今日も日曜日の夜は更け、

風呂にも入ったし、あとは寝るばかりである。

体のほてりが引ける頃、寝るとしよう。

 

それまでの間、

風呂の湯に温められた、頭が思いついた

夢物語を、すこし。

 

光る君へは、天然痘京都蔓延のシーンが描かれていた。

まひろも感染するが、なぜか回復。

この天然痘は京都市内の半数が死んだという話だから、

それからすると、治り方が安易だった。

 

まあ、それはドラマだからいいとする。

それより、隆家が内大臣になったとき

道兼に向かって言ったセリフが心に残る。

最初は年長者に一応助力をお願いすると言っておきながら

疫病対策について意見を求められたとき

隆家が政治家としては何もしない意の発言をして

それでは内大臣は務まらぬと道兼に言われたとき

隆家は、

「あなたは今まで何かしてきたのか、何もせぬ方がよい」

という趣旨の発言をした。

 

道兼が言うのは真っ当。庶民のためを考えて、

政治を行えと。

しかし、隆家は、父道隆の権力をかさに着て、何もしない。

つまりは、権力があれば、

権力者であれば、それで政治家が務まる日本社会は

メンバーシップ型社会で、ジョブ型社会ではないということだ。

 

これは、花咲舞のドラマも銀行を舞台にしているが、

結局「あなた一人が何を言おうが、この銀行は変わらない」

 

つまり、日本社会はこういう社会だ。

 

と思った瞬間、

なぜか、自分の頭は卑弥呼を思い出した。

国内に騒乱が生じた時、男王では収まらず、

卑弥呼が王位についた時、なぜか世の中は収まった

というあのくだりだ。

 

結局、光る君では、天皇という存在が卑弥呼だ。

何かをするというのではなく、

何かであるから、それに従う。

賢い闘争防止装置であるが、

問題は常に先送りされ、

最高権力者の下につく実質のボスが、この世を仕切る。

藤原氏が、光る君では、そのボスで、

おそらく、ずっと誰かが、個人的に日本を仕切ってきた。

 

光る君へは、聞くところによると、

この世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることのなしと思へば

のあの歌が、摂関政治感性の独裁制なれりの歌ではなく、

我が家の平穏がなったという歌だとする新説に基づいているらしい。

 

だから、道長はいろいろと肯定的に描かれているのだ。

大鏡などでは、道長は、権力を手中にするため、結構強引なことをする的に教えられた気がするが、

実は、道隆や隆家、伊周などがダメなほうで、

道長は、まひろとともに、民のために政治をする方の人間として描かれている。

 

相当道長に対するイメージも違ってきている。

いまは、道長は藤原兼家の3男(もっといたらしいけれど時姫由来の3男)として、藤原氏であるという政治家ではなく、何をするかの方の政治家として描かれている。

 

つまりは、花咲舞はまひろかもしれない。

 

ジャンヌダルクもなんだか似ているが、

結局男社会の抗争を違った視点から、別な世に換えていく力があるのは、実は何物でもない女性が

何かをするからかもしれない。

 

今まで積み上げてきた、権力という家の中で、トップになりさえすれば、あとは知らぬ、権力の維持だけに執心するというボス猿としての男は、社会を停滞させる。

 

人事権を握って、露骨に身内びいきする兼家、道隆は

今の世にも政治家として存在する。

 

結局は人事権さえ握れば、正しいことを追求する必要がないと考える権力者が日本的だ。

 

そして、民衆も仲間になっていれば、そのほうが得をするから、悪いやつでも尻尾を振るか、いい奴にしか見えないかどちらかだ。

 

天然痘が蔓延した2年後、道隆も道兼も死ぬらしい。

まひろこと紫式部は生没年が未詳で、結構謎に包まれている。道長も生き残る。

 

天は、意外にちゃんと見ているのかもしrてない。

しかし、定子は24歳で死ぬはずだ。

 

実資は小右記を書いて愚痴っているらしいが、

これなど、学者の暴露記事か、左派系の新聞記事かっていう所。

 

言ってもどうにもならぬ思いを記録にとどめる。

後世には伝わる。

 

考えてみれば、誰が今の世の中を動かしているかは、

政治の世界にいる人はみんな知っていて、

でも、本当のことは絶対に口外できない。

一般庶民は本当のことを知らない。

で、結局一人の権力者がすべてを決める。

 

民主主義の形式は取っているが、

実質は変わらない。

見せかけの最高権力者を隠れ蓑にして、

本当の実力者の責任が問われないように、物事を決める社会

こういう国の方が、結局問題を直視しないので、

国民はいつも文句は、小言はいうけれど、

先送りしている内に、問題の関係者も死に絶え、

社会環境も変わって、問題解決をしなくても、よくなる時代が来る。

 

時が解決するという、手法が、日本的なのかもしれない。

まったく好きではないが。

 

この先の興味は、では、藤原一族のやり方に違和感を持ち

まひろ的な行動に近い道長が、自分の死後につながる

何か日本社会を、それまでの藤原政治から変える事業を成し遂げたのか、それは何として描かれるのか、という点である。

 

花咲舞の方は、半沢直樹のように結構局地戦では勝っていくが、結局銀行は変わらなかったという落ちだったような気がする。

 

どうなるんだろう。

今の政治は自民党政治だ。

派閥は、結局は藤原一族の他家と同じだ。その他の一族源氏とかは、派閥のようなもんだろう。

派閥って言っても、道隆に逆らえば、ポストにつけないのだから、結局は意味のないもの。派閥の長が、道隆に気に入られれば、そのつてでポストが回ってくる。

 

実績ではなく、~であるという存在感が大事だ。

昔は学歴だったような気もするが、今は金だな。

金さえあれば、どうにでもなる。

そんな気がする。

あとは、テレビに出た時に、おかしな言動をとらないことだ。国会での質疑があまりにひどい人も、いるから、

あれは何らかのお家の事情で、指名された人事なんだろう。

実績がある能力のある人がポストにつかないの政治が停滞し、国民生活もよくならないのに、権力を維持するためには他家のお家事情に首を突っ込めないので、結局派閥にお任せすると、変な人がなったりする。

 

説明責任とかという、個人のせいにせざるを得ないのは、任命責任は自分にはなく、派閥の長が決めたことだという、遠回しな表現のようにも聞こえるが、これはうがちすぎだな。

 

ああ、風呂のお湯で見た夢もそろそろ終わりが近い。

自分が何を考えたかすら、覚えていない。

体も冷えた。

寝るとするか。