下北沢にはなんにもなかった、日本語だらけで何を見ていたらいいかわからないので記憶をかき混ぜるのに必死をこいていた。あげくそうやって入ったエスニックな洋服屋にも日本語の影が!!!!! 日本語的なズボンばっかりで買う気にもならないし900円のとんこつラーメンなんか食べたら福岡に帰りたくなって記憶を先の方へすっ飛ばして、故郷をたどった。日本語の整列が前倣えしていた。
iPhoneをかざして姿を平面的にうつしたラッキーからはラッキーの殆どがこぼれ落ちちゃって、かなしい、すごくかなしい、あの人懐っこくなさも臆病なところも下に見たやつには吠えるところも画素数も、何もかもが足りない、それは書くということもおなじ、ブログはぼくからこぼれ落ちるものを泣きながら、ごめんごめんねと謝りながら書いている、ドの音とレの音と、それ以外のミファソラシだって一気に鳴らしてあげてもいいはずで、もっといえばその間に存在する子供たちを捻り潰すような真似をピアノっていうのは平気でするから、やっぱり泣きながら鍵盤をたたく。拾い集めても拾い集めても足りないときに人は一緒に暮らそうと思うのだろう、やっぱりインドとか行く人はちゃんと周りの人を見てないから嫌われる、インドのほうがよっぽど変な人も少ないし、それは外国語は全部教科書のポピュラリティを介しているからだよ、それは果たして交流などではなくすれ違いというのだ。日本でだってめちゃくちゃです、ポピュラリティを介して会話なんてしてはいけない。あの映画どう、とか、あの音楽がどう、とかそんなのはその人のことを見ずに思い出すために思い出しているだけなのだから、人はいつも武蔵野を思い出しながらお喋りしていて、そのくせ真実の愛がないとか泣いているのはそれはお前が悪い、会話を改めるべきだ。喫茶店で黙りこくってコーヒーを飲んで飲んで、タバコを数え切れないように吸って顔を突き合わせて4、5時間そこでこうやって口を開くのだ。「きみの、かおが好きだよ」
