めていい。こういうことをやっていい国家を、国民主権と呼べるのか。

 

もう一つ家族の在り方に関して、疑問に思うことが一つ。

同性婚が法的に守られないことと通底していると思うのだが、天皇家は男系男子だけが跡継ぎになれて、女性皇族は結婚すると、皇族を離脱するというあり方。

 

天皇家は人間ではないという事か?

神のままという事か。

国民が普通に持っている権利を放棄して、象徴として

存在するから、一般人のように考えてはいけないということなのだろうか。この辺の憲法的な解釈がわからない。

 

私など一般人は、愛子さまが次期天皇でいいような気もするし、長い天皇家の歴史を見れば、平安時代の藤原氏のように、天皇家というより、藤原家の血の方が濃いように感じる時代もあったはずなのに、なぜ、この時代に男系男子でなければいけないのか、論理的にはわからない。

 

おそらくこれは、しきたりで、そういうものなのだろう。

神の領域だから、下々のものが言及することさえはばかられることなのだろう。

 

ま、これは、荒唐無稽な、世迷言なので、絶対にありえない仮定上の話だが、仮に天皇家の人が人でなく神であらねばならないとした時、人の部分が強く認識され、人の部分の法整備が自分にはないと思ったとき、どうなるのだろう。