焼きそばパンの袋は、なぜあんなに湿っているのかについての非体系的考察 | テツになる勇気。

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ある日の昼下がり、私はふと焼きそばパンの袋の湿り気について考え始めた。正確には、コンビニで買ってきた焼きそばパンを机の上に置いて、まだ開けてもいないのに表面がほんのり湿っていたことに気がついたとき、私の心に何かが引っかかったのだ。

あれは湿気だろうか?それとも、パンと焼きそばの接触面で生じた水蒸気が、包装ビニールという極めて受動的な境界面に凝縮してしまったものだろうか?いや、そんな科学的に精密な議論をしたいわけではない。問題は、なぜ私がそれに気を取られてしまったか、という点にある。

 

焼きそばパンは、多くの場合、昼食の一候補として挙げられる。しかし、あくまで「一候補」であって、無二の選択ではない。たとえばカツサンド、ハムチーズロール、あるいはツナマヨおにぎりのほうが勝る瞬間もある。だが焼きそばパンは、いつもそこにある。もしかすると、それが人間関係のように見えてしまったのかもしれない。

 

湿った袋は、遠慮がちな存在感を放っていた。まるで、「食べなくてもいいけど、私はここにいますよ」とでも言いたげな佇まいで、他の棚のパンたちに比べて明らかに控えめだった。私はその控えめさに負けた。いや、むしろ「勝った」と言うべきかもしれない。自らの存在を主張せず、ただ棚に鎮座しているその姿勢に、ある種の静けさと誠実さを感じてしまったのだ。

 

買ってしまった焼きそばパンを、私は袋のまま見つめた。開けるべきか、開けざるべきか。袋の湿り気は、時間とともにさらに曖昧な質感へと変わり、指先が少しだけ濡れた。そしてその時、不思議な感情がこみ上げてきた。これは湿気ではない、パンの涙かもしれない——そんな思考が、頭をよぎった。

 

焼きそばパンが泣くはずはない、と理性が諭す。一方で、「でも、泣いているように見えるじゃないか」と感情が反論する。その矛盾の中で私は袋を開けた。蒸気がふわりと立ちのぼる。焼きそばパン特有のソースの匂いが、何ともいえない「日常性」を突きつけてきた。それは休日の部屋干しの匂いとも、古びた中学校の家庭科室の記憶とも交差するような、不安定な郷愁だった。

 

ここで「なぜ焼きそばパンは存在するのか」という命題に立ち返ってみたい。炭水化物 in 炭水化物、という構造の妙。パンの中に焼きそば。パンも焼きそばも、単体で主食足り得る存在であるにもかかわらず、なぜ合体させられる運命にあるのか。私はこの問いに数年間向き合ってきたわけではないが、瞬間的に深い溝を覗いた気がした。

 

焼きそばパンは、自己矛盾の権化だ。おにぎらずのように新しい形式を持っているわけでもなく、ラップサンドのような洒落た名前もない。ただ「焼きそばパン」。そのストレートすぎるネーミングには、何の装飾もない事実性がある。だが、現実とはそんなものであり、名を変えても中身は変わらないという厳然たる哲学すら含んでいるのかもしれない。

 

私はパンを一口かじった。ソースが舌に広がる。少し甘い。そして、妙に空虚だった。だがそれが悪いわけではない。むしろ、空虚さというのは、味覚における「隙」だ。そこに何か別の意味を見出そうとするのは、食べる側の想像力であり、創造性だろう。だから私は、あえて言いたい。この焼きそばパンには、文学的余白がある、と。

 

…とはいえ、それを誰に言うのだろう。職場の同僚にそんな話をしても、「で、うまかったの?」で終わるに違いない。それが現実だ。焼きそばパンについて1000字以上語る意味はどこにあるのか、と問われれば、「ない」としか答えられない。だが、意味のないことを考える時間こそ、もしかすると一番意味があるのではないか。いや、違うかもしれない。やっぱり意味がないのかもしれない。でも、それでも私はこの湿ったパンの袋の存在を無視できなかった。

 

そしてまた、今日も棚の一角に、何かを語りかけてくるような焼きそばパンがある。袋の表面にかすかに浮かぶ水滴。それはもしかしたら、明日について何かを予感させているのかもしれないし、ただの冷蔵庫内の対流の結果かもしれない。でも、そんなことはどうでもいい。私は、ただそれがそこにあるという事実を、無駄に覚えていたいと思う。