熊野古道・紀伊路12[長岡王子~境橋](09/07/26)
7月26日分のつづきです。
岡中鎮守社を出て、しばらく歩くとコンビニがありましたので、
お昼ご飯にはちょっと時間が早かったのですが、
弁当を買い、冷房のよく効いた店の中で食べさせてもらいました。
JR阪和線の和泉鳥取駅近くにある
鳥居の前から左(東)へ折れ、山中川沿いに
「平安の小径」と名付けられた自然道を歩きます。
日陰に風が流れ、少し涼しく気持ちよかったです。
しばらく歩くと、「琵琶ケ岸懸(びわががけ)」です。
熊野詣をする琵琶法師が、琵琶を背にこの谷まで来た時、一陣の突風に思わず杖を取られ、真っ逆さまに山中川に転落してしまいました。法師のなきがらは川底に横たわり、愛用の琵琶が途中の崖の木に引っ掛かっていたといいます。
その後、谷底を流れる水音が「コロン、コロン」と琵琶を奏でるように聞こえるので、人々はこの谷を「琵琶ケ岸懸」と呼ぶようになったと伝えられています。
熊野古道の山中川沿いに進むこの道は、きわめて危険で、熊野参詣の難所の一つと言われていました。
上の写真のように、今も人一人が通れるくらいの道幅で、安全のため、手で持つためのロープが張られていました。
この自然道を抜けた所に「地蔵堂王子」がありました。
「山中の足神さん」として信仰されていました。
阪南市内には、馬目王子と地蔵堂王子の
二つの王子がありました。
馬目王子は、大阪府最後の王子です。
「山中公立小学校跡(堺県立第五十一番小学)」
ここは、「筆神」ともよばれ、
勉強で使い古した筆をここにまつっていたそうです
石畳で整備された道など、
宿場町の雰囲気を感じられます。
阪南市の山中渓は、和泉山脈から流れ出る山中川の渓流地帯です。
雄山峠(おのやまとうげ)越えで和泉と紀伊を結ぶ古道が通っており、桓武天皇も紀伊御幸の帰途、この雄山峠を利用するなど様々な人々が往来しました。
古くは「南海道」と呼ばれ、山中村に関所がありました。
「道祖神(賽之神(さえのかみ))」
山中の南の入口に鎮座し、南からの邪神、疫病が入り来るのをさえぎり、また熊野詣の旅人の道中の安全を守ってきました。
江戸時代、紀州藩では、毎年12月20日に犯罪者や悪疫の病人を境橋から和泉の国に追放していました。
山中のこの地では、「はての二十日のろうばらい」といって戸を閉めきり悪疫の退散を願いました。
当時、山中で被害が少なかったのは、賽之神のおかげだったといわれています。
JR阪和線「山中渓駅(やまなかだに)」
桜の季節には、山中川両岸の
ソメイヨシノと山桜はとてもきれいだそうです。
「山中関所跡」
この地は、東西から山がせまり、間に川が流れ、関所としては最適な場所です。
南北朝時代には、岸の和田氏の一族橋本正高氏がここに関所を設けて関銭を課しました。
応永2年(1395)、長慶天皇が河内の観心寺・法華堂の造営のために、ここ山中の関所で関銭を課しました。
村の人は、ここを「ほけんとう」と今でも呼んでいますが、「ほっけどう」が「ほけんとう」に変わったものであろうといわれています。
この関所は、江戸時代に入って廃止されました。
阪和自動車道とJR線路に沿ってしばらく歩きます。
「日本最後の仇討ち場」跡碑
安政4年(1857)、土佐藩士広井大六は同藩士棚橋三郎に口論の末、切り捨てられました。
大六の息子岩之助は、江戸に申し出て、安政5年に「仇討ち免許状」を与えられました。
岩之助は、加太にひそんでいた三郎を発見し、紀州藩へあらためてあだ討ちを申し出たところ、紀州藩としては「三郎を国払いとし、境橋より追放するので、あだ討ちをしたければ、境橋付近、和泉側にてすべし・・・・・」と伝えました。
文久3年(1863)、岩之助は境橋の北側で三郎を待ち受け、見事にあだ討ちを果たしたとされています。
これが、日本で許された最後の仇討ちであると伝えられています。
石碑の向こうに小さい橋・境橋があります。
この橋を渡ると、和歌山県です。
左上の高架は、阪和自動車道です。
続きは、後日記します。












