厚切りジェイソンがクイズ番組に噛みついた。

ホワイジャパニーズピーポーといったかどうかは定かでないが、次のようにコメントしている。

 

「Qさまは結局、ものごとを暗記できてるかどうかのチェックみたいなもんでしょ。論理的思考を何も問われていない。どのくらい丸ごと暗記できたのかというだけなら、それを高学歴と言うんですか」

 

これは確かに、その通りだ。

ジェイソンは批判的に言ったのか、お笑いのネタとして言ったのか、判然としないが、

私が思うその通りも、そう簡単な意味合いではない。

 

暗記=高学歴は事実だ。

しかし、それが悪いかどうかは微妙。

これが一応の結論か。

そのうえで、日本社会が閉塞しているのは「暗記=高学歴」が原因だと思うのである。

 

まず、暗記=高学歴、論理力は問われないは、ほとんど正解だ。

まず、日本では学歴を得るためには、大学入試共通テストを受ける。昔センター試験とか共通一次とか言ったやつだ。

これは、多数の5教科7科目とかを二日で受験するマーク型客観試験だ。

 

これも暗記型だとか知識型だとかという批判があり、

一応、考える力を問うために、工夫を凝らしている。

しかし、正解への道筋や、解くための基本事項は覚えていることが前提なので、結局知識型試験だ。

 

そして、思考力を問うために工夫しても、予備校や塾で問題分析をして、その場で考えなくてもいいように、

試験の形式丸ごとの回答法なり、対策が知識に落とされている。考える力を問うために工夫を凝らしすぎると、受験生のもともとそんな力がないもんだから、平均点が劇下がりして、次年度は知識型に戻る。

 

さらに国語や英語で、いや、その他の教科もだが、

生徒や先生が出てきて、会話しながら問題内容を聞いたり、

やたらに語数を増やして、情報処理系の問題に最近はなっているが、これも、論理力というより、情報処理速度を聞いていることになっている。なぜかといえば、本質的に論理を問うと、そういう論理に対応できるのは上位層だけで、

中下位層は軒並み低得点になり、頭のポテンシャルで格差がつくことになり、それなら学校での学習が水泡に帰す恐れがあるからだ。難しい論理は聞くことはできず、論理的道筋を会話にすれば、薄い論理と語数の上昇を生み、結局は論理より知識で対応できるか、スピード勝負になる。

 

論理力は、なだらかに差がつくというよりは、明確に解けない層が分離する。だから、本当に優秀な人を選別する試験としては必須だが、全国の高校生が解くため問題としては、不適切となる。

 

だったら個別学力試験でその論理力を見ればいいということになるが、残念ながら、一次試験で高得点を取らなければ、論理力を問う二次試験に進めない。足きりがある。

 

二次試験が配点が高く、逆転を認める難関大学は一定数存在するので、ここに論理力を示す場がありそうだが、ここもよく観察すると、知識型試験になる要素がある。

 

過去問の存在がある。塾の存在がある。予備校がある。

過去問を徹底的に分析し、回答法を編み出し、知識で行ける部分までは完璧にし、さらに予想問題を数多く取り上げ、この問題はこう解くと、徹底的に練習すると、もはやこれはその生徒の論理力ではなく、知識である。

 

試験は常に止まる。

対策は綿密に練られる。

つまり、資金力があればあるほど、徹底的に対策を立てられるから、暗記でなんとかなるのだ。

 

日本型の試験の問題点がここにある。

余りに条件を整えることに縛られすぎて、臨機応変な柔軟な試験を実施できないので、本当に対策しようのない、思考力や論理力を問う試験にならない。

 

日本社会はこのように、ゴールが決まっている。

つまりは答えが決まっている。

その答えに早く到達した人が勝利者になるシステムだから、

その答えを覚えたり、答えの出し方を覚えた人が高学歴者になるのである。

 

逆に、答えが決まっていなければ、その場で、様々な方向性の多様な解答が出され、その答えの将来性で優秀性が決まる。おそらくその方が、真に優秀だと思われるが、ここに説明責任という厄介な足かせがまとわりついてきて、

なぜ、彼の答えが優秀かを説明しなければ、納得しない凡人が世の中の大多数だから、真に優秀な人は選ばれにくい。

 

大体世間の凡人が納得できる程度の説明で、本当に優秀な人を理解できるのかが問題だ。選ぶ人の優秀性と、問題の個性と、受験生の能力を信じなければ、試験は成立しない。

 

ジェイソンとかが受ける試験というのは、人対人で、その場で認められた優秀性というものではないか。

日本では、人間を信用しない。だから、教授の採点より、マーク型に説明責任を渡すのである。東大などでは、解答例を発表しない(国語)。これは国語のようにいろいろな解答例がある場合、発表すると、さらに対策が進むし、その回答に噛みつく予備校とかがあって、大学がとりたいと考えて取った生徒に疑問符が付く可能性があるのである。

 

もし、大学の出題や解答や採点に疑問符をつけるのなら、

そんなにその大学の試験を信用しないなら、受けなければいいのにと思う。

 

だから、どんどん正確性を求めると、どんどん答えは一つに決まり、客観性が高まるということはその大学の個別性が失われるということになり、それはその大学に入ることを無意味にすることにつながるので、だったら何が高学歴かということになる。

 

学問はテストの総合点で決まるものではない。大学というのはそういうもので、そういう点で高学歴と思われるものは、内容ではなく、大学名だということになり、

それは高学歴という答えがあれば、それで終わりということで、そこには論理性も思考力もない。

 

だから、ジェイソンが言う通り、日本の高学歴は

答えが一つに決まった終わりを意味していて、その先の多様性や新たな展開をもたらすものではないといえる。

 

だから、日本社会は閉塞感が漂う。

過去の栄光が未来をつぶす社会。

 

まあ、もちろんことはそんなに単純ではなく、

暗記ができる人は優秀なので、論理力でもそんなにひどくはない。むしろ優秀。だから、結局暗記でいいじゃんということにもなるが、でも、論理力とか、多様な答えとか不正解に見えても、将来開花する可能性のある答えが、埋もれる可能性が高い。

 

こういう、安定化社会は、効率が悪い。

何とかならんもんかね。