資本主義とは、資本が一番だということ。

ということはつまり、人間は資本以下ということ。

 

別な視点から話せば、サッカーは人間がいなければ、試合になあないが、大事なのはサッカーというゲームとルールであり、その中で、競い合うのである。つまりはあなたが競えるわけではない。

だから、あなたに価値はなく、サッカーというルールの中で、勝てる人にしか価値がない。

 

政治というのは、何だろう。つまりはサッカーというゲームを運営している役員たちであろう。試合会場が必要なら作り、そこで売るTシャツがあれば、販売許可を与える。入場料は適切に設定され、お金をどう使うかは、自由だ。

 

一応、役員は選挙で選ばれるが、サッカーを見たい人は、相撲を運営すると言っている人を選ばなないだろうから、おそらく、政権は変わりえない。資本主義は誰にでもお金を得られる可能性が残されているので、その可能性という自由を失いたくはない。

 

資本主義は、お金を多く得れば勝ちというゲームで、サッカーに似ている。一応平等に見えるが、そして勝つ可能性は%ではないが、オリンピック代表と小学生の素人のチームが、同じ条件で自由に戦ったら、どうなるか分かるだろう。

 

政府はだから、自由に戦うと、壊滅的に負ける素人をどうするかが一応の仕事である。サッカーでは勝てないから、サッカー場の掃除を割り当ててもらえる。サッカー場の外で、お土産を売ることも許される。サッカー選手を運ぶ仕事もある。したがってサッカー運営委員会のいうことに従っていれば、生きる手段は確保される。

 

つまりはサッカーの試合が儲かれば周辺にいろんな仕事が生まれるので、人々は熱狂的にサッカーの運営を支持する。

 

でも、サッカーの試合が行われなければ、一気に周辺の仕事もなくなるので、野球でもいいかと思い始める。でも、やることは同じだ。結局興行主がすべてを仕切り、人々は、その中での自由しかない。

 

でも、それ以外に生きる道が無いように見えるから、誰もサッカー運営委員会も野球運営委員会も捨てられない。

もし、好きなことをやって生きていけるなら、それもいいが、一度ナイターの照明に照らされ、輝かし世界と、スター選手の華麗なプレーを見てしまえば、そこから離れることは不可能だ。

 

資本主義は、傾きのある社会だ。傾きがきつくて水の流れが速いほど、大きな発電力が生まれる。もし、社会だ平らで水が流れないと、発電はできない。水は流れなくなり、社会は腐敗する。だから、次つぎとあたらいい傾きを作って、同じ量の水を流し続けなければいけない。傾きは政治のたびに公約として、今度はこっちを持ち上げるから、そうなれば得するでしょ、という約束で、社会を変える。

 

社会の傾きは、法律と新規事業で形成されるので、新しい傾きを作り、そこに生じる利権を共有することで、政治家と儲ける人が新しいサッカーを生み出す。

 

もし、儲けたければ、このゲームに参加しなっていうのが政策だ。

さあ、どうするのだろう。

 

格差が大きければ大きいほど、水の流れは急激で、その水流が大きな発電力を生み、明るい社会が生まれる。一方下流にいる人は、水の流れが強いので、おぼれそうになり、必死でもがくが、時々政府の人が浮き輪を投げてくれるので、ギリギリ生きる。

 

資本主義っていうのは、凄い制度だ。

おそらく産業革命の辺りから、世界を覆った、新宗教だろう。それに立ち向かうことはほとんど不可能だ。異教徒や異端になるのも相当絶望的だ。

 

そう考えると、中世を席巻した、キリスト教や、仏教、イスラム教などは、それ以前の世界に決別した新しいゲームで、それ以前の社会に対抗して新しいルールを作ったのだから、すごいことだ。

 

いま、資本主義が世界宗教。

これに対抗し、新しい世界を作らねばならぬほど、世界は多分絶望していていない。

 

コロナの状況が続けば、もしかすると新宗教が必要にもなるだろうが、そろそろコロナも収束し始めた。

 

さ、どうなる。

でも、そういう新しい時代観を持ったリーダーはいるのか、選べるのか。