熊野古道・紀伊路10[泉佐野~厩戸王子](09/07/26) | 野間洋服店

熊野古道・紀伊路10[泉佐野~厩戸王子](09/07/26)

7月26日(日)、4回目の熊野街道歩きに出かけました。


梅雨は、まだまだ明けないようで、

九州や中国地方では、

大雨により大きな被害が出ているようです。


朝の天気予報で、

大阪・和歌山の降水確率は50%ということでしたので、

曇り空の中、家を出ました。


6時40分、南海・難波発の関空快速で泉佐野へ向かいました。


泉佐野で下車し、前回の続きの佐野高校前からスタートしました。


市場町に立つ「すぐ和歌山道」の道標

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「関西空港自動車道」(左)と「JR関西空港線」(右)を

くぐって、南へ歩きます。
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「日根神社御旅所」ですが、何もありませんでした。
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畑の中にある「八丁畷地蔵」
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「塙 団右衛門(ばんだんえもん)の五輪塔」
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慶長20年(1615)の豊臣方と徳川方が戦った大坂夏の陣の樫井合戦で討死にした塙 団右衛門直之の五輪塔です。

団右衛門は、尾張国羽栗の人で、加藤嘉明に仕え、朝鮮の役で軍功をあげ、名を知られたが、関ヶ原の戦い(1600)以後、浪人して僧となり、鉄牛(てつぎゅう)と号しました。


大坂冬の陣(1614)が起きると豊臣方に属し、大坂城に入城しました。

翌年4月、夏の陣がおこると、豊臣方は徳川方の紀州和歌山城主浅野長晟(あさのながあきら)の軍と戦うべく泉州に進みました。

団右衛門は、先鋒隊を率い、淡輪六郎兵衛らとともに4月29日早朝に熊野街道を南下し、樫井で待ち構える浅野軍に突入しました。

安松、岡本、樫井で激戦が展開されましたが、大坂方は破れ、団右衛門はこの地で討死しました。48歳だったそうです。

団右衛門を討ったのは、上田宗箇、亀田大隅、八木新左衛門などという説があるようですが、一定はしないようです。


五輪塔は、寛永8年(1631)に紀州の士・小笠原作右衛門が建立し、石灯籠は八木新左衛門の孫が奉納したそうです。



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樫井の街道の古い大きな屋敷の門には、

つばめの巣がたくさんありました。

もうすぐ、巣立ちのようです。


「籾井王子(樫井王子)」跡へ行きましたが、

個人のお宅の庭の中にありましたので、

近くまで行けませんでした。



「淡輪六郎兵衛(たんのわ ろくろうべえ)の

宝篋印塔(ほうきょういんとう)」
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淡輪氏は古くから和泉国淡輪(現岬町)の豪族でありました。

六郎兵衛の姉は、豊臣秀次の側室・小督局(おごうのつぼね)で、その子お菊も夫とともに豊臣方として大坂夏の陣・樫井合戦を戦いました。

六郎兵衛は、4月29日の樫井合戦で塙団右衛門とともにこの地で討死にしました。


樫井川・明治大橋端に立つ

「大坂夏の陣・樫井古戦場跡」碑
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横に立つ石碑には、徳川方の充分な戦略と、

豊臣方の失敗の説明が記されていました。


大坂夏の陣緒戦の樫井合戦の敗北が、

大坂方の士気に大きく響き、この後すぐ、

5月7日に堅固を誇った大坂城が落城し、

豊臣氏が滅亡しました。


合戦が繰り広げられた「樫井川・河原」

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「一岡神社」
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一岡神社内にある「海会寺(かいえじ)跡」
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白鳳時代に建立された

七堂伽藍(法隆寺式伽藍配置)の海会寺跡



「海営宮池」
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行基によって造られたため池。


この池を見ている時、

歩けないほどの大雨が降り始めましたので、

傘をさしてじっと立っていました。

5分ほどで雨はあがり、すぐに快晴に戻りました。



「厩戸王子跡」
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すぐ近くの海営寺(海会寺)を建立した聖徳太子(厩戸皇子)に

ちなんだ王子(だと思います)



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このあと、信達の宿場町へ入ります。

続きは、後日記します。


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